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命の泉から

2025.6.1.主日礼拝

詩編42:2-5、ヨハネ4:7-15  

「命の水の泉から」浅原一泰

 

「シャローム」。主にある平和がありますように。それは誰が聞いても悪い気はしない、聞き心地の良い言葉かもしれない。教会はそういうところなのか、と思ってくれる人もあるかもしれない。それなら、友人知人を誘ってみよう、と思う人もあるかもしれない。しかしそれがただのきれいごとだとしたら。そのような言葉を語って表面だけを綺麗に着飾って見せているだけの場所が教会だとしたら。それは実に重い罪ではなのではないかと感じている。本当の平和とは何であるのか。それをもたらすのは誰であるのか。なぜそれが平和であるのか。そのことをはっきりと伝えることもしないで、人間の罪がどれほど重く根深く救いようのないものであるかを認めもしないで、ただキリストの十字架によって皆さんは赦されているのだからと言う一言で片づけているだけなら、先週の繰り返しになるが、そこには決して神の国は芽生えないだろう。

 

今朝の御言葉の中でイエスは言っていた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生ける水を与えたことであろう。」

 

これは我々と同じただの人間、罪人の言葉ではなかった。人となった神イエスの言葉である。この言葉の中に、神の賜物とは何か、また教会とは本来どのような場所であるのかが示されていると思う。

 

先ほど話題に取り上げた平和も、加えて健康や安心も皆、神の賜物だとしよう。ならばそれらは皆、あなたに溢れるばかりに与えられるとイエスは言っているであろうか。何もしない者、取り返しのつかない過ちを犯したくせに指をくわえて見ているだけの者にも無制限にそれは与えられる、とイエスは言っていただろうか。そうではない。それは、あなたの方から頼むことだ、とイエスは言ったのである。目があっても見えない者、聞く耳を持たない者が神の賜物が何であるのかに気づき、またそれを届けるのが誰であるかに気づいたなら、必ず自分から頼み求めるようになる。イエスはそう言ったのである。

 

あなたから捜し求めずにはいられなくなる。なぜならそれなしでは生きられないから。本当の神の賜物とはそのようなものだとイエスは言った。そして、神と被造物が、イエスと罪人とが本当に出会うならば必ずそうなると言ったのである。それは駅前で配られるティッシュやチラシとは違う。神の賜物は決して見境なくばらまかれるものではない。イエスとの本当の出会いは決してそのようなものではない。

ならば、一体どうすれば罪にまみれた人間は本当の神の賜物に気づくのだろう。見えない人間はどうして、それを与えてくれるイエスに出会うことが出来るのであろうか。

 

「水を飲ませてください」。

罪人が言ったのではない。サマリアの女にそう頼んでいたのはイエスの方であった。この「水」はどういう水であろう。「飲ませてください」と言う以上それは「飲み水」である。女が井戸に水を汲みに来ていたこの場面でその水は、地上の湧き出る水以外の何物でもない。サマリアのシカルと言う町に、あのイサクの子ヤコブが井戸を掘った、と言う言い伝えは旧約聖書のどこにもないが、12節に書かれている如くこの地方の住民は昔から、その井戸をイスラエルの先祖ヤコブが掘ったものとして有難がっていたのであろう。その水を飲ませてください、とイエスは女に頼んだ。

 

すると女は「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」と切り返した。ユダヤとサマリアと言う場所は、元々は同じ神を信じてたがある時から憎み合い攻撃し合うような、互いに相手を消そうと狙っているおぞましい敵対関係にあった。「御子は、肉によればダビデの子孫として生まれ」とロマ書の中にも謳われているように、肉によればイエスはユダヤ人であった。そのイエスをサマリアの女が訝しがるのも何ら不自然ではなかったのである。

しかしながら、肉によればユダヤ人であっても人となられた神であるイエスがここで「あなたが飲んでいるのと同じ水を飲ませてほしい」と頼んでいる。それは実は目があっても見えずに背を向けて神の敵となっている我ら罪人にイエスの方から歩み寄り、何とか我々の心を開こうとしている姿であった。

 

すぐ前の3章では、罪人の中でも知恵と金銭に富んでいたニコデモという人間がイエスを訪ねて気に入られようとするが、イエスは彼に「新たに生まれなければ罪人が神の国を見ることは出来ない」と言って突っぱねる。「母親の胎の中からもう一度生まれることなど無理だ」と訝るニコデモにイエスは告げる。「誰でも水と霊とから生まれなければ神の国には入れないのだ」と。その水は飲み水ではない。地上の湧き水とは全くの別物である。更に2章ではガリラヤのカナでイエスは水をぶどう酒に変える奇跡を起こしている。それはイエスにしかもたらすことの出来ないものであり、教会の聖餐式につながる奇跡だった。人を新たに生まれ変わらせる水と霊と言うのも、本来イエスによってしか実現し得ない洗礼式という奇跡のことである。その水も、或いは聖餐のぶどう酒も単に地上から運ばれて来たものではない。イエス自身がこの世にもたらした水である。そのイエスが今サマリアの女の前に現れ、「水を飲ませてください」と自分から頼んでいるそのわけは、地上の水は私が飲むから、あなたは頼むから私のもたらす水を飲んで欲しいと、罪人に求めさせたかったから、ではないだろうか。

「ユダヤ人のあなたが、サマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませて欲しいと頼むのですか」と切り返した時、女はイエスを自分たちサマリアを迫害するユダヤ人としか見ていない。つまり神が世に遣わした独り子を、神を女は殺していた。しかしイエスは、彼女がそうであるからこそ語り続けた。

「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのが誰であるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生ける水を与えたことであろう」。

その神の賜物とは何であるのか。自分からイエスに頼まずにはいられなくなる「生ける水」とは何であるのか。それは一体何処からくみ上げられるのだろうか。

 

「渇いている者には、命の水の泉から、価なしに飲ませよう」(21:6)

ヨハネ黙示録21章にそのようなイエスの言葉がある。それはイエスによって万物が全て新しくされた時の言葉である。最初のものは過ぎ去ったとイエスが宣言し、最早死はなく、悲しみも嘆きも労苦もないと。神が人と共に住み、人は神の民となる、とイエスが告げた場所での言葉である。

 

命の水。主イエスがもたらす生ける水。それは、地上からくみ上げられたものではない。命の水の泉から飲ませよう、と言われたその水は、神の国から、神とキリストが一つである場所から流れて来る水である。その水を求めさせる為にイエスは女に「地上の水を飲ませて欲しい」と頼んだのである。地上の人間が求めずにはいられなくなるもの、それなしで生きていけないものとは金であり、肉の命の健康であり、或いは上手く立ち回る処世術も入るであろうか。それらは罪の支配下では不可欠と考えられている。そんなものは私が飲むから、頼むからあなたは私の水を飲んでくれと。その一心でイエスは十字架にかかる。そしてその水をもたらすために十字架の死からよみがえる。天に昇って、命の水の泉からその水を汲んで来られる。その水を罪人に求めさせる為、それなしでは救われないこと、神の国に生まれることが出来ないと気づかせるために神とイエスは聖霊を注がれる。キリスト者とは本来、このイエスがもたらす命の水によって洗い清められて新たにされた者であり、洗礼とはそういうものであろう。新たに生まれた後に必要なのは金でも目先の健康でも処世術でもない、自分の罪の重さ根深さに気づかされ散々打ちのめされているからこそ、打ちのめされて立ち直れなくなる思いを何度も味わうからこそ、イエスにしかもたらすことの出来ないもう一つの命の水、つまり聖餐のぶどう酒がなければ生きてはいけない命とされる。それがキリスト者であろう。罪に支配されていた者をその命とする為にイエスは代わりに地上の水を飲んで十字架にかかった。それはその者をイエスと共に十字架につけて死なせ、新たに生まれさせる為、死で終わらない永遠の命へと生まれ変わらせる為である。

 

しかし悲しいかな。ここでは女はそれを飲み水としか思わなかった。あなたはこの井戸の生みの親ヤコブよりも偉いのかと、目も見えず耳も聞こえない頓珍漢なままである。どこまで罪深く救いから遠いままなのか。それでもイエスは彼女を逃さない。だからこそ語りかけることを止めない。むしろ彼女に気づかせようと言葉を続ける。

「この水を飲む者は、誰でもまた渇く。しかし、私が与える水を飲む者は決して渇かない。私が与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水が湧き出る(leaping up)」と。

 

この世でそれなしでは生きられない、と罪人が考えているもの、金や健康など所詮、肉の命を一時は潤しても時が経てばまた渇く、そのようなものでしかない。しかし私が与える水は、それを飲む者を永遠の命に至らせるまで、その者の中で渇くことなく常に満ち溢れる、とイエスは言った。そこまで言われて初めて女は、その水を下さいと、遂に自分からイエスに頼んだ。渇くことのないようにその水を下さいと、イエスに求めた。彼女の目は開かれたのであろうか。悔い改めたのであろうか。

残念ながらそうではない。その井戸に、二度と水を汲みに来ないでも済むようにその水を下さい、」と彼女は求めたのである。自分が楽をする為、自分の為にそれを求めたのである。それ程までも人間は自分本位で根深い罪に汚されている。イエスとの本当の出会いは生まれない。むしろ女は自分から拒んでいる。

それでもなお、だからこそイエスはその場を立ち去らない。我らの側の罪が重いからこそその場に留まり、女の目が開かれるまで、受け入れられるまでイエスは語ることを決して止めない。神の賜物を受け入れさせるためである。

 

イエスが罪人の目を開かせて受け入れさせたい神の賜物。それが神の国である。我々罪人を罪の国ではなくそこに生きる命とするため、新たに生まれさせる為にイエスはこの世に来て、我らに代わって罪の水を飲み死の苦しみを背負っている。その賜物を携えて今、イエスはここで我々に語りかけておられる。

信仰へと未だ至らずに教会の礼拝に集る者は、その目が開かれるまで、この女の前からイエスが立ち去ろうとはしなかったように、その者の前でイエスは立ち止まって、振り向かせよう、気づかせようと語りかけ続けられる。

しかしキリスト者は、最早自分の為に水を求めようなどとは思えなくなる程までに新たに生まれなければならない者ではないだろうか。罪に汚れ蝕まれている我らの全身も、この方のもたらす命の水によって既に洗い清められ、いついかなる時も神の国という賜物を慕い求めて、そこにこそ最早死はなく、悲しみも嘆きも労苦もないと。先に死の眠りに就いた者は目覚めさせられ、神が人と共に住み、人は神の民となるという真の平和が待っていることを信じて、もはやぶどう酒という命の水なしでは生きてはいけない者なのだと。イエスを通して神は今この時も語りかけておられる。我らを、かつての罪の自分へと、戻らせまいとする為である。再びこの世の井戸水を欲しがらせまい、とする為である。それ程までに一人一人を追い求めておられるキリストの業を忘れさせてなるものかと、神は今も思い起こさせ続けて下さっている。

 

 

地上にありながらも、この方に洗い清められ、この方に結ばれ、この方のもたらす命の水に与り続ける光栄に浴している我らに、望み求めるべき飲み水があるとすればただ一つ、それはこの世の井戸水ではない。神の国の、命の水の泉からこの方がもたらす水であると御言葉は告げている。言い換えるなら、この世での平和、幸福、健康を求めるよりも先ず、あなたがたが望み求めるべき命は、神の国の民とされる永遠の命であると。その命に至らせる水を私は注ぎ続けているのだと、イエスはそう語りかけてくださっている。その水を飲ませてくださいと、迷わず揺るがず、真摯に、実直に、祈り求める器となることを、イエスは我らに求めておられる。今までそれを求めなかった者が、この方の声を聞かされ、神の御心に気づかされ、この方に、自分の方から求めるように変えられていくそのような場所こそが教会であり礼拝なのであろう。御心ならば、主であるキリストに助けられて、そのように祈り求める器へと、ご一緒に導かれて共に聖餐に与りたい、と願うのである。