2025.5.25.主日礼拝
創世記3:1-7、ヨハネ1:1-5
「闇は光に勝たない」浅原一泰
先々週、かつて自分が伝道者となるために学びと修練を積んだ東京神学大学を久しぶりに訪ねる機会があった。もう7,8年は足を踏み入れてはいなかったと思う。なぜ訪ねたかというと、年に一回開催されているキリスト教学校における伝道についての研修会があったからである。その内容はさておき、神学大学の教員の顔ぶれも随分と変わっているのに驚かされた。その学びの会の中で、一人の若手の教員が訴えていた。献身者が足りないのですと。今年四月に入学したのは10名ちょっと、しかもその中で日本基督教団の教会から送られて来た神学生は僅かに4,5名であり、これでは無牧となっている教団の教会が増えつつあるのにそこに卒業生を送れない。だからぜひキリスト教学校からも献身の志を持つ若者を送ってください、という切なる訴えであった。
青山学院大学にキリスト教推薦で志願してくる受験生も、確か大半は福音派の教会で育って来た若者のはずである。教団の教会で洗礼を受け、育てられて来た若者が入って来るというケースは殆ど耳にしたことがない。普通の大学でさえそうなのだから、教団の教会から神学校に入ろうと志を持つ者が少ないというのも当然なのだろう。そもそも教団の教会の礼拝には若者が極めて少ない。新来者も多いとは決して言えない。もちろん教会によって違いはあるだろうが、子どもの数も多いとは言えない。幼稚園を併設している教会は日曜日を登園日にしているだろうから自然に多くなるが、そうでない教会にやって来る子供は教会員のお子さんやお孫さん、そしてその周りのお友達くらいに限られる。他に考えられるのは、この教会や近くの教会もそうだろうが、親御さんが受験を考えてお子さんを連れて来られるケースである。ただ、キリスト教学校に携わっている者として思うのは、学校の本来の使命はむしろ、子供たち一人一人に聖書に証しされているキリストに触れさせ、彼らを教会の礼拝に参加するよう背中を押すことであり、神学校に献身者を送る前にまずしなければならないのはそのことなのに、学校に入るために教会に来てもらう、というのはいささか順序が違うようにも思う。更に現実的なことを言えば、中学校高校では日曜日に部活の試合が組まれることが多いために、現実的にはそれもままならない、ということに悶々とした思いを抱えている。
それでも、たまたま来てくれた生徒や学生たちが教会の礼拝でキリストとの出会いを経験するか、というと正直それも答えは分からない。それは神のみのなせる業であるから人間がどうこう口出しできることではない。しかし、毎週のように礼拝に与っている我々キリスト者自身はどうなのだろうか。我々自身が礼拝においてキリストと出会っているのだろうか。教団の教会からキリスト教推薦で大学に入学する者が少なく、献身する若者も教団の教会には少ないのも無理からぬ現実であるように、キリスト者がキリストと出会っていなかったら、新来者や学生たちにそれが起こるというのも難しいことかもしれない。
話は変わるが、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて、福音を信じなさい。」これがこの地上における神の子イエスの宣教の第一声であった。ではイエスを世に遣わした神の第一声は何であったか。「光あれ」である。旧約創世記の第一章で、まだ地は混沌として闇が深淵の面にあった状態のこの世に向かって放たれたそれは神の第一声であった。この創世記の冒頭にある一連の言葉を祈りを深めつつ何度も読み重ねられて生まれた言葉。それが先ほど読まれたヨハネによる福音書の書き出しの言葉であったと言われている。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に成ったものは、命であった。この命は人の光であった。光は闇の中で輝いている。闇は光に勝たなかった。」
創世記では第一の日から第六の日にかけて、光から始まって海、陸、空、自然、生き物たち、そして最後に人間と言った順番で天地万物を造られた神の業をヨハネ福音書は一言、「万物は言によって成った」、「言によらずに成ったものは何一つなかった」のだと言い切っている。そしてこの言によって成ったものの内に命が宿る。この命は光であり、1:9以下では、それは世に来て、すべての人を照らすのである、と続いて行く。
初めからあった言とは何か。初めに神と共にあり、神そのものであり、万物がそれによって成ったという言とは何であるのか。この福音書の少し先のところ(1:14)にはこう記されている。
「言は肉となって、私たちの間に宿った。私たちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」と。
初めから神と共にあり、神そのものである言。それが肉となって、つまり人間の姿形を取って世にある私たちの間に宿った、と言われている言とは、神の独り子であり人となった神であるイエス・キリストその人に他ならない。その方が第一声として言われた。「時は満ち、神の国は近づいた」のだと。ヨハネ福音書はそのイエスの第一声を受け止めて、このように証しした。それは「私たちの内に宿った。私たちはその栄光を見た」のだと。
言が肉となって、つまり神が人の姿形を取ってまでして、混沌とした地であるこの世、闇が深淵の面を覆っているこの世にもたらしたもの。それは小難しい理屈ではなかった。ああしなければならない、こうしなければならない、こう考えてはならない、ああなってはならない、といったお説教でもなかった。そんな律法であるはずがなかった。イエスはその第一声で、「悔い改めて福音を信じなさい」と、つまり「福音を受け入れなさい」と言ったのである。決して律法ではなかった。では福音とは何であったのか。時が満ちたことである。神の国がこの世にまさしく到来したことである。あいまいな、抽象的な、ああでもない、こうでもない、きっとこういうものに違いない、と言ったぼやけた何かを指しているのでは決してなかった。ヨハネ福音書ははっきりと、「私たちはその栄光を見た」と証言していた。「栄光」とは「神の国」そのものを表す表現である。肉となった言。人となった神。この世にお生まれになった御子イエス・キリストにおいて、神の国が到来したのだと。キリストにおいてまさしく神の国が始まったのだと。私たちはそこに、恵みと真理に満ち溢れた栄光を、神の国を受け止めたのだと。ヨハネ福音書ははっきりと、不退転の決意をもってそう証言したのである。
闇で覆われていたこの世に、混沌でしかなかった我々の現実の只中に、神の国がまさに来ている。イエスがこの世に来られた、というのはまさしくそのことである。そのイエスを頭と仰ぐ教会が世に建てられ、広がり始めた、というのはまさに、神の国がこの世で始まったことの生きた証しに他ならないし、どんなに時代が移り変わろうとも、この世がどうなっていようと、そうであり続けなければ教会ではなくなってしまう。そうではないだろうか。教会で繰り広げられているのは本当は、人間の話や集会やイベントや奉仕、などと言った些末なことではないのではないか。教会に芽生えているのは、紛れもなく神の国そのものなのではないか。そうであるならば、神の国が広がっているのであるならば、音を立てて神の国の生きた水が流れて来ているのならば、それに直面した人間、たとえたまたまであってもその息吹を浴びた人間が何の変わり映えもしないままでいられるのだろうか。聖書は、決してそうは言っていないのである。
皆さん、ルカ19章に出てくる徴税人のザアカイの話をご存じだろう。簡単に言うと、イエスに会う前のザアカイは、貧しいユダヤの民衆から税金を搾り取っては高い給料をもらって金持ちになっている守銭奴であり、民衆から忌み嫌われていた。ザアカイはそういう自分が嫌でたまらなかった。しかし変わりたくても変われない。だからイエスに会って自分を変えてもらいたい、生まれ変わりたいと願っていたがイエスの来るところには人だかりができていた。背が低かった彼はいちじく桑の木に登ってイエスを一目見ようとする。その彼を見たイエスは彼の名を読んで、降りて来いと招いた。その瞬間、守銭奴であった彼は騙し取った人々には四倍にして返し、貧しい人々に自分の財産を分け与えると誓う。ザアカイがなぜそこまで変わったのか。神の国に直面したからである。イエスの眼差しに捕えられ、イエスの語る言葉を受けたことで神の国に接したからである。
先ほどは旧約からもう一か所、創世記3章のアダムとエバが神に背く場面が読まれた。二人を神の言葉に背かせたのは蛇となっているが、おそらく蛇と言うのは闇と混沌の世界で羽振りを利かせていた人間であったと思う。彼は巧みに囁いてまずエバを神に背かせる。「食べても死なないよ。むしろ食べれば目が開け、あなたは神のようになれるんだ」。それを聞く前のエバと聞いた後のエバは同じではなかった。聞く前はそれがなかったのに聞いた後のエバの心に芽生えたのは自己愛である。神の言葉よりもまず自分が第一、自分の安定が最優先されてこその愛と平和だ、と考える自分ファーストの思想である。最近は、膨張した自己愛にスーツを着ただけの年寄りが大統領になって世界を揺さぶっているのが残念でならない。とにかくそのようにして蛇はエバから、そしてアダムから神を遠ざけた。彼らにおいて、エデンの園において芽生え始めていた神の国を闇の力で潰した。そこからエバもアダムも、自分を第一にしか考えられなくなる。彼らを祖先とする我々人類全ても同じ価値観に縛られている。「光あれ」という神のあの第一声は闇に掻き消されてしまう。その証拠にアダムとエバから生まれたカインは弟アベルを殺し、その後も悪に染まった人類の有様に後悔した神は大洪水を起こす。自分を神のように過信する者しかいなかったソドムとゴモラの住民をも神は一人残らず滅ぼした。「本当の原罪というのは、自分を第一とするためにどこまでも自分を高めたいと欲する自己追求だ」。そう言ったのはかの神学者カール・バルトであった。
世界は今も同じままなのではないだろうか。力のある者が支配する。弱い者は退けられる。だから自分の子には小さい頃から習い事をさせ、より偏差値の高い学校に合格させ、資格を取らせて勝ち残れる人間にしようとする親は後を絶たない。どんなにきれいごとを言ってもそれが現実ではないだろうか。自分ファーストの思いがあらゆる人間の心の奥底に燻っているように思うのは私だけだろうか。そこに広がっている世界は、聖書の言葉を借りて言えば依然として闇である。混沌である。「光あれ」と言われて芽生えた光もすぐに闇の力で消されてしまう世界である。そこに漂っているのは愛ではなく偽善である。信頼ではなく裏切りである。他者を蹴落としてでも生き残った者だけが勝利を勝ち取れるかの如くに思い込ませる世界である。
しかし、この世がそうなってしまう前から「言」はあった。言は神と共にあった。言は神であったのだと。そう聖書は語っていた。言の内に成ったものは命であり、その命は人の光であったのだと。そして、この光は闇の中でも消されることなく輝く。闇は光に勝たなかったのだと。
アダムとエバを神から背かせ、どこまでも自分を高めたい、自分ファーストでありたいという欲望に駆られた闇の子へと貶める闇と混沌の力、それを聖書は罪の力というがそれは人間同士を争わせ、憎み合わせ、最後は死に至らせる。生き残るためには敵に勝つしかない。戦争を繰り返し、自然破壊を止めない闇の子らは今なお後を絶たない。ただ目先の安心に浸りたい多くの者らはその権力者にひれ伏していく。そこでは、万物は言によって成ってなんかいない。言によらずに成ったものばかりがひしめいている。なぜならそこは神の国ではないからだ。蛇によって自分ファーストの思いを吹き込まれた闇の子らの国と化しているからだ。神はそこへと辿り着かせるために人間に命の息を吹き込まれたわけでは決してなかった。しかし、である。そこにも言はあったのだ、と聖書は宣言する。あるべき世界では、万物は言によって成るのだと宣言していた。この世がそうなってはいなかったからこそ、命を与えられた本来の意味を人間が見失っているからこそ、神は動くのである。初めから神と共にあった言、神そのものであった言がついに肉となったのである。神が人間イエスとなられたのである。争い、憎しみ、裏切りへと人間を誘い、死へと追い込んでいた闇の力のすべてをイエスは自分に向けさせる。十字架の死をも受け止めるのである。それはイエスが、最後まで自己追求をしなかったからである。自分のことを後回しにして、まず弱く貧しく苦しんでいた人に手を差し伸べる生き方、敵をも愛する生き方を貫いたからである。だからイエスは敵によって殺された。それで光は消えたか。そうではない。神はこのイエスをよみがえらせて、たとえ死をもってしても命を終わらせることはできないのだと、それがこの言の内にある本当の命だと示したのである。蛇たちがうごめく闇では、命は死んだら終わりだと思い込まされ、死にたくなければ従え、という脅しや悪知恵が渦巻いている。しかし言の内にある命はそうではない。死で終わらないこの命こそが、すべての人間を照らしている真の光であると。その光を一人一人にもたらすために言は私たちの内に宿ったのだと。二千年前から、今もなお叫ばれ続けている。そこに神の国が芽生えていることを、誰もがそこへと招かれていることを神が呼びかけ続けている。そこに神の国が始まっているのだと。その場所こそが教会であり礼拝ではないだろうか。
「本当の原罪というのは、自分を第一とするためにどこまでも自分を高めたいと欲する自己追求だ」。あの言葉に納得してくださる方がいるだろう。そこに神の国は始まっている。死で終わらない真の命の光が灯されている。神の国そのものであるイエスがその方の中に宿り、その方を背負っている。闇は光に勝たない。それどころか、教会において点されたその光はすべての人を照らすと聖書は宣言する。世の中の声がどうであろうと、どんなに闇が押し迫ろうと、今ここに集められた我々において神の国は芽生え、光は点されている。そのことを共に確かめ合いたい。