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助け合うために

「助け合うために」創世記21525、Ⅰヨハネ137、詩編121

2025518日(左近深恵子)

 

 創世記の初めの、創造を語る部分にこのところ耳を傾けています。創世記は二つの創造物語を伝えます。異なる時代に、異なる人々に向かって語られた二つの創造物語を共に語ることで、世界とは、人とはどのようなものなのか、より豊かに描き出します。24以下には、第二の創造物語が記されています。

第一の創造物語は、混沌とした深淵の上を闇が覆っている状態に対し、主が光をもたらすことから創造のみ業を為されたと語ります。奥底で強大な力が渦を巻き、自ら形を取ることができない深淵の力が、闇を帯びながら全てを埋め尽くしているような状態に、自分たちを取り巻く現実を重ね見ずには居られない創世記の最初の聞き手は、それらの力からただお一人自由である神さまが世界と私たちを願われ、存在へと招き出されたことを知ったことでしょう。

他方、第二の創造物語が描く始まりの状態は、荒涼とした砂漠か、岩や石がゴロゴロとした荒地のような状態です。全てが乾ききって、生命を維持できる状態ではありません。第一の物語が描き出す情景とは対照的に思えますが、生きていくことができない危機的な状況ということでは同じだと言えるでしょう。第二の物語では、神さまの創造のみ業は、神さまが潤いを与えることから始まります。砂漠のように形が定まらない、あるいは岩のように固い地表が、湿った土へと変えられ、そうして生きることができる世界へと変えられたところに、神さまは人を創造されました。

特別な存在から自分たちは始まったのだと、自分たちは他の民とは始まりから違っている特別な民なのだ、そう言って欲しいところが私たちの中にもあるのではないでしょうか。まして、混沌とした閉塞感や、肉体や魂の飢え渇きに押し潰されそうな状況にある時には、あなた方は他の人よりも特別な存在だと言われることで慰められたいと思うものではないでしょうか。けれど創世記は、王や天上の存在といった特別な人や、特定の民の創造を語るのではなく、ただ人の創造を語ります。それも、人間だけ特別な素材から造られたわけではなく、人間も他の生き物たちと同様大地の塵から造られた創造を伝えるのです。

人も他の被造物と同じように塵から造られた、儚さ、脆さを抱えて生きる者であります。しかしまた、人や他の被造物がそこから造られた大地は、ただの土埃ではなく、神さまが整えてくださったところです。荒涼とした、何も生きることのできない状態であった大地は、神さまによって生命を宿すことができるところ、生命を育み養うことのできるところとなりました。乾ききって自らまとまることのできない状態であった大地の塵を神様は潤し、形を取ることができる土とされました。陶工が選び抜いた土を、身を屈めて汗を流しながら何度も何度も捏ね、丹精込めて願うような器を創り出すように、神さまがご自分の慈しみが沁み通った大地の塵から人をお造りくださった、人はそのような存在です。その上人には、他の生き物たちには述べられていないことが述べられています。人は神様の息を吹き込まれて生きる者とされたのだと。ここに全ての人に与えられている特別さがあります。肉体だけで生きる者とされていません。神様の息がその内に循環していなければ、人は休眠状態、休止状態だと言えます。私たちの特別さは、自分の存在に自動的に属しているものではなく、固定したものでもありません。神様から与えられるものであり、私たちが受け止めるものなのです。

私たちにとって自分の肉体は無くてはならないものであり、肉体の状態は日々の生活にも、人生にも、大きく影響します。だから私たちは、自分や大切な人の身体を養い、守り、整えることに必死です。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また体のことで何を着ようかと思い煩うな」との主イエスの言葉に触れて、肉体に関することに自分がどれだけ思い煩っているか、ようやく気付かされるような状態です。必要に迫られて、あるいは切実な思いで、肉体を整え、回復させようとしていると、自分で自分を生かし続けているように思うかもしれません。誰かの生命の質を保ち、守らなければと必死にならねばならない時もあり、自分が守らなければその人を生かし続けられないと追いつめられることもあるかもしれません。創世記は私たちに、自分の必要性から肉体を思うところから、肉体を与えてくださった神さまの慈しみを思うところへと私たちを導きます。肉体が人を生かすのではないと、私たちを形造り、その鼻に息を吹き込み、生きる者としてくださっているのは神さまであるのだと知る者とされます。私たちは自分にも他者にもこの命を与えることはできません。神さまの息が肉体に吹き入れられて初めて私たちは真に生きる者となります。神さまの息を深く吸い込み、神様によって存在の奥底から呼吸することができ、神さまから力を与えられて生かされることが、私たちの日々の出発点であるのです。

創造物語は、人の根源にあるものだけでなく、人の役割にも焦点を当てます。大地が乾き荒涼とした状態であった時には、「地にはまだ…土を耕す人もいなかった」と言われています。その大地を整え、人をお造りになった主は、最も豊かなところであり、他の土地も潤す川がそこから流れ出るエデンの園に人を連れてこられ、そこを人の住まいとされました。人が「そこを耕し、守るためで」あります(15節)。人には初めから、神さまから与えられた役割があります。荒地を潤し、多様な実りをもたらす豊かで美しい所へと変えられた神さまは、世界を潤す神さまのご意志にお応えし、神さまのご意志を反映する場にその地を保つ使命を人に与えられました。人は、大地の豊かさを享受することに留まらず、神さまの創造のみ業に携わる者とされています。耕し、手入れをすることは、主の創造の御業の偉大さ、不思議さを真っ先に発見し、その偉大な御業に親しく触れることのできる特別な立場を与えられていることでもあります。更には、神様のご意志から遠ざかり、頑なになってしまっている世界に神さまの鋤を入れ、神様の慈しみを地の隅々にもたらす働きを担うことでもあるのではないでしょうか。

神さまがお造りになった世界を管理し、耕す役割を与えられているということは、他の被造物よりも神さまのご意志、神さまのみ業に近いところに居るということであります。しかしそれは、自分が願えば何をしても良いということではありません。人は神ではありません。神さまに成り代わることはできません。それは、神さまが園の中のある木からは食べてはならない、取って食べると必ず死ぬことになると言われていることに現れています。被造物と造り主の間には超えてはならないものがあります。自分の欲望のために神様の教えを超え出ることは、神さま抜きに生きてゆこうとすること、自分が神なのだとすることであります。神さまの命の息で呼吸すること、神さまに生かされることを止めることであります。それは自分を呼吸困難に陥らせ、内側から自らを死へと追いやることであります。

創世記によってまた、人の創造は神様から存在を与えられ、神さまから役割を与えられて終わりではないことを知ります。「人が独りでいるのは良くない」と主は言われ、第二の人をお造りになります。人の創造は、他の人をお造りになることまで含むのです。

神さまが人に、神さまがお与えになる命を共に生き、神さまがお与えになる役割を共に担ってゆく相手の存在を、望んでくださいました。共に居る相手は、その人にとっての助け手であると、神さまが相手の存在の意味も示してくださいました。人が神さまに、“自分は独りだから相手を与えてください”と訴えたわけではありません。人が自らの欠けや弱さに気づき、認め、助け手を神さまに願ったわけではありません。人が、自分が誰かの助け手になりたいと願ったわけでもありません。慈しみの内に塵から形造り、ご自分の息によって生きる者とされ、豊かな住まいと大地の実りを楽しむ暮らしと、神さまのみ業に参与する使命を与えてくださった、こんなにもみ心を注いで創造してくださった人間に、更に共に生きてゆく相手を願ってくださった神さまのみ心が、第二の人の存在と関りの根源にあります。第一の創造物語を通して神さまは何かをお造りになる度に、造られたものをご覧になっては「良しとされ」てきました。第六の日には、造ったすべてのものをご覧になって、それらは「極めて良かった」ととても喜ばれました。だからこそ、ここで「人が独りでいるのは良くない」と言われる言葉が重く響きます。絶えず共に居るかどうかではなく、歩みを共にできるふさわしい相手が居ないことを嘆いてくださったのです。

第二の人の創造によって初めて、創世記は性別を語ります。2章で最初に「人」が言及された時には、土の塵から造られたことを強調する仕方で、「土(アダマ)」と同じ響きを持つ「アダム」という言葉で人は呼ばれていました。それ以降、人について言及する時その名は、人間全般を意味して用いられていると考えられます。女の人の創造で初めて第一の人は「男」と呼ばれ、性別が生じるのです。

第二の人の創造に、最初の人の意思は何も働いておらず、この人は何も行っていません。第二の人を主がお造りになる時、主は最初の人を深い眠りに落とされました。最初の人同様もう一人の創造も、ただ神さまの願いとみ業に拠っています。第二の人の創造によって、男の人も女の人も、遡れば塵から作られ、塵に帰る脆い存在であり、けれど神さまのみ手の業による素晴らしい存在であり、神さまによって命を与えられなければ生きる者とならない者であることに違いは無いことも明らかになりました。どちらも神さまに従う者であって、どちらかがどちらかに従う関係は神さまのみ心ではありません。互いの関わりは、どちらかの要求や必要性に拠るのではなく、神さまから与えられたものとして、お互いの間に神さまがおられるものとして、受け止められるべきものです。自分と同じように神さまの願いとみ手の業によって存在を与えられ、生きる者とされている人として相手と向き合うことが、人と人との関りの土台であるのだと、助け合う関係を築いてゆくことが神さまのみ心に適うことであり、本来の在り方であることを知ります。そして、第二の人を与えられた第一の人は、大いに喜んでいます。それまで動物の名づけの場面でも言葉が伝えられてこなかったこの人の、最初の言葉として聖書が伝えるのは、ふさわしい相手が与えられたことへの内側から溢れ出るような喜びです。「女」「男」と訳された元の言葉は、一文字違うだけの、互いにとても似ている単語です。「骨の骨、肉の肉」というフレーズも、互いの関係の近さと等しさを表していると考えられます。互いに違いがあり、互いにとても近い者だと、神さまから与えられた相手とその関係に喜びの声を挙げています。「良くない」と主が嘆かれた状態から、「良い」状態へと変えられたのです。

人間全般を代表する仕方で語られるこの最初の二人において焦点が当てられているのは、助け合う関わりです。24節以下では、二人が夫婦となり、二人の家庭を築くことが述べられています。当時の聞き手たちの社会では、女性が親の家を離れ、男性の家に行くのが結婚の慣例でありました。その慣習を当然としていた人々は、男の人が父母を離れると語る言葉にも、互いの親からそれぞれ離れて新たな家庭を築く夫婦の在り方にも、驚いたことでありましょう。また、女性を先ずは産み手のように捉えることが常識のように為されていた世界にあって、ただ二人の関係に焦点を当て、その関係は助け合うものであるとされていることも、驚きであったのではないでしょうか。私たちも大切に受け止めたいと思います。

最初の二人が人間を代表する者として語られていることを踏まえれば、ここで神さまがなさった人の創造は、夫婦という関係に留まらないと考えられてきました。誰との間であっても、神さまのみ心に適う、助け合う関係を築いてゆくのは、乾いた荒れ地を潤いと命に溢れた世界へと変えてくださる神さまの創造のみ業に参与することと言えます。人はそれぞれが誰かの助け手となることを願われて、存在と命を与えられています。ここで言われる「助け」とは、旧約聖書で神さまの救いを示すものとして用いられている言葉です。自分の都合や自分が思う必要性を満たすものを表すものと取るなら、それは聖書が示すことと離れてしまいます。詩編121篇冒頭の「私の助けは来る。天地を造られた主のもとから」と歌われている箇所の助けも、同じ言葉です。どこに獣や強盗が潜んでいるか分からない、険しく暗い山路を行かねばならない旅人のように、命の旅路は穏やかな日々ばかりではありません。神さまの助けがなければ、道を見出すことも、視界を遮られる中で歩を進めることもできません。神さまが助けを与えてくださると、神さまの救いを告げてくれる人が私たちには必要です。そのような助け手を、神さまはそれぞれに与えることを願っておられます。私たちも、誰かに助けを示すことを神さまが願われ、そのような助け手として命を与えられています。私たちは生涯の中で誰かと旅路を共にする時が与えられ、それまで自分が神さまからいただいてきた慈しみを証しすることができる者とされています。神さまの息を呼吸するように神さまに生かされることを求め、神さまの命に生きることを求めたが故に、時に山路を行くような日々を通ってきた私たちの歩みも、神さまの救いを誰かに示すことに用いられるかもしれないのです。

 

創世記のこの先を読み進めますと、今日の箇所で神さまが願い与えてくださった、神さまとの関係、他者との関係に、生き続けられない人々の姿が次々と語られてゆきます。欲望や不満や貪欲さによって、神さまに背き、大切な相手との関係を歪ませ、壊し、それを修復することも、壊したことの責任を十分に取ることもできない人の闇が露わになります。神さまから離れ、他者との交わりを壊し、自分たちではもはや一体となることができない人々のために、神さまはみ子を与えてくださいました。十字架によって互いを隔てる敵意を滅ぼしてくださり、共に神さまと結びつく道をもたらしてくださいました。神さまの光でその道を照らし、闇ではなく光の中を歩むようにと招いてくださっています。人と人との交わりの中で互いの存在を喜び、共に神さまの慈しみを喜び、その交わりに神さまの光を映し出すことができる者として私たちは本来造られています。また私たちは、相応しい助け手と一緒に歩むことなしに、荒涼とした乾ききったところを神さまの慈しみで潤うところにすることなどできません。創造のみ業に感謝し、神さまの命に生きる者として、神さまが望んでおられる他者との関係を求めるところから、踏み出したいと願います。