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死に支配されない世界へ

2025.4.27.主日礼拝

イザヤ25:6-9、ローマ6:5-11  

「死に支配されない世界へ」浅原一泰

 

万軍の主はこの山で、すべての民のために祝宴を催される。それは脂の乗った肉の祝宴、熟成したぶどう酒の祝宴。髄の多い脂身と、よく濾されて熟成したぶどう酒。主はこの山ですべての民の顔を覆うベールとすべての国民にかぶせられている覆いを破り、死を永遠に呑み込んでくださる。主なる神はすべての顔から涙を拭い、その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。確かに、主は語られた。その日には、人は言う。見よ、この方こそ私たちの神。私たちはこの方を待ち望んでいた。この方は私たちを救ってくださる。この方こそ私たちが待ち望んでいた主。その救いに喜び踊ろう。

 

私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活もついても同じ状態になるでしょう。私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。死んだ者は罪から解放されているからです。私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています。死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。

 

 

アフリカにこういうおとぎ話がある。実に入念に、凝りに凝って造られた木彫りの獅子、ライオンのおもちゃがある子供にプレゼントされた。その子はその木彫りの獅子が好きで好きで溜まらず、来る日も来る日も飽きずにそれで遊んでいた。ところがある日、思わぬ方向から本物の生きたライオンが吠えながら自分に向かって近づいて来るのを見たとき、その子は非常に驚き怯えて、その木彫りの獅子とはもう二度と遊ばなくなってしまった。そんな話である。

他愛もない話であるが、私達の身の周りでも似たようなことはないだろうか。木彫りの獅子にたとえられているのが「慣れ」とか「経験」だとしよう。誰でも知らないものに手を出すよりはよく知っていることで済ませたいと思うところがある。ただ、「慣れ」とか「経験」でどうにかなる世界、それで満足していられる世界は本物の世界、本物の生き方ではなかったとしよう。そんな時突然、見たことも聞いたこともなければ想像することもできなかったようなものが目の前に現れたとしたら、そしてそれはあなたの本当の生き方ではないと告げられたとしたら、あのアフリカの子供のように誰もが目をひんむいて驚き、絶句してしまうかもしれない。

 

木彫りの獅子。クリスチャンにとってそれは、自分が長年イメージしてきたキリストかもしれない。常に自分に安らぎを与え、いつも自分を赦してくれるような、そんなキリストなのかもしれない。長い間何の疑いもなくそのキリストと戯れ、来る日も来る日も飽きずにその木彫りのキリストを大事にしている。クリスチャンにはそういうところがあるのかもしれない。しかしそれは本物の生きたキリストではない、としたらどうだろう。我々は本物の、生きたキリストをイメージ出来ない。キリストはこういう方だと決めつけることなど出来ない。欠けのある我々罪人の思惑なんかに押し込められるような存在ではないからだ。もし我々の思惑通りにキリストを描いたとしたら、それは本物のキリストではない。本物のキリストは、ただ神からの働きかけによってのみ、恵みによってのみ、本来ならば出会う値打ちもない我々罪人に出会って下さる。そういう存在であるからだ。それを忘れて、慣れとか経験に流されて木彫りのキリストと戯れ続けているだけの我々のところに、もし生きた本物のキリストが現れ、力強い声で語りかけてきたとしたら、アフリカの子供どころの話ではない。我々は腰を抜かすであろう。慣れも経験もへったくれもない。ただその方の前で、これまで信じますと口では言いながら言い訳ばかりしてごまかし続けて来た自分の生き方が全て露わにされてしまったら、誰だってただひれ伏すことしかできなくなってしまう。勿論これは私の想像である。しかし、である。二千年前に弟子たちが味わった復活のイエスとの出会いとは、そういう出会いだったのではないだろうか。先週共に喜び祝ったイースターとは本来、そういう出来事であったのではないだろうか。それから僅かしか経っていないのに私達は、また木彫りのキリストしか思い浮かべなくなってはいないだろうか。木彫りのキリストを思い浮かべて、イースターとはこういうものだと思い込んではいなかっただろうか。

 

二千年前、復活のキリストに出会った衝撃的な体験を言葉にした人物がいる。パウロである。教会の迫害者であった頃の彼は、木彫りのキリストなど必要ではなかった。むしろ律法でがんじがらめに縛られた木彫りの神と戯れ続けていた。しかし、当時はまだサウロと名乗っていた頃のパウロをキリストが打ちのめす。彼はなぎ倒され、目を開けることも出来ずにひれ伏すしことしか出来なくなる。それが有名なダマスコ途上での回心の出来事である。その彼が、自らが書いたローマの信徒への手紙の中で、復活のイエスと出会った自らの体験に基づいてこのような言葉を残している。

 

「私たちがキリストの死と同じ状態になったとすれば、復活もついても同じ状態になるでしょう。私たちの内の古い人がキリストと共に十字架につけられたのは、罪の体が無力にされて、私たちがもはや罪の奴隷にならないためであるということを、私たちは知っています。死んだ者は罪から解放されているからです。」

 

古い人。それはこの世で罪に支配されていた自分である。それは今の我々の姿であり、この世の全ての人間の姿でもある。しかしパウロはそこから復活のキリストと出会い、キリストの力によって打ちのめされた。その時、自分の中の古い人はキリストと共に十字架につけられたことを思い知らされた。

 

何がパウロにそう言わせたのだろう。古い人というのは、自分の身に危険が押し寄せないように、我が身がいつも安全でいられるよう、人から非難されないよう、そのことばかりを思い煩っている自分である。元々人間はそのような価値観で生きている。もう一点。パウロは熱烈なファリサイ派であった。神に認められる為ならどんなことでもする熱血漢であった。ということは、どうすれば神に認められるか、その為に何をすべきか、ばかりを考えていた。神に気に入られる為には神ならぬイエスとか言う男を信じる者たちを迫害するべきだ。復活のキリストに出会う前、木彫りの神と戯れていた頃のパウロはそう信じて疑わなかった。似たような思いも我々の中にあるのではないか。クリスチャンとして神とキリストに喜ばれたい、教会で仲間から悪く思われないようにしたい、そんな本能が我々の中にもあるだろう。

 

しかしそれが、罪に支配されている姿なのだとパウロは言った。神の言葉に頼る振りをしながら頼らず、信じる素振りを見せても信じず、結局は自分で動こうとしている。自分の思惑で神からの褒美を手に入れようとしている。死なないなら、しかも神になれるのなら禁断の木の実を食べて自分で自分を高めようとするアダムの姿がそこにある。パウロも最初はそうだった。しかしそれは、復活のキリストに出会うまでのことである。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」。思わぬ方向から、木彫りの神ではなく復活のキリストに声をかけられた瞬間、今まで自分が神を殺していたことに彼は気づかされた。本当の神はクリスチャンであろうがなかろうが、ユダヤ人であろうがなかろうが、病人であろうが犯罪人であろうが徴税人であろうが、全て命ある者を愛し、全ての命を花開かせようとしておられる神である。その神から人間を引き離し、神に頼らせずに己の力だけで一人歩きさせようとするのが罪である。普段は善人の顔をしていても、いざとなれば人を押しのけて我が身の安全を優先するよう唆すのが罪である。その罪に誰もが支配されている。クリスチャンを亡き者にすることで自分が救われようとしていたそれまでのパウロは、罪に支配されていた。我々も、誰もが支配されている。そこから誰も、自分の力では抜けだせない。だからこそ神は動かれた。

 

「主はこの山ですべての民の顔を覆うベールとすべての国民にかぶせられている覆いを破り、死を永遠に呑み込んでくださる。主なる神はすべての顔から涙を拭い、その民の恥をすべての地から消し去ってくださる」とイザヤは告げた。救われる前の人間は、自分が損をしないようにと我が身を思い煩ってばかりいる。そうしかできないように顔にベールを賭けられている。それが罪に支配された古い自分の姿である。しかし神は、罪に唆されて人間がそのように得手勝手な生き物となってしまっているからこそ、木彫りではなく真のご自身に出会わせようとする。思わぬ方向から、死からよみがえられたキリストを通して一人一人に出会って下さる。一人一人の顔から涙を拭い、彼らの恥を消し去るために。死を永遠に呑み込み、その支配を終わらせるために。あなたは私と結ばれている。死をもってしてもあなたとわたしの交わりを断絶することは出来ない。わたしはあなたをこの世に生きる者ではなく、神の国に生きる者とするために命を与えたのだ。あなたを、世にある全ての者を、神の国に生きる命へと招きたいのだと。

ユダヤ人だけではない。イスラエルの子孫だけではない。本物の神はすべての民のために祝宴を開いて下さる神である。そうして神は、人間が勝手にこさえていたありとあらゆる壁をぶち壊し、打ち破られるのである。わたしはそのようにして人間を生まれ変わらせて下さる神であるのだと。

 

それなのになぜあなたは自分さえ良ければ良いと思っているのか。なぜ人を愛せないのか。思わぬ方向から神はそう語りかけてくる。その言葉を実現するべく神は動いた。神自ら自分を無にして人間の姿となり、自らの欲望を満たす為にしか生きられない人間たちの恰好の餌食となって十字架につけられた。しかしそこからよみがえることによって、キリストを十字架の死からよみがえらせることによって神は真の命を、最早死に支配されることのない命を示したのである。旧い命に死んでこそ初めて、その命へとあなたも生まれ変わるのだと。神は復活のキリストを通して世に、今ここにいる我らにそのことを告げておられる。木彫りの命ではなく真の命を示しておられる。その命に目開かれる為には、我々はキリストと共に旧い自分に死なねばならない。キリストの死の姿にあやからねばならない。罪に支配されたこの体が滅ぼされねばならない。そう言われたって自分には出来ない。死ぬのが怖くて自分からは変われない。それが木彫りのキリストと戯れているクリスチャンの姿である。我々クリスチャンがそこで安心してしまっているから、キリストの救いは世に広がらないのではないだろうか。

 

しかしパウロは言った。「私たちは、キリストと共に死んだのなら、キリストと共に生きることにもなると信じます。そして、死者の中から復活させられたキリストはもはや死ぬことがない、と知っています」と。パウロは、木彫りではなく復活のキリストに打ちのめされた人間である。復活のキリストの声によって旧い自分に死に、キリストの死の姿にあやかり、それによってその復活の姿にもあやかる命とされた人間である。そのパウロが、自らの言葉で言い切った。「死は、もはやキリストを支配しません。キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、生きておられるのは、神に対して生きておられるのです。このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きている者だと考えなさい。」

 

キリストとの出会いによって生まれ変わらされた人間の声がここにある。自分で自分を守ろうと画策する人間の言葉ではない。ただ神の恵みによって、死からよみがえられた復活のキリストの力によって生かされる人間のそれは言葉である。死ぬのが怖くて蛇の言いなりになった人間はそこにはいない。もはや死に支配されず、罪にも支配されず、キリストを死からよみがえらせた神の恵み以外の何ものにも束縛されない、真に自由とされた人間がそこにいる。キリストに生かされる人間がそこにいる。その人間を通してキリストが生きて働く奇跡がそこに始まっていた。その人間を通してキリストの栄光が輝き始めた。あのイザヤの言葉はそこに成就していたと思う。

 

「主はこの山ですべての民の顔を覆うベールとすべての国民にかぶせられている覆いを破り、死を永遠に呑み込んでくださる。主なる神はすべての顔から涙を拭い、その民の恥をすべての地から消し去ってくださる。確かに、主は語られた。その日には、人は言う。見よ、この方こそ私たちの神。私たちはこの方を待ち望んでいた。この方は私たちを救ってくださる。この方こそ私たちが待ち望んでいた主。その救いに喜び踊ろう。」

 

パウロが何かをしたのではない。パウロにおいて復活のキリストが生きて働いたのである。パウロだけではない。キリストは全ての者に対して、旧い自分に死なせ、新しく生まれ変わらせようとしている。世にある全ての者をそのように新しい人間へと生まれ変わらせるための神の断固たる決意の実践、それがイースターだったのではないか。キリストを死からよみがえらせたイースターとは、我々全てを生まれ変わらせようとする神の不退転の決意の実践なのではないか。我々は神を喜ばせることなどできない。しかし神は、世にある全ての者をキリストと共に旧い自分に死なせ、キリストと共に生きる新しい命へと生まれ変わらせる時、生まれ変わったあなたを神が喜びとされる。イースターにおいて神が目指しておられるのはそれなのである。それなのに我々は木彫りのキリストにしがみついていて良いのであろうか。思いもよらないキリストの新たな声によって目が開かれなければならないのではないだろうか。

 

 

死にたくないと思い煩っている内はその人は死に支配されている。しかし復活のキリストと共に生きる命へと生まれ変わらされるならば、ただ神の恵みによってのみ生かされる命に生かされるならば、この世ではなく神の国という死に支配されない世界へ、死んでも終わることのないキリストの命を生きる者へと導かれる。古い命に死んでも、キリストに結ばれて神に対して生きる者とされる。そのことを神は我々に望んでいる。求めている。目に見える木彫りのキリストで満足している場合ではない。目には見えない復活のキリストが今も、ここにいて我らに働きかけている。そのお方によって打ちのめされ、自分の欲の為にあれこれと思い煩う旧い自分に死んで、神の恵みによってのみ生かされる新しい人間へとご一緒に生まれ変わらされたい。