「神のものは神に」創世記1:26~27、マタイ22:15~22
2025年2月2日 左近深恵子
過越しの祭りをエルサレムで祝おうと多くの人が集まるエルサレムに、主イエスはろばに跨って入られました。真っすぐ神殿に向かい、神殿を商売の場としていた商人たちを追い出し、ご自分を求めて集まってくる病人たちを癒やされました。その後、逮捕されるまでの数日間、神殿の境内に来られて人々を教えておられたようです。かねてより主イエスに敵意を募らせていたユダヤの民の指導者層は、神殿で主イエスが人々に教えを語ることを止めさせたかったのでしょう。その場にやって来て、主イエスに「何の権威でこのようなことをするのか」と咎めたことを福音書は伝えています。“自分たちはそのような権威をお前に与えていない”と言わんばかりです。それに対して主イエスは逆に、「洗礼者ヨハネが洗礼を授けていた権威はどこからのものだったのか」と指導者たちに尋ねます。ヨハネを、神さまが遣わされた方だと認めなかった指導者たちは、もし今ここで「天からのものだ」と答えれば、「では、なぜヨハネを信じなかったのか」と、主イエスに追及されることを恐れたのでしょう。かといって「人からのものだ」と答えれば、神さまがヨハネを遣わされたことを信じ、ヨハネを求め、そのヨハネをヘロデに殺されてしまった群衆がどう反応するのか、また恐れたのでしょう。だから何も答えずにやり過ごそうと彼らは「分からない」と答えます。彼らの答えの根底にあるのは、ヨハネが神さまから遣わされたのかどうかという問い直しではなく、どう答えたら自分たちの立場が守られるかという計算です。その彼らに、主イエスは譬えを三つ語られます。どの譬えも、神さまが遣わされた方を信じず、受け入れない者たちの姿を語ります。自分たちのことが譬えで語られていると気づいた指導者たちは、主イエスを捕えて口を塞ぎたかったことでしょうが、そうしません。主イエスを神さまが遣わされた方だと思っている群集の反応を恐れたからです。ここでも彼らの判断の根底にあるのは、主イエスが神さまから遣わされた方であるのかどうかという問い直しではありませんでした。
主イエスの時代、イスラエルの民が暮らすユダヤの地を支配していたのは、ローマ皇帝でありました。ヘロデ家の者たちがユダヤの民の王や領主となっていましたが、それら王や領主は、ローマ皇帝の承認の下にその地位を得ていたにすぎません。イスラエルの民の支配者はローマ皇帝であり、皇帝に税金を納めなければなりません。ローマ帝国の支配下にあるこの地域で通用したのはローマの硬貨でした。硬貨に刻まれているのは当時のローマ皇帝の肖像と、「神の皇帝」との言葉であったと言われます。神さまの民に属さない外国の王が、まるで神のように君臨している、その皇帝に税金を納めなければならないこと、税金によって生活が圧迫されていることは、神の民である彼らにとって、皇帝に支配されている現実をとりわけ突き付けられる屈辱であったでしょう。
この時代の神の民の中には、祭司長や律法学者、ファリサイ派やヘロデ党など、様々な指導者やグループがありました。主イエスを言い負かすことができず、表だって主イエスを捕えることも恐れる指導者たちは、一旦退散し、相談し、言葉による罠をしかけることで手を組みます。今日の箇所では、ファリサイ派とヘロデ党が結託したことが記されています。ファリサイ派とは、パウロもかつて属していた人々で、神さまからいただいている律法が教える祭儀を守ること、律法を学ぶことを重んじ、生活の中で律法を守ってゆくことを追求する人々です。当然、神のように君臨する異教徒のローマ皇帝に税金を払うことを苦々しく思っていたことでしょう。ヘロデ党については、どのような人々であったのかあまり明らかになっていませんが、ヘロデ家を支持する団体であったと考えられています。ヘロデ家を指示するということは、ヘロデ家がローマ帝国の後ろ盾によって王や領主となっている現状を認めていたということでしょう。ローマ皇帝に税金を納めることも、良しとしていたことでしょう。神さまからいただいた律法を生活の中でどう守っていくのか追求するファリサイ派と、ヘロデ家を支持するという政治的な目的でつながるヘロデ党では、主張も、民衆との関わり方も、税金についての立場も違っています。その両者が、ただ、主イエスの権威を認めないと言うことで結託します。神さまが遣わされたみ子なるキリストを否定することで、手を結ぶのです。
先の失敗に学んだ彼らは、戦闘モードでぶつかっていくのではなく、先ずは敬意の言葉で挨拶をして主イエスを懐柔しようとします。そして“あなたは分け隔てをなさらず、真理に基づいて神の道を教える方だ、自分たちがこれから問うことにも答えてくださる方だ”と言って、答えないわけにゆかない状況を備え、罠となるはずの問いを投げかけます。「皇帝に税金を納めるのは許されているでしょうか。いないでしょうか」と。
この問いに対し主イエスがもしローマ帝国に税金を納めたら良いと答えれば、ファリサイ派の人々は群集に対して“この者はあなたたちが期待しているような神が遣わされたあなたたちの王、キリストではない”と“ローマの支配に簡単に従ってしまう者であることを自分たちが暴いた”と主張し、その結果群集は主イエスを見捨てるかもしれません。もし主イエスが皇帝に税金を納めなくて良いと答えればその時はヘロデ党の者たちが“この者はローマ帝国への納税を拒否する、帝国の統治に反逆する者だ”と総督に訴え、当局は主イエスを罰することへと動くことになるでしょう。どちらを答えても、その答えによって主イエスを窮地に追いつめることができる罠を仕掛けたのです。
ユダヤの民のお一人として民と同じ現実の中を生きて来られた主イエスは、帝国の支配下で人々が抱えている辛さをよくご存知であったでしょう。人々の中に、税金を皇帝に納めることの是非を明確に示して欲しいという思いがあること、二者択一の答えを求める思いがあることも、よくご存知であったでしょう。
しかしこの日主イエスに答を求めた指導者たちは、どこまでこのことを切実に求めて主イエスに問うたのでしょう。彼らは罠にかけるために問うています。神さまに従う生き方を求めることが彼らの関心の中心に無いことは、皇帝に税金を納めることの是非しか問題にしていないことに現れています。彼らの関心の範囲は、ローマの支配下で、どこまでは許されて、どこからは許されないのかだけです。そこに線を引くことを主イエスに迫り、主イエスを裁くことが、彼らの最大の関心事です。その彼らに主イエスは、彼らが税金に用いようと持っていたローマの硬貨と、そこに刻まれた肖像と言葉を改めて見ることを求めます。そして、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と言われます。彼らは自分たちが問うていなかった神さまのことを告げられて驚き、何も言い返すことができず、その場を去ったのでした。
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皇帝のものとは何か、神のものとは何か、私たちも主イエスから問われています。皇帝を、私たちが属している国の権威と言いかえるならば、国家のものは何か、神のものは何か、という問いになるでしょう。戦争になれば、国家は国民の財産や時間、体力、能力も、自分や大切な人の生命までも、国にささげて当然とすることを、私たちは知っています。教会の礼拝や活動を国が監視し、コントロール下に置こうとした苦しい時代を教会は経てきました。地上の権威の圧力の中で、信仰者が神さまのみ心に従うことを求め、どう歩むべきなのか考え続けるのは、過去だけのことではありません。非常時であっても、そうでなくても、神さまが招いておられるその招きにお応えし、神さまに捧げるのが礼拝です。礼拝も教会も、神さまのものであるのです。
先ほど、創世記第1章の天地創造の物語に聞きました。今日の主イエスの言葉と併せて、しばしば読まれる箇所であります。ローマ帝国が硬貨を発行する目的に、自分の権威を領地の隅々にまで知らしめ、領地の中の人々は全て自分のものであることを知らしめることもあったと言われます。硬貨を用いる人々は、そこに刻まれた肖像と銘を見ては、その硬貨が皇帝のものであることを知らされ、自分たちが皇帝の支配下にあることを思い知らされます。
しかし創世記は、人とは、神さまがお造りくださったものだと述べます。それも、ご自分のかたちに創造されたと述べます。神さまのかたちに造られた人間は、神さまに属する、神さまの者です。神さまのかたちに造られたということは、目に見えない神の、目に見える代理人として、神さまがお造りくださった世界が神さまのご意志を反映するところであり続けるように、管理する務めが神さまから委ねられていると言えます。地上の王たちが自分の領土の中に必死に囲い込もうとしている地上の様々な宝も、神さまがお造りくださり、神さまが人間に委ねられているものです。私たちもこの世界も神さまのものであり、神さまが全ての上に立つ方であります。
けれど私たちの中には、神さまのものとされていることがどんなに幸いなことであるのか見つめるよりも、地上の権威に属する安心感に惹かれてしまうところがあります。その安心感に拠り所を求めてしまった神の民の歴史を、聖書は伝えています。
旧約聖書は、神の民の国イスラエルがなぜ滅び、他国の捕囚の身となったのは、大国の進出という危機の中で、預言者が告げる神さまの言葉に耳を傾けずに、別の大国の力にすがった神の民の罪にあることを見つめます。更に遡り、人間の王を持つ安心感を求めた歴史を見つめます。サムエル記上8章で人々が預言者サムエルに、“あなたは既に年を取って、あなたの息子たちはあなたが歩んだように歩もうとはしていない、だから、他の全ての国々のように、我々を裁く王を立てて欲しい”と懇願したことが記されています。神さまはこれまで、その時代、その時代で、預言者や士師を立ててくださり、神さまのご意志を彼らを通して伝えてこられました。しかし、どんなに立派な人物であってもやがて年老いてゆくという現実、また後継者が直ぐに現れてくれないかもしれない不安から、周りの他の国のように常に自分たちに王がいる状態の方が良い、人間の王を持つ国となりたいと要求したのです。そのような要求をする民を憂えるサムエルに神さまは、「民が退けているのはあなたではない。寧ろ、私が彼らの王となることを退けているのだ。彼らをエジプトから導き上ったその日から今日に至るまで、彼らのすることと言えば、私を捨てて、他の神々に仕えることであった。あなたに対しても同じことをしているのだ」と言われました。ただお一人の神が自分たちの神であることを退けて、偶像や大国に従ってしまう人間の姿、自らそれらの権威に隷属してしまう人間の思いを、神さまはそれまでもずっと見つめてこられたのです。神さまはサムエルを通して民に、王となって権力を手にすると人間の王たちはどのようなことを民にしたがるのか、民はどのように王から自分たちの財産やろばを徴収され、息子を徴兵され、王の奴隷となってゆくのか、告げられました。「その日、あなたがたは自ら選んだ王のゆえに泣き叫ぶことになろう」と言われました。それでも民は他の国々と同じようになることに固執し、そうして神の民はサウル、ダビデと、王を持つ民となっていったのです。自ら人間の王に隷属したがる人の思いと、神の民の中から選ばれながら、王となると民のものを自分のものにしたがる人間の王の思いによって、滅びへと向かっていった自分たちの歴史を、神の民は捕囚の地で、廃墟と化したエルサレムで振り返っては、神が自分たちの王であることを退け、自ら選んだ王のゆえに泣き叫ぶことになったのだと、聖書を通して受け止めてきたことでしょう。
主イエスは、異教徒の国の皇帝に支配され、自由を制限され、税金を徴収され、屈辱や苦しみの中にある民の指導者たちに、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と、告げられました。自分自身を、内なる良心を、皇帝に隷属させてはならないと、あなたがたは神のものなのだと、神のものを神さまに返しなさいと、告げられました。
指導者たち自身は、神さまが唯一の王であられることよりも、ローマ皇帝が王であることにばかり目を向け、皇帝の領域はどこまでなのか、線をどこに引いたら良いのか、そのことにばかり目を向けていました。その者たちに主イエスは、彼らが問うていなかった神さまのことを語り、神さまを仰ぎ、神さまのものを神さまに返す生き方へと招いてくださいました。彼らの狭い視野の外から、神さまを見ることへと呼び掛けてくださいました。生活の中に人間の王たちと神のものを分ける線がはっきり引けるのだと、全てに二者択一を求め、他者を裁いたり、自分の選択を自分で良しとしたがる傾向を、私たちも抱えています。線引きが難しい事柄が多々あります。私たちの日常の中でも、それらが重なり合い、入り混じっています。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」との主イエスの言葉は、全てのものを支配しておられるのは神さまであることが、先ず私たちの立つべき土台であることに気づかせてくれます。詩編24編が歌うように、「地とそこに満ちるもの/世界とそこに住むものは、主のもの」です。曖昧で複雑な現実の中でこの真理に立ち、神さまのものを神さまにお返しすることを最大の願いとし、皇帝のものを皇帝に返すことも、神さまのみ心に従うものとなることを求めることを願います。そのために、真理に踏ん張って立ち続ける信仰の足を強めてくださいと、祈り求めます。そして、全てのものを支配しておられるのは神さまであるのですから、このただお一人の神に、地上の為政者のためにも、私たちは祈り続けるのです。