2025.1.26.主日(公現日)礼拝
イザヤ46:3-4、マタイ2:1-12
「新たにされる」浅原一泰
聞け、ヤコブの家よ
またイスラエルの家のすべての残りの者よ
母の胎を出た時から私に担われている者たちよ
腹を出た時から私に運ばれている者たちよ
あなたがたが年老いるまで、私は神。
あなたがたが白髪になるまで、私は背負う。
私が造った。私が担おう。
私が背負って、救い出そう。
イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、言った。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。」これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった。王は祭司長たちや民の律法学者たちを皆集めて、メシアはどこに生まれることになっているのかと問いただした。彼らは王に言った。「ユダヤのベツレヘムです。預言者がこう書いています。
『ユダの地、ベツレヘムよ
あなたはユダの指導者たちの中で決して最も小さな者ではない。
あなたから一人の指導者が現れ
私の民イスラエルの牧者となるからである。』」
そこで、ヘロデは博士たちをひそかに呼び寄せ、星の現れた時期を確かめた。そして、こう言ってベツレヘムへ送り出した。「行って、その子のことを詳しく調べ、見つかったら知らせてくれ。私も行って拝むから。」彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子がいる場所の上に止まった。博士たちはその星を見て喜びに溢れた。家に入ってみると、幼子が母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。それから、「ヘロデのところへ帰るな」と夢でお告げがあったので、別の道を通って自分の国へ帰って行った。
クリスマスは教会の為だけにあるのではない。クリスチャンの為だけのものでもない。これは私の確信である。昔はそうは思っていなかった。受洗して未だ間もない頃、クリスマスの季節になると聖書もイエスもそっちのけで大勢の人だかりが集まる表参道や銀座通りなどを遠目で見ながら、これは本当のクリスマスではない、教会にこそそれがあるのだ、と自分に言い聞かせようとしていた。しかし次第に、そのような考えは狭いものだと気づかされていった。
「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)というイエスの言葉がある。この言葉は、ともするとこのようにも考えられ易い。信仰に入る者は多いが、本当の信仰に踏み止まることのできる者は少ない。或いは、初めは教会生活を守っていても時が経つと教会から離れていってしまう者が多い。そんなニュアンスである。若い人が教会に入ってきたとして、最初は何度か通ってくるかもしれないが、次第に飽きて教会に来なくなる。そうして教会には、高齢者ばかりが残されるなど。どこの教会であろうと、その中で、本当に身を献げて神に仕える思いで奉仕する人はごく僅かしかいないのだと。マイナス志向の話ばかりであるが、その見方はもしかしたら視野の狭い人間の解釈に過ぎないかもしれない。確かに日本キリスト教団の教会では受洗者も礼拝出席者数も減っているし高齢化現象は進んでいる。だからと言って、教会は若い人たちに魅力がないか、と言うとそうではないらしい。ある教会には毎週400人もの人々が集まり、しかもその中の過半数以上が若い人や働きざかりの人たちだと言う。そこにはアメリカの宣教師達がいて、英会話が気安く学べたり、礼拝の中で宣教師がギターを弾いて軽快な音楽を流して皆で踊ったりとか、そういう雰囲気も人気を呼んでいるそうである。
では、どこも同じことをすれば良いのか。ギターや英会話で人を集めれば、それで収穫を増やし、働き手を増やしたことになるのか。教会に人を集める為に趣向を凝らすことが果たして教会の本当の務めなのだろうか。そのような試みは人の業であり、人の知恵によるものなのではないだろうか。
神の御子が人となられた。言が肉となった。それは神の業である。御子が人となられたのは、罪に染まっている人間全てを、本来神の似姿として創造された人間としてあるべき本来の姿へと生まれ変わらせるためだった。その為に、裁かれるべき我々の罪を神の御子が身代わりに背負って十字架の死を遂げる為だった。しかも神はその死から御子をよみがえらせた。それは罪に染まって死の支配下にある我々の古い人間をも御子と共に十字架につけて滅ぼし、神と共に生きる本来あるべき新しい命へと我々を生まれ変わらせるためだった。これは神の業である。そしてこの神の業にこそ、背を向けていた人間を振り向かせて悔い改めさせる力がある。好き勝手に生きていた罪人を御子イエスとの出会いへと導く神の恵みの働きがある。この福音の力こそが本当の意味で教会に人々を招き、召し集める。そうではないだろうか。この力こそが神を知らなかった人間を振り向かせることが出来るのではないだろうか。その福音の力に与れば与るほど、神の言葉に耳を傾ければ傾けるほど、時が経てば飽きてしまうのではなく、むしろ益々神との出会いを求めずにはいられなくなる。教会に向かわずにはいられなくなる。それほどの力が福音という神の言葉にはある。そうではないだろうか。
先ほど読まれた新約聖書は、東方の博士たちが星に導かれて飼い葉桶に眠る御子に献げものを献げる有名な場面である。私が教えている学校では毎年、この場面をページェントで演じられるし、三人の博士達は重要なキャストである。けれども、彼らが御子の前に跪くということがなぜそれほど大事なことなのだろうか。この場面の何が、大切な意味を持っているのだろうか。
この博士たちは、いずれも相当高い知識をもった人物だった。前の新共同訳では「占星術の学者たち」となっていたが、星占いはこの頃本当に知恵ある人間の技術であって、その業に携わる知識人達は星によって王の将来とか国の動向について神の意志を伝えていた。けれども、この博士たちはいずれも東方から来た「異邦人」であった。彼らが伝えていた神の意志というのも聖書の神のものではなかった。異邦人達が崇めていたその土地の神々の意志に過ぎなかった。そんな彼らが今まで伝えて来たものとは全く違う、それまで彼らが全く知らなかった神の御子の前に跪いた、ということに重い意味がある。しかもこの博士達は人の知恵や人の力によってではなく星に導かれて、こともあろうに家畜小屋で飼い葉桶の中に眠っていた乳飲み子の姿で世に現れた神の前にひれ伏し拝んだ、ということこそが、この出来事の重いメッセージなのである。
「イエスがヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになったとき、東方の博士たちがエルサレムにやって来て、言った。『ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです。』これを聞いて、ヘロデ王は不安を抱いた。エルサレムの人々も皆、同様であった」。
ユダヤの王ヘロデは不安を抱き、エルサレムの人々も皆、同様であったと言う。ヘロデもエルサレムの人々も、聖書の神を昔から知っていた。唯一の神として崇め奉ってきた。ところがそのヘロデの前に、異邦人の博士達がやって来て、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方がいる」と言った。人の噂ではなくその方の星を見たから、つまり人にははかり知れない力によって私達は拝みに来た、と言った。この一言がヘロデ達に不安を抱かせた。それは、これまで聖書の神をよく知っていると思い込んでいた人間、その神を信じてきた人間全てが抱かざるを得ない不安であった。この時、その人々を一瞬にして不安のどん底に突き落とすような、それほどの何かが働いていた、ということだと思う。
そこでヘロデはあらゆる手を使ってその不安の原因を確かめようとする。祭司長や学者たちを呼び集め、メシアはどこに生まれることになっているかを問いただす。メシア。このヘブライ語の直訳は「油塗られた者」である。民の中から王が立てられる時、油が塗られることによってその人物が聖別され、正式に即位することになっていた。しかしヘロデの時代、メシアは単なる王の意味ではなかった。ユダヤを神の国として建て直してくれる王の王、まさに救世主を意味していた。将来必ずメシアはやって来て国を救ってくれる。そういう思いが民の中に芽生えていた。逆に言えばそれだけ、その頃のユダヤの人々の中には言いようもない鬱屈した思いが漂っていた。その頃ユダヤはローマ帝国の管轄化に置かれ、ある程度の自治は許されていたが神から選ばれた民という誇りは殆ど失われていた。神殿での儀式の務めを司る祭司長達も表向きはユダヤの中で最も権威があり、神の意志を民に伝える存在であったが、本音では彼らはローマ帝国に媚を売って自分達の身分が保障されることばかりに現を抜かしていた。このままでは民が神からどんどん切り離されていく。そのことを憂いたある者たちは難しい神の言葉を易しく庶民に説明し、生活の中で人々が神の言葉に従って過ごせるように説いて回った。それがファリサイ派であり、ここで律法学者と言われる人達のことである。彼らは祭司長たちよりは民衆思いの善意の人々であった。しかし悲しいかな、彼らもやはり自分を捨てられなかった。自分達が不利にならないように、あわよくば尊敬を集められるように、神の言葉をまっすぐに伝えず、その思惑を織り交ぜて伝えていた。いずれにせよこの時、神の言葉はダイレクトに人々に届けられてはいなかったのである。人間達の思惑が混ぜ込まれた神の言葉しか伝えられていなかった。仕方がないではないか。神の言葉に人間の思いが混ざるのは止むを得ない。だから現状で満足するしかない。それが大方のエルサレムの人々の思いであったと思う。今の時代の教会に漂うのと同じマイナス志向がこの時も漂っていた。
しかしそのエルサレムの人々全てが不安に突き落とされた、と聖書は告げている。その不安は、ユダヤ人の王として生まれた方を拝みたい、と星に導かれてやって来た博士たちの言葉で始まった。天地創造もモーセの十戒も知らない異邦人が、我々の王として生まれた方を拝みたいだと?神は我々ユダヤの民だけの神ではなかったのか。その不安は、今まで自分が正しいと彼らが思い込んできたことが間違っていたのかもしれない、という思いを募らせ、こうしていれば救われると思ってきたことが間違いだったのでは、という不安が彼らを包んだ。
自分もその方を拝みたいから見つけたら知らせてくれ、とヘロデは博士たちに頼んだ。それは、生まれたばかりのその子の息の根を止める為であった。その後で博士達も始末すれば良い。それで何の証拠も残らず自分の地位は安泰となり不安は取り除かれる。ヘロデはそう思った。しかしその思惑は脆くも崩されていく。星の導きによって、博士たちは生まれたばかりの神の御子に出会ってひれ伏して拝み、黄金、乳香、没薬を献げた。そして、その夜に見た夢の中で、ヘロデのところに帰るな、というお告げを受け、彼らは別の道を通って自分の国に帰っていった、と聖書は伝えているからである。人間の思惑が彼らと神の御子を死に追いやろうとする一方で、人の力を超える星の導きによって博士たちは守られた。神の御子として世に来られた生まれたばかりのその方を最初にひれ伏し拝んだのは、つまり礼拝したのは、祭司長たちでも律法学者たちでも王ヘロデでもなければエルサレムの人々でもない。異邦人の博士たちだったのだ、と聖書は告げるのである。
神の御子が世にお生まれになった。言が肉となった。それは神の業である。東方の博士たちに、彼らがそれまで信じていた神らしきものを捨てさせたのも神の業である。星によって彼らを本当の神との出会いへ、そのためにベツレヘムへと彼らを導いたのも神の業である。
博士たちの言葉によって不安を抱くヘロデやエルサレムの人々。それは神を自分達の神だけにしておきたい、そんな過去にしがみついている人々の姿を象徴している。あたかもそれは、今のこのままの信仰で良いではないか、と高をくくっている人々を指しているようにも思う。エルサレムの人々は昔から神をよく知り信じていた。その彼らの姿は、これさえやっておけば良いのだ、と思い込んで何も変わろうとはしない教会の姿かもしれない。ギターを弾けば若者が集まるからと有頂天になっている教会の姿をも描いているのかもしれない。それらは皆、神の業をダイレクトに見ようとはしないで、自分の満足ばかりを追いかける人間の思惑の結果でしかないのかもしれない。
そんな思いでは、人間は御子を礼拝できない。この聖書はそれを伝えているのではないか。神の御子が世にお生まれになった。それは神の業である。星の導きも神の業である。その神の業のみが東方の博士たちを御子へと導き、彼らを礼拝する者へ、献げものをする者へと整えた。二千年前のその神の業、その神がもたらしたまことの光、地の果てまで輝かせるその命の光は私たちを照らし、私たちを振り向かせている。だからこそ今、闇が残る世の只中にあっても私たちは神を礼拝する者へと変えられている。私たち自身の思いではなく神の業そのものが神を知らなかった私たちを振り向かせた。これからも我々は、過去の経験や知識で自らを狭めることなく、日々新たに示される神の業そのものによって新たにされる。我々が知っていることは経験してきたことの中にではなく、知らないことの中にこそ新しい神の業があり、神の栄光が輝いている。
博士たちを神が、「別の道を通って帰らせた」というのは、そのことを伝えていると思う。自己満足ではなく、常に新たに生まれ変わらせて下さる方をこそ仰ぎ見続ける信仰をこれからも育まれて参りたい。