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主の貧しさによって

2024.4.28. 主日礼拝

ミカ7:8-9、Ⅱコリント8:8-11

「主の貧しさによって」浅原一泰

 

わが敵よ、私のことで喜ぶな。私は倒れても、また起き上がる。たとえ、闇の中に座っていても主は私の光である。私は罪を犯したので主の怒りを負わなければならない。主が私の訴えを取り上げ私を裁かれるときまで。主は私を光に導き、私は主の正義を見るだろう。

 

こうはいっても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心に照らして、あなたがたの愛が本物であるか、確かめたいのです。あなたがたは私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。この恵みの業について、私の意見を述べましょう。それが、昨年以来、自ら願ってこのことを始めた、あなたがたの益になるからです。ですから、今それをやり遂げなさい。心からそう願ったのですから、自分が持っているものでやり遂げることです。

 

皆さんは、これだけは譲れないもの、というものがあるだろうか。これを奪われたら自分が自分ではなくなってしまう、と言ったようなものはあるだろうか。人間としての誇り、プライド、自尊心。或いは人間としての良心。それは誰の中にもあるし、なくてはならないものであろう。普段は特に感じていなくても、人から非難されたり批判された時に、それがこみ上げてくるのを誰もが感じるのではないだろうか。プライドや自尊心が傷つけられれば、誰もがそれを必死で守ろうとするのではないだろうか。それは当然である。ただ、どうなのだろう。得てして人は、置かれた立場によって変わってしまう。地位や権力を持つ人は、これだけは譲れないものとして今の地位や権力を手放すまいとあれこれ策を弄し続ける。財を積み上げた人は、財産が失われないよう入念に手を打っておくだろう。人間関係においても、若い頃は平気で人を傷つける言葉を口にしていたのに、落ち着いた今は恵まれた人間関係の中にあるとしたら、ヒビが入らないように、心のどこかで計算しているところがあるのではないだろうか。そのように、譲れないものは徐々に変わって来るのかもしれない。志とかプライドは影を潜め、むしろ今の状態を維持する為になくてはならないものこそが最も譲れないものとなって来るように思う。そうして人間は地位だとか名誉だとかお金だとか人間関係だとか、そういうものに縛られていくのかもしれない。

 

今の安定が失われることは誰もが避けたい。むしろ今の安定が保たれるためにどんなことでもしようとするところが人間にはあるのかもしれない。ましてや、あなたは今よりももっと良い状態になれると言われたら喜んでその話に飛びついてしまうかもしれない。サタンはそこにつけ込んでくる。「食べても死なない。むしろ食べれば神のようになれる。」その言葉にあっさりと人間は誘惑される。兄としての立場が踏みにじられることに耐えきれず、カインはアベルを殺してしまう。アベルにその気がなかったかもしれないのに、である。あれもサタンに人間が屈服した具体例である。「もしひれ伏してわたしを拝むなら、全世界をあなたに差し上げるよ」。そういった魔の囁きに心奪われて非人間的な行為に走った独裁者も少なくない。ヒトラーがその典型である。権力を握った人間にサタンは今も囁き続けている。というか人間を手込めにすることなどサタンにとっては赤子の手をひねるように容易いことなのであろう。そのサタンはイエスをも誘惑していた。執拗に、粘り強く、三度もサタンはイエスを誘惑していた。もしかしたらサタンは焦っていたのかもしれない。この男は自分にとって危険だと痛感していたかもしれない。この男を封じ込めなければこの世は自分の思い通りにならなくなるとサタンは危険を感じたのかもしれない。だからこそ三度も誘惑を試みるがイエスはそれをはねのけた。それは皆さんもよく知っている通りである。

 

「キリストは神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の形をとり、人間と同じ者になられました」(フィリピ2:6-7)

この言葉を皆さんはご存じだろうか。フィリピの信徒への手紙に出て来るその頃歌われていた讃美歌の一節と伝えられる。「神の形でありながら、神と等しくあることに固執しようとせず」というのは、今の安定を失うことである。最も失われてはならないもの、それを守らなかったら神ではなくなってしまうもの、そのようなものにキリストは固執しなかった、ということである。キリストは、神と等しい者ということに拘らずに、むしろその肩書きを捨て去って僕の身分となり、人間と等しくなった、ということである。それはこの世においては神などとは認められない者となられた、ということである。

「言が肉となった」というのも同じことである。「肉」とは、神に裁かれるしかない人間のことである。神に背いて罪を犯し、死に陥ってしまった人間のことである。アダム以来、神に背いて自分の満足を求めた、という血筋の中におかれた人間全てのことである。自分に似せて造り、真剣に交わりを持とうとされている神に対して否を突きつけ、背中を向けて自分の思うままに生きようとする人間の姿のことである。「言が肉となった」というのは、単に神が人間となった、ということだけでなくそれ以上のことである。神に逆らう人間の敵意に対し、神が自らを譲り渡したということである。神に逆らう人間に裁きを下す側の神が、人間に裁かれる側に自らの身を置いたということである。人間が背負わされている死の呪いを、神が引き受けたということである。その呪いを耐え忍ばれたのである。耐え忍ぶことで最終的に神は死を滅ぼして死に打ち勝つ永遠の命を示されたのである。それは我々罪人の為であった。それらすべてを神はイエス・キリストを通して、キリストを世に遣わし十字架にかけることを通して、わたしたちの為に為してくださった。

 

先ほど読まれたⅡコリント8:9のところでパウロが、「すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました」と言っていたのも同じことだと思う。「言は肉となった」とか、「キリストは神の身分に固執せずに僕となった」ということと同じだと思う。ただ、なぜそのことをパウロは言わなければならなかったのか。それはコリントの人々が、クリスチャンとして失ってはならないものを失っていたからだと思う。絶対に忘れてはならないことを忘れていたからだと思う。置かれた立場によって人間は変わる。そのことがこの時のコリント教会において具体化していたからだと思う。ではコリントの人々はどう変わってしまっていたのだろうか。

 

「こうはいっても、私は命令するのではありません。ただ、他の人々の熱心に照らして、あなたがたの愛が本物であるか、確かめたいのです。」

パウロはまずそう切り出した。命令ではないとパウロが言っていたのは、すぐ前の7節にあった彼の言葉のことである。「あなたがたは信仰、言葉、知識、あらゆる熱心、わたしたちから受ける愛などすべての点で満ち溢れているのですから、この恵みの業にも満ち溢れる者となってください」。ただしこれは命令するわけではありません、と言っているわけだ。恵みの業とは、財政的に貧しかったエルサレム教会を献金で支えることであった。コリントのあるマケドニア州は貿易が栄え、経済的に繁栄する都市が多くあったので、既にその地にある諸教会がエルサレムに献金を送っていた。パウロや彼の弟子たちがそうするようにと奨めたからである。同じ事をパウロはコリントにも求めていた。しかしコリントの教会の中に異論を唱える者がいた。「何でわざわざあの教会を支えなければならないのだ。」「我々は自分達で自分の教会を支えている。エルサレムも自分の力ですべきなのにそれが出来ないのは努力が足らないからだ。」そんな心ない発言をする連中がいた。そして、異邦人も多くメンバーとなっていたコリントの教会には、ユダヤ人に対する敵意や抵抗心があったと思う。

確かに表面的にはコリントの教会は豊かで、エルサレム教会は貧しかった。しかしその豊かさは主の恵みによる豊かさではなかった。主の助けを借りなくても、人間の知恵や力でどうにでもなる豊かさでしかなかった。神の助けを借りなくても生きられるという、サタンに屈服したアダムの豊かさでしかなかった。見た目にはそれで豊かな教会と判断されるのだろう。コリントの住民からは、あの教会は大したものだと評価されていたかもしれない。しかしそれは主イエス・キリストの恵みによる教会ではなかった。だからこそパウロはこう言わずにはいられなかった。

 

あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでいたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、主の貧しさによって、あなたがたが豊かになるためでした。」

 

本当の豊かさとは、主の貧しさによって豊かにさせられることだ。パウロはそう言っている。始めに申し上げたことと照らし合わせるなら、神が神の立場を捨てて人間と同じ姿になられることによって、言が肉となることによって与えられる豊かさだ、と言うことだ。それは果たしてどんな豊かさなのだろう。主の貧しさによる豊かさとは何なのだろう。それはアダムであることを皆が止めることだと思う。主の助けを借りなくても自分で何とかなる、と思うことを止めることだと思う。こいつさえいなければ私が日の目を浴びられるのに、と自分の欲を満たすためにアベルを殺したカインであることを止めることだと思う。つまり、サタンの誘惑に乗せられないことである。しかしコリントの人たちは出来なかった。彼らだけではない。何時の世も、我々も、人間はあっという間にサタンに乗せられてしまう。我々が自らの力でサタンを追い払うことなど出来ない。そんなことをしたら却って益々サタンの手の内にはまってしまうに決まっている。ではどうすれば良いのか。サタンの誘惑をはねのけたあの方を見上げれば良いと思う。サタンが最も恐れ、最も危険と感じたからこそ執拗に誘惑を試みたがあの方の前では挫折せざるを得なかった、あの方を見上げるしかないと思う。

 

その方はこのような言葉を残しておられた。「すべて重荷を負って苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。私は柔和で心のへりくだった者だから、私の軛を負い、私に学びなさい。そうすれば、あなたがたの魂に安らぎが得られる。私の軛は負いやすく、私の荷は軽いからである」(マタイ11:28-30)

イエスは成功している者を招いたのではない。自分が正しいと思っている者、自分で何とか出来ると思っている者を招いてはいない。それらはサタンに乗せられている者たちであるから、彼ら自身がイエスの助けを必要としていない。イエスが招いたのは疲れた者、重荷を負う者、苦しめられている者、貧しい者である。アダムであることを止めるなら、自らが自分では何も出来ない貧しい器に過ぎないこと、神の前では裸の人間に過ぎないことを認めざるを得ない筈である。そこでこそ人は、そのような自分に語りかけ、手を差し伸べて下さる神に気づかされるのではないか。裸の我が身である時だからこそ、美味しいえさを見せて神から引き離そうとするサタンの魂胆が分かるのではないか。イエスは「わたしの軛を負いなさい」と言われていた。イエスの軛とは、神の御前において、貧しいままの自分に徹する、ということなのではないだろうか。イエス自身が、神の身分でありながら、その立場に固執することなく、人間の姿となり、十字架の死に至るまで、神への従順を貫き通された。石ころをパンに変えられるならお前を神と認めてやろう、というサタンの誘惑をもはねのけて、神の前で貧しい姿に徹しきられた。嘲笑われ、十字架が目前に迫っても、苦しみから逃げる道を選ぶことなく、「わが神、わが神、なぜ我を見捨て給うや」と、最後まで貧しい姿に徹しきられた。死に至るまで従順を貫かれたこの方を神は高く上げられたのである。復活させられたのである。「主の貧しさによって豊かにされる」とは、そういうことなのではないだろうか。「わが敵よ、私のことで喜ぶな。私は倒れても、また起き上がる。たとえ、闇の中に座っていても主は私の光である。」あのミカの言葉が主イエスによって実現されることなのではないだろうか。自分で自分を豊かにしようとするのは、サタンの思惑にはまっている人間である。主の恵みを必要としない人間のすることである。神の御前で、貧しい器、弱い器に徹しきらざるを得ない時、初めて人は共に苦しんでいる隣人、助けを必要としている隣人の存在に目が開かれ、今の自分の身の安定など後回しにして、自分がどうなろうともその隣人の為に祈らずにはいられなくなるのではないかと思う。主の恵みによってそのように変えられるその時、その人は主の貧しさによって豊かにさせられているのではないだろうか。見た目は貧しくとも、神の愛に満ち溢れた土の器とされているのではないだろうか。それこそがキリスト者が見失ってはならない原点、プライドであり、パウロはそこへとコリントの人々を立ち帰らせたかったのだと思う。

 

「この恵みの業について、私の意見を述べましょう。それが、昨年以来、自ら願ってこのことを始めた、あなたがたの益になるからです。ですから、今それをやり遂げなさい。心からそう願ったのですから、自分が持っているものでやり遂げることです。」そうもパウロは記していた。命令ではなく、強制でもなく、彼らが自分の思いで、心からエルサレム教会を助けたいと、そう思えるようになることが主の貧しさによる豊かさだと、パウロは彼らに気づかせたかったのだと思う。

 

 

我々自身、神の御前で貧しく弱い姿に徹し切れているであろうか。アダムになろうとしてはいないだろうか。サタンは巧みにそこを狙ってくる。しかしイエスは言われていた。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」と。サタンに唯一勝利されたイエスが共にいて下さる。そのイエスが誰よりも貧しく弱い姿となって下さっている。イエスが身をもって、死からよみがえらせる神の深い愛を証しして下さっている。そのイエスをこそ、見上げ続ける信仰の歩みを揃えていただきたい。