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荒れ野のキリスト

「荒れ野のキリスト」申命記8210、マタイ4111

2024421日(左近深恵子)

 洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになるため、主イエスは荒れ野の中のヨルダン川のほとりに来られました。人々と同様、罪に囚われている者のように水の中に全身を沈めて洗礼を受けられました。すると主イエスの上に聖霊が降られました。そして「これは私の愛する子」との声が天から聞こえました。この洗礼において、大人になられた主イエスは初めて福音書に登場されました。この出来事に私たちは主イエスがどのような方であるのか見出します。主イエスは神のみ子であり、父なる神と聖霊の深い結びつきの中におられるのだと、聖霊が共におられ、父なる神は主イエスに愛を注いでおられるのだと知ります。だから、ここから先の主イエスの日々にも、愛と喜びに彩られた聖霊と父なる神との結びつきが示されることを期待せずにはいられない私たちですが、ヨルダン川から聖霊が次に導いた場所は、更に荒れ野の中であったことを聖書は伝えます。それも、悪魔から試みをお受けになるためであったと、述べるのです。

主イエスが荒れ野で試みを受けられたことを、神のみ子は当然試みを退けるのだから、主イエスにはそのような試みは必要なかったのにと、この出来事は主イエスにとって意に反して、思いがけず降りかかったことのように私たちはとらえがちですが、試みは主イエスにとって青天の霹靂だったわけではありません。主イエスの歩みを荒れ野で妨げ、貴重な時間とエネルギーを奪った、余計な出来事ではありません。聖霊が試みを受けるために主イエスを導かれたのであり、神のご意志に従うものでありました。聖霊なる神と父なる神が主イエスと共におられるとはどういうことであるのか、主イエスが神の子であられるとはどういうことであるのか、そのことを深める道を、洗礼に続いて取ってくださったのです。

 最初の二つの試みは、「神の子なら」という同じ言葉によって始められます。試みる者は主イエスが神の子であることを知っています。あなたは神の子なのだろう、ならばこうしたらどうだ、そう囁きます。主イエスが受けられた試みは、主イエスに神の子であるところから離れさせようとするものであります。しかし悪魔は無理やり力づくで引きずり出すことはしません。こうした方が良いだろうと尤もらしい提案を持ち掛け、主イエス自ら、神の子であるところから離れ出る方向へと進む決断をさせようとします。神さまに背かせる試みとはまさにこのようなものだと、思い当たることが私たちにもあるのでは無いでしょうか。誰かに強制的に意に反して神さまから引き離されるというよりも、これが良いことなのだと、効率的だ、常識的だ、仕方ないのだと、自分でその道を選び取ってしまうものではないでしょうか。そうやって神さまのもとから離れ出てしまい、神さまが本来与えてくださった自分の在り方に自分で背いてしまうことが、私たちにとっての試みであり誘惑であります。

 主イエスに対する試みは、身近で切実な問題から始められます。主イエスは荒れ野で4040夜断食をしておられました。聖書にはモーセなど、断食をした人びとのことが述べられています。断食は、重要なことに向かっていく前に、備えの時としてしばしば行われます。自分の命を真に生かしておられるのは神さまなのだと、自分を本当に養うのは、食べ物を獲得する力を持つ自分自身ではなく神さまなのだと、深く知る時なのかもしれません。断食は祈りの時でもあります。主イエスは40日という長い断食の期間、空腹を解消することを求めず、お一人で、肉体の衰弱を、特に空腹を覚えながら神さまに祈り、これからご自分が神さまの救いの実現のために進まれる道を見定めておられたのではないでしょうか。

 主イエスの空腹を、主イエスを揺さぶる好機と見て試みるものは近づき、これらの石がパンになるように命じたらどうだと囁きます。石をパンに変えることができない私たちには試みにならない囁きですが、試みるものは主イエスがもし願えば、そうすることができることを知っているのでしょう。実際に後に主イエスはご自分が語る福音を聴きたいと集まった大勢の人々を、僅かなパンと魚で養われます。男性だけでも4千人、5千人と言われる群衆の空腹を我がこととして憐れまれ、必要を満たし、食事の時をご一緒に持ってくださいました。けれどこれから進む道を見定め、備えるために断食をしてこられた主が、石をパンに変えることで空腹を満たすのは、神のみ子としておられるところからご自分を離れさせることでありました。主イエスは申命記83の言葉を告げてこの試みを退けられます。

申命記は8章で、奴隷としていたファラオの支配の元から神さまによって救い出された神の民の40年間の荒れ野の旅を振り返り、神さまがご自分の民を、親が自分の子を訓練するように導き養って来られたこと述べています。人はパンだけで生きるのではなく、主の口から出る全ての言葉によって生きるということを知ることができるように、そのために民を試み、荒れ野で導いたのだと告げます。イスラエルの民は神さまのこの試みに耐えられず、神さまの言葉に歩み通すことができませんでした。主イエスを試みるものは、それはイスラエルの民に限られたことではないと知っていたのでしょう。人間が求めるのは、結局はパンなのだ。パンだけで生きられると思っているのだと。肉体の飢え渇きを満たしてくれるもの、健康や安定した生活を守り続けてくれるものを結局人間は自分たちの救い主とし、その力にひれ伏し、その力に属して生きながらえようとするのだと。主イエスが今ここで石をパンに変える力で自分を生かせば、人々は主イエスを救い主とし、ひれ伏すだろうと。その試みに対して主イエスは申命記の言葉によって、ご自分は神さまの口から出る全ての言葉によって生きてゆかれることを宣言されました。「人は」と告げるこの言葉を引用されることで、ご自分だけでなく人間はそうであるのだと、宣言されました。人々自身は自分が何に拠って本当に生きるのか分からなくなってしまい、パンだけを求めることへと流されてしまう傾向を抱え続けているが、人の命の本質は、神さまの言葉に従うことにおいて生き生きと生かされるのだと、日々、神さまの言葉にあって一歩一歩を踏み出してゆくことで、本来の人生を歩む者となるのだと、試みるものに告げてくださったのです。

 第二の試みは、主イエスがこれから進もうとされるお働きにより食い込みます。試みるものは主イエスを神の都の神殿の上へと連れて行き、その端に立たせ、ここから飛び降りて、神が遣わされる助けによって無事に降りられることで、神の子であることを証ししてみせたらどうだと、詩篇の言葉(詩篇911112を用いて囁きます。神の子である主イエスは、天の使いに助けられることも可能であると知っているのです。飛び降りても神が救うと聖書に書かれているだろう、ならば神に頼ったら良いではないか、神殿で礼拝を捧げるために集まってくる人々も、普通の人間であれば死ぬところを、聖書の言葉の実現によって助けられるあなたを見れば、あなたを神の子と信じ、従うようになるだろうと囁く試みは、信仰的な促しのように聞こえなくもないところが非常に巧みであります。けれどこれは神さまを取引相手とすることに誘導しようとする、聖書の言葉の悪用であります。

人間が求めているのは結局は、生物学的な生命を守ることのできる力であり、死の淵からだって生還させてくれる力なのだと、その力を自分に発揮してくれるものを救い主とするのだと、試みるものは人間の実態をそう見ています。その見方は外れているとは言いきれない私たちであります。この先主イエスは、そのような人々の願望や欲望と対峙し続けられます。人々は自分たちが造りあげる救い主像に主イエスが当てはまることを期待し、期待通りでないからと失望し、主イエスを憎み、十字架に架けてまでその存在を消し去ろうとします。主イエスは人々に、ご自分がどのような救い主であるのか語り、示し続けます。最後の過越の祭りをエルサレムで祝うために都に入られる時も、軍馬に跨り軍勢を引き連れて登場し、最強の戦士として君臨する様な王、あるいは奇跡的な勝利をもたらす神の人の様な王を期待する人びとの前に、子ロバに乗って、旧約聖書に語られる王の姿によって現れてくださいました。十字架上でご自分に向けられた「神の子なら、自分を救ってみろ」という人々の罵声にも応じられませんでした。「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」と愚弄し、“神に頼ってきたのだろう、神の子と言うなら神に今救ってくださいと求めたら良いではないか“との嘲りを浴びせられても、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」と叫ばれたその言葉を、エリヤに十字架の死からの助けを求めているのだと誤解されても、死の淵から天の助けによる奇跡的な生還をすることによって、ご自分の身分を証明することはなさいませんでした。人々が救いとする名誉の回復や生命の守りだけでは、真の救いとならないことを本当にご存知であるのは主イエスだけです。人々が求める救いと真の救いとの乖離に、主イエスは苦しんでこられました。今もきっとそうでありましょう。その乖離に、主イエスはお働きを始める前に既に対峙してくださっていたことを、今日の箇所から知ります。救いが必要でありながら自身では真の救いを求めることができず、救い主を理解しない人々を救うために荒れ野で備えてこられた主イエスに、試みるものは、この世が求めるヒーローに成り代わってはどうかと、人々が求める救い主であることを実証してみせたらどうかと囁きます。

この試みを主イエスはまたも、荒れ野の旅を振り返り、神さまが告げられた言葉によって退けられます(申命記616)。喉が渇いた民が神さまを試そうとしたことを思い起こさせ、神さまを試し、取り引きに応じるよう求める者の信仰からかけ離れた要求を示し、試みる者に、同じことだと退けるのです。

 第三の試みにおいて初めて試みるものがそのまま「悪魔」と呼ばれます。聖書が証ししてきた神を知り礼拝を捧げる人々だけでなく、更に世の全ての者を、悪魔は主イエスのものにできると、悪魔を拝みさえすればと囁きます。主イエスは、世のすべてのものが主なる神のもとに立ち返ることを願っておられます。けれど神さまではない力にひれ伏すことによって人々がご自分につながっても、それは世が神さまの元に立ち返ったことになりません。そもそも悪魔は世の全てを見せて、「これを全部与えよう」と主イエスに言っていますが、悪魔にその様なことを宣言できる権限は無いのです。世は確かに神さまに背く力に引きずられています。このような悲惨な出来事の只中に神はおられるのだろうかと、神さまに背く現実の方が支配する力を持っているように見えてしまう状況が、この世の多くを占めていることに、私たちは苦しみ、悲しみながら、神さまの助けを祈り求めてきました。世は神に背く力の下に降っているのだと、神に背く力によってでなければこの世で力を持つことはできないと、神に背く力に従うことによってでなければ、この世を支配することはできないと、それが結局世の実態なのだとする見方を、真実であるかのように掲げる悪魔の囁きは、私たちを揺さぶってきました。それでも、世は悪魔のものではありません。悪魔は世の現実を完全に手中にできているわけでは決して無いことの実例を、私たちは見聞きしてきました。信仰に生き、信仰に死んでゆく人々の王は主なる神であって悪魔では無いことを、数多の人々が証してきました。

主イエスはここでも申命記の言葉でこう退けられます、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」。そしてみ子ご自身、死者の中に降ることにおいてまでただ神である主に従い通されました。この日悪魔は主イエスを非常に高い山の上に連れて行き、「もし、ひれ伏して私を拝むなら、これを全部与えよう」と囁きましたが、復活されたキリストは山の上で弟子たちに、ご自分は天と地の一切の権能を授かっていることを告げられました(マタイ2818)。神さまに従い通されることで、復活の主こそ、世の全ての国々のみならず、天と地をも支配するお力を授かっておられる、真の王であることを宣言されたのです。

 人間が求める王は結局はこのような力を自分たちに発揮してくれるものなのだと、そのような救いを人間は結局求めているのだと、そう受け入れさせようとする試みに、主は対峙してくださいました。神が人にお与えになった人間の本質を諦めることをなさらず、その様な本質を失いつつある人々を救うため、神のみ子であることを守り通されました。主イエスが対峙された乖離は、おそらくこの時まで既に主イエスはそのご生涯の中で深く知ってこられたことでしょう。そして主はこの先も、この乖離に苦しまれます。神のみ子が悪魔の試みを退けることは当然であり、さほど苦労の無いことだと捉え、「退け、サタン」と言われ、試みるものが主のもとを離れ去ってゆくこの出来事の結びを当然のように眺めがちな私たちのために、主は荒れ野で、十字架の死に至るまでご自分を退ける人間の実態と闘われました。そのために、4040夜の断食をもって備えられた重みを思わされます。そのために独り子を荒れ野での試みへと導かれた神さまのみ心を思わされます。

 

主イエスは神さまの言葉にのみ従うことによって、神のみ子なる救い主として私たちに救いをもたらす道を踏み出すために、一つ一つ試みを退けられました。その孤独な闘いを終えられたみ子に、父なる神は天使を遣わされます。取り引きによって父なる神を動かすことを退けられたみ子の傍へと、み子の必要を満たすために天使を遣わされる父なる神の結びつきが、再び語られます。私たちがその元へと立ち返るのは、私たちの見方を変質させ、私たちの足元を大きく揺さぶるような試みを貫いて深く結びついておられる、父、子、聖霊なる神のもとであるのです。