「それでもなお、命をあたうる主」
旧約聖書 列王記上19:1~8、マタイよる福音書26:26~30
2024年3月3日(レントⅳ、吉野美和)
今朝、与えられました聖書のみ言葉は、「それでもなお、命を お与えになられるのは神さま」であるということが示されております。
わたしたちは、命の糧を 神さまに日々、いただいて生きている。そのような者であります。そして、そうでありながら、その喜び、恵みを あたりまえのように 受け取り、だいじにすることができないでいます。
私たちが、命の糧を神さまに日々、いただいて生きていることをあらためて、感じる時とは、神さまを信じ、頼らせていただかなければ、 自分では、生きていけない、動けないことに ぶつかる。そのような時であるとも言えましょう。
先ほどお読みいただきました旧約聖書、列王記には、預言者エリヤが一本の エニシダの木の下にたどりつき、「自分の命が絶えるのを願う」ということが描かれておりました。ここにいたるまでのエリヤは、というと、神さまを信じ、信頼し、誇らしげに、神さまからいただいた使命を果たし、自信たっぷりの行動をとっておりました。そのなかには、カラスに養われ、パンと肉がはこばれ、生き延びているということもありましたが、これも、また、神さまが カラスを用いて エリヤを養っておられる。エリヤは、いつも 神さまと共にあった預言者であることが示されています。そして、異教の神を崇拝する 北イスラエルの王国 アハブ王との対決では、アハブ王の妻イゼベルの食卓につく450人のバアルの預言者と 400人のアシュラの預言者をカルメル山に集め、エリヤが信じ、信頼するイスラエルの神である 主なる神さまの臨在を見せつけます。そして、エリヤは、「バアルの預言者たちをひとり残らず捕らえ、キション川の渓谷に連れて行き殺した」と記されます。神さまのみ心は、そこまでのことをエリヤにのぞんでいたのでしょうか。エリヤというすごい預言者であろうとも、うまくいきすぎると、やりすぎてしまったことでもあったように感じるところであります。
その後、エリヤが行ったすべてのことを聞いた アハブ王からきいた、妻イゼベルは、エリヤに「お前の命も 殺した預言者たちと同じようになる」と告げます。
これを聞いたエリヤは、どのようになったか。これほどにも 勇ましく、自信に満ちていたはずのエリヤでありましたが、直ちに逃げた。とあります。 そして、 ユダのベエル・シェバに至ったとあります。北王国から南王国へ、北の端から南の端まで逃亡するのです。 そして、一緒に行動してくれた従者とも、あっさり別れ、ひとり荒野に逃げ込むエリヤは、殺伐とした、色のない 果てしない 荒れ野を一日の道のりを 歩き続けたとあります。強烈な日ざしが照り返す荒れ野を歩き続けます。疲れ果てたエリヤに 容赦なく太陽の熱気が ふりそそぎます。水も食べ物も つきていたと思われます。それは、挫折の中にあるエリヤの孤独をあらわす心象風景を示すような 生きていくことが 苦しくなる世界、そのような荒れ野に身を隠すように逃げ込んだのです。
そこに 一本のえにしだの木を見つけるのです。エニシダの木は、低木のマメ科の落葉樹です。それは、神さまがエリヤに一本の木をお与えになられている。低木の一本のエニシダ、色のない世界にその部分だけが 色つきの緑色の映像が うかびあがってきます。 その木がつくる小さな影の下に エリヤはすわり、命が絶えるのを願うのです。
エリヤは なんと言ったか。「主よ、もうたくさんです。私の命をとってください」
そのように願ったエリヤでありますが、えにしだの木の下、木のつくってくれる影にいだかれて、横になったエリヤは、眠った。眠りにおちるのです。
神さまによって 眠れるときが 与えられるのです。そして、み使いが エリヤに触れて言います。 ここでは、み使いが声をかけるのです。
神さまに声をかけられると 苦しくなることを 知っておられる神さまは、 み使いを用いて声をかけるのです。
「起きて、食べよ」 パン菓子と水の入った水差しがあります。 エリヤは、食べて、飲み、 もういちど、横になった。とあります。
戦いに疲れ果て、絶望感に襲われて 「命をとりあげてほしい」と願うエリヤでありますが、それでもなお、 神さまは、エリヤのことを 決して、あきらめることなく、まずは、エリヤが休めるように エニシダの木をお与えになられ、かかえているものを すべて神さまに預けて、ねむること。休養 と 食べ物、水 をすべて お与えになられ、生きる力を失ったエリヤに「あなたに希望をかけているんだよ」と命の糧をお与えになられるのです。
そして、そのうえで、「この道のりは、耐え難いほど長いのだから」と これからのことを伝えます。エリヤは起きて食べ、そして飲んだ。とあります。その後、エリヤは40日40夜歩き続け、神の山ホレブにたどり着くのです。
荒れ野は、希望のかけらも見いだせない、殺伐とした 色のない世界でありますが、神さまの慰めと導きが与えられるとき、神さまによって、命を養っていただける場所へと変えられるのです。
生きる力を失っている時にあっても 命の主は、「生きよ」と生きる糧をお与えになる。生きる力を失っていた エリヤもまた希望の光をともし、神さまの救いのご計画のなかで、主を信ずるものとして、神さまの愛のなかにおかれるのです。
今朝与えられております 主イエス・キリストがご用意された晩餐は、主が十字架におかかりになられて死なれた受難日の前の晩、主イエスは、弟子たちと共に 過越の食事を 願われます。
ルカによる福音書の言葉では、「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと
わたしは切にねがっていた」というお言葉があります。
それは、主イエス ご自身が 十字架におかかりになられ、死なれる前に、弟子たちに告げ知らせておきたいことが あり、主の食卓に招いておられるのです。
切に願ってくださっている 主イエスの 愛があらわされている言葉です。
それゆえにも、主イエス・キリストご自身が、その食卓の用意をなさったことが示されます。
マタイ福音書26章 17-19節
除酵祭の第一日、弟子たちは イエスのところに来て、「どこで、過越の食事をなされる用意をいたしましょうか」と、たずねます。
イエスは、言われた。「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。
『先生が、私の時が近づいた。弟子たちと一緒に過越の食事をする』と。
それは、「私の時が近づいた」そのことを知っておられるイエスさまご自身であり、その食卓の準備をていねいになさっている お姿です。
主イエスがこの過越の食事である最後の晩餐を 非常に大事に考えておられたことが あらわされています。
ヨハネ福音書13章1節の言葉は、このように伝えます。「この世から父のもとへ移る ご自分の時が来たことを悟り、主イエスは、世にいるご自分の者たちを愛して、最後まで愛し抜かれた」
とあります。それは、 命をお与えになる 救いの道を 自ら 歩もうとなさっておられる姿 です。主イエス・キリストがお示しになられる愛は、弟子たちの足を 洗い、腰に巻いた手ぬぐいで拭き始められたお姿にも あらわされます。 神の御子であられる イエスさまが お仕えになられるのです。そして、主イエスは、イスカリオテのユダ裏切ることをも 知っておられながら、弟子たち12人の ために大事に整えられました。
ヨハネが福音書にあらわすところの 主イエスがさいごまで愛しぬかれた。
「世にいるご自分の者たち」とは、どのような者でしょうか。イスカリオテのユダは、 主イエスを銀30枚で、主イエスを殺そうと計画する祭司長たちに売り、引き渡すということを 私たちは知っています。イエスさまは、私たちが知っている以上に もっと深く、ユダのことを知っておられました。そして、その裏切るユダをもふくめ、この主の食卓にお招きになられ、主イエスは、弟子たちこのように言われます。
マタイ福音書26章21節
「よく、言っておく。あなたがたのうちの一人が私を裏切ろうとしている」
これを聞いた弟子たちは、非常に動揺します。「それは、私のことではないかと」代わる代わる言い始めます。 それほどに、ユダだけでなく、弟子たちもまた、自分たちの危うさ、自分の醜さ、愚かさを 自分がいちばんよく知っているのです。 わたしたちも そうでは、ないでしょうか。主イエスを信じていると言いながら、何度も、何度も、裏切ってしまっている。イエスさまを悲しませ、それでも、イエスさまに謝りながら、生きている。 そのような者では ないでしょうか。
マタイ福音書27章はこのように 続いています。
罪なき主イエスを裏切り、引き渡したユダは、イエスの有罪の判決がくだったことを知って、後悔し、銀貨30枚を祭司長たちに返そうとしたが、受け入れられず、銀貨を神殿に投げ入れ、首をくくった。と記されています。
ユダのことを イエスさまは、どのように見ておられたのでしょうか。いちばん、ユダに心を痛めておられたのは、主イエス・キリストで あります。
「人の子を裏切る者に災いあれ。生まれなかったほうがその者のためによかった」
この言葉は、イエスさまの お心の痛みがあらわされているのではないでしょうか。
後に とても苦しむことになるユダを知っておられ、心を痛めておられるのです。
主イエスは、このあと、ペトロが、「わたしは、イエスを 知らない」と3度否むことをも知っておられました。さらには、すべての弟子たちが、十字架を前に、逃げ去っていくこともご存知でした。それを知っておられながら、ていねいに主イエスは、食卓を用意され、 パンとぶどう酒を お与えになられた。主イエスを信じると言いながら、逃げてしまう、裏切ってしまう、そのようなできのわるい、どうしようもない、弟子たちのために、十字架で死なれ、血を流され、ご自分の肉を裂いて、十字架の死による 救いを お与えになられた。わたしたちは、今、教会で聖餐にあずかる者です。
それは、父なる神が御子である主イエスをお遣わしになられ、主イエスが十字架で血を流し、肉が引き裂かれる意味です。
マタイ福音書26章28節
主イエスは、このように言われます。
「これは、罪の赦しを得させるために、多くのひとのために流す、わたしの血」である。
この意味は、神と人間との間に 契約がたてられ、神と人間の間に、救いの道が、主イエスの語られる み言葉によって、約束がたてられているのです。
主イエスは、イスカリオテのユダだけではなく、十字架を目の前にして、逃げて行った弟子たちや、はっきりとした態度をとることのできない 私たちもおなじように罪深い者であることを知っておられます。それでもなお、永遠の命をお与えになられる救い主 主イエスがおられます。
それでもなお、この罪を かかえる者たちを愛し、憐れみ、わたしを信じ「主の聖餐にあずかりなさい」と、イエスさまがみずから、声をかけておられる。 それが 聖餐です。
それゆえにも 主を信じる者にとって、聖餐は、罪の告白が心の痛みをもってなされるときであり、悔い改めが求められます。それでもなお、罪は、ぬぐいきれるものではなく、主が背負っていただくことになります。強い信仰を持っていると言いきることは、とてもできない 弱い者であります。 それでも、そのような わたしたちのために 十字架におかかりになられ、死んでくださって、ご自分の体であるパンと 十字架で流された血である杯を弟子たちおあたえその感謝のなか、地上で生きることのできる大きな恵みが与えられる。それが 主イエスを信ずるわたしたちであります。主イエス・キリストの弟子でありたいと祈り、願って歩む者でありたいと思います。
主イエス・キリストは、私たちの不信仰を知っておられます。それでもなお、命をお与えになろうと、洗礼へとお導きになられ、この大きな恵みを、聖餐というかたちで 忘れないよう繰り返し、繰り返し、神さまの恵みを 目でみえる形で与えておられるのです。
それは、今もなお、主イエスキリストが共にいてくださるという恵みのなかにあることを 味わい知ることができる イエスさまの愛のかたちである、それが 「聖餐」です。
わたしたち自身が 罪をかかえていながら、いまいただいている 大きな主イエス・キリストの恵み 「それでもなお、命をお与えになられる主」 主の聖餐にあずかることのできる恵みに感謝したいと思います。
そして、この大きな恵みをいただいている者として、主を証しし、この救いの恵みを 伝える者でありますよう、また主イエスが ご命令がなされているように。
ひとりでも 主の恵みを伝え続けることのできる教会として、あきらめることなく 主の栄光をあらわすことのできる 美竹教会でありますように。
主に愛され、ますます用いられますように 祈り、求め続けたい。そのように思います。