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新しい歩み

「新しい歩み」創世記4110、Ⅰヨハネ31117

2024218日(レントⅠ、左近深恵子)

 

 先週の水曜日からレント(受難節)に入りました。主イエスが負われた苦しみと、十字架で捧げられた命のことを語る聖書の言葉に耳を傾け、思いを深める時であります。今日与えられたヨハネの手紙にはキリストの十字架のことがこのように語られています。「み子は私たちのために命を捨ててくださいました。それによって、私たちは愛を知りました」(16節)。愛と聞いて私たちは先ず十字架を思い浮かべるでしょうか。どちらかと言うと、温かく私たちの全てを包み込むような優しさ、輝きといったイメージを思うのではないでしょうか。私たちが神さまに期待するのも、そのような愛のイメージと重なるものでありましょう。人々から理解されず、執拗な攻撃や揶揄する言葉を浴びせられ、死んで自分たちの社会から消えて欲しいと多くの人に望まれ、十字架上でまでも罵声を浴びせられた主イエスの出来事に、真っ先に愛を思い浮かべないかもしれません。その十字架によって、神さまの愛を私たちは知ることができるのだと、この手紙は言います。

 

神さまの愛が温かく、優しく、輝きを放ち、私たちを包み込むものであるということは、間違いないでしょう。しかしどのような意味で温かいのか、優しいのか、輝きを放っているのか、どのように私たちを包み込んでいるのか、私たちがそれぞれ抱く期待や、私たちの描くイメージによって輪郭を掴むことはできません。この手紙が述べるように、神さまの愛は知るものです。私たちが創り出すものではありません。十字架に至るまで主イエスが徹底的に苦しみを負われ、十字架で命を捨てられたことを見つめることによって、知るのです。

 

 この手紙はここに至るまで、既に神さまの愛を語ってきています。特にこれまでは、神さまが愛で包み込んでくださる私たち人間とはどのような者であるのかを示すことに力を入れてきました。そのことに重きを置く背景には、この手紙の受け取り手である教会に、神さまの福音とは異なる教えの方へと導こうとする者たちがいたことがありました。人々を誤った教えで惑わすこの者たちは、神の独り子が人となられことも、その十字架の死が人々の罪の赦しのためであったことも否定しました。主イエスが私たちと同じように肉体を持つ者として存在の全てをもって苦しみを負われたこと、その苦しみは人々に罪の赦しを得させるためであったことを受け留めないということは、人の罪をも見つめないということであります。罪を曖昧にし、罪赦されたことに向き合おうとしないこの者たちは、罪の赦しへの感謝を自分の生活を通して表わそうと思いません。他者との関わりにおいて、神さまへの感謝を行動で示す必要性も認めません。信仰を、心の内のこと、心の持ちようと言ったことへと狭めてしまいます。手紙の送り先である教会の人々は、このような教えに揺さぶられてきました。その人々に手紙は、主イエスは罪から私たちを救い出してくださった救い主であると、救い主と信じる信仰は、信仰者の行動に現れるのが当然であると説きます。今日の18節にも「言葉や口先だけでなく、行いと真実をもって愛そうではありませんか」とあります。行動を伴わず、口先だけで主張を繰り返す者たちの虚ろな実態を見つめます。そして、神さまから信仰を与えられ、キリストの十字架によって神さまの愛を知る私たちは、そのような愛を注がれていることを、生活を通して、生き方を通して現さずにはいられないと、人々に語り掛けるのです。

 

この手紙は、人間とはどのような者であるのか見つめてきました。誰の中にも自分の罪を曖昧にしたくなる思いがあり、罪を見る内なる目を曇らせたまま、罪の闇に引き寄せられ、罪がもたらす先のことを見ようとしないまま、罪の中へと沈み込んでゆく傾向があることを見つめてきました。今日の箇所でも、創世記4章のカインとアベルの出来事を思い起こさせます。カインとアベルは兄弟です。カインが兄、アベルが弟です。ある日それぞれが自分の働きの実りの内から主のもとに供え物を持ってきました。神さまのために祭壇を築き、礼拝をしようとしたのです。神さまはアベルとその供え物に目をとめ、カインとそのものには目を留められなかったと創世記は語ります。この出来事を通して、アベルの思いや言葉は何も記されません。カインに比べその存在感はとても希薄です。この出来事において、神さまがアベルとその捧げものにのみ目をとめられた理由も記されていません。知ってすっきりとさせたくなる私たちですが、聖書が記していない、神さまの内にある理由を、私たちが決めつけてしまうことはできません。この出来事で創世記がしていることがなんであるかと言うと、カインの思い、言葉、行動を一つ一つ辿り、語ることです。カインという人間がどのように罪に引きずられ、罪に陥り、隣人を巻き込んでしまうのか、どのようにして隣人を愛することに背を向け、神さまから隠れようとし、死の闇を自分の居場所としてしまうのか浮かび上がらせます。そして、このカインに、神さまがどのようなことを告げ、なさったのかを、語ります。

 

カインはアベルを殺してしまいました。ヨハネの手紙は、カインのようになってはならないと言います。カインがアベルを殺したのは、カインは行いが悪く、アベルは行いが正しかったからだと記します。アベルが正しいのなら、アベルのように正しい礼拝者になろうとカインが願ったかと言うと、そうではありません。神さまのみ前に出て、自分と自分の供え物に目を留めてくださらないのは何故ですかと、神さまに理由を問うたかと言うと、それもしていません。カインがしたのは、アベルと自分を比べることです。神さまのみ前にではなく、アベルという自分が基準としたものの前に自分を置き、神さまにではなく、他者との比較に自分を支配させています。自分の捧げたものに対して、神さまが自分の期待にふさわしいもので返してくれないと思うと、神さまを見失い、基準としたアベルに怒りを募らせます。カインはまるで、捧げたのではなく、神さまからの見返りを期待して取引をしたかのようです。同じ両親を通して共に神さまから命を与えられた兄弟であるのに、カインの方は悪しき力に自分を従わせています。そして、比較の基準である弟の存在を消すことで楽になろうとしたのです。

 

私たちは皆、カインのように滅びへと誘う力に従ってしまう者であります。自分の正しさが不十分であることを明らかにする正しい者を身勝手な理由で憎み、その者の存在が無くなることを願ってしまう罪を抱えています。この罪にひきずられたまま死んでゆく生涯は、生きていながら既に死の力の内にあります。キリスト者となるということは、その死の力の内から命へと移されることです。手紙は言います、「きょうだいたち、世があなたがたを憎んでも、驚いてはなりません。私たちは、自分が死から命へと移ったことを知っています。きょうだいを愛しているからです」(14節)。ここで言われる「きょうだい」とは、肉親のことではなく、キリスト者たちのことです。キリスト者たちも、かつてカインと同じでありました。カインがそうであったように、神さまのみ前に正しく歩む者たちに対して反発を覚えたことでしょう。だから、キリスト者を憎む世の人々の反応は、よく分かることでしょう。だから世があなた方を憎んでも驚く必要は無いと手紙は言います。世に生きているからこそ、人は罪に引きずられる誘惑にも晒されます。罪が力を振るう現状に対して、これが世の現実だ、仕方が無いのだ、これが人々の生き方の主流なのだとする声が、絶えず力を持っているように見えてしまいます。

 

罪を赦され、古い歩みから新しい歩みへと移された者の中にも、罪は消えずに残っています。けれどその罪に支配され、その罪を自分の主とするのではなく、神さまから与えられた命を宿す者として、神さまを主とする道を歩むことができます。キリストに従う歩みは、キリストに倣って隣人を愛することを求めます。このような歩みは、世が仕方ないとしてしまうものと、道を異にします。時に世から非現実的だと否定されたり、反発を受けるでしょう。けれどそれは新しい命の道を歩んでいるからこそ、出会う反発であるのだと、手紙は励ますのです。

 

新しい命を宿す者とされた人は、これが現実だ、仕方が無いのだ、という誘惑の声の中にあっても、神さまの愛を求める思いを内に灯し続けます。自分自身が滅びから新しい命へと移されたのです。神さまの愛はどのような罪の力にも勝ることを自分が知っているのです。神さまの愛を求めることを諦めることはありません。先週共にお聞きしましたペトロの手紙一にもこうありました、「神は、豊かな憐れみにより、死者の中からのイエス・キリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせ、生ける希望を与えてくださいました。また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、消えることのないものを受け継ぐ者としてくださいました」(ⅠペトロⅠ:34)。復活され、今も生きておられるキリストによって、私たちは罪の闇にかき消されることの無い生ける望みを与えられています。私たちが与かっている神さまの恵みは、朽ちることなく、汚れることなく、消えることがありません。だから、神さまの愛を求めることを諦めることはないのです。

 

こうして神さまの愛にお応えして生きることへの憧れや希望を内に与えられているキリスト者は、隣人のために命を捨てるべきだと、この手紙は述べます。み子が私たちのために命を捨ててくださったから、み子に倣って歩むのです。命を捨てることが目標ではありません。み子が命を捨ててくださった十字架によって私たちが知るのは、神さまの愛です。この愛を私たちの隣人に示すためには、命を捨てることも伴うのです。実際に肉体の命を捨てることを求められているのではないことは、続く17節で貧しさの中、必要が満たされない隣人の苦しみに気づいても、憐れみの心を閉ざしてはならないと述べられていることに示されています。自分の暮らしを、自分がかき集めることで確かなものにしよう、自分の人生を自分で守ろう、他者より多くかき集めてより確かな安心を得よう、そのような古い自分に死ぬということでしょう。必要を満たされない困難の中に隣人が置かれていることに気づくなら、その人のためにもキリストは命を捨ててくださったことを思い出し、閉ざしたくなってしまう心を、キリストの愛に従って開きなさいと言われています。

 

自分に死ぬことも、憐れみの心を閉ざさないことも、その目的は主に倣って隣人を愛することにあります。これは初めから神さまがご自分の民に願ってこられたことだと、今日の11節で言われています。「互いに愛し合うこと、これがあなたがたが初めから聞いている教えだ」とあります。「初めから」とあるように、モーセを通して与えられた律法に初めから表されていました。律法の中心にある十戒には、人の、神に対する在り方と、隣人に対する在り方が示されていますが、どちらも愛するということが根底で求められています。その前提に、神さまからの愛があります。神さまが人を救い出し、人々の神となられ、神さまの他に神は無いことを示されたことが、十戒の初めに先ず述べられています。この神さまの救いのみ心とみ業にお応えして、神さまを愛し、人を愛するのです。こうして神さまから示された道標に従って歩むなら、神さまからの祝福をいただくのだと告げられます。この契約に従って生きることは、その人だけで終わることではなく、周りの人々にも広がる祝福が約束されているのです。

 

この手紙でも、互いに愛し合うことがこれまで語られてきました。2章でこのように述べられています、「愛する人たち、私があなたがたに書き送るのは、新しい戒めではなく、あなたがたが初めから受けていた古い戒めです。その古い戒めとは、あなたがたがかつて聞いた言葉です。しかし、私は、あなたがたにこれを新しい戒めとしてもう一度書き送ります。」(278)。互いに愛し合うことは、古びることのない神さまからの戒めです。

 

この手紙が互いに愛し合うことを強く求めるのは、主イエスの言葉に従うことであります。かつて主イエスはご自分を試そうとする律法の専門家から、「律法の中で、どの戒めが最も重要」かと尋ねられたことがありました。その時主は、「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」という戒めと「隣人を自分のように愛しなさい」という戒め、この二つが同じように重要であると、この二つの戒めに、律法全体と預言者とがかかっていると、神の民が受け継いできた戒めをまとめ、重んじるようにと求められました(マタイ223440)。

 

十字架の死が迫っている最後の晩餐の席でも、もうすぐ彼らを残して死者の中へと降らなければならない弟子たちに対して、主はこう言われました、「あなたがたに新しい戒めを与える。互いに愛し合いなさい。私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあなたがたが私の弟子であることを皆が知るであろう。」(ヨハネ1334から35)。互いに愛し合うことは、古びることのない新しい戒めであります。神さまのみ心とみ業を受けとめて実現することであり、主イエスからいただいた愛に倣うことであります。主イエスも、この戒めに生きることは、その人だけでなく、他の人々に対して主イエスからの愛を証しすることへと広がっていくものであること、一人一人の戒めに生きる歩みが大きな実りへとつながることを、約束してくださっているのです。

 

 

こうして神の民は、神さまの秩序を反映した共同体へと絶えず新しく変えられてゆきます。現代の神の民である教会も、連なる私たち一人一人も、神さまの祝福に包まれていることを世に証しする民であります。ヨハネによる福音書に、「律法はモーセを通して与えられ、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」(117)とあります。神さまが律法を通して与えてこられた愛の道は、イエス・キリストを通して実現され、神さまの恵みと真理がイエス・キリストにおいて明らかにされました。そのことを十字架において私たちは最も知ることができます。神さまがどんなに深い恵みを私たちに与えてくださっているのか、真理を見つめさせられます。み子が命を捨ててまでも私たちの罪を赦してくださったことこそ、神さまからの恵みであると、これが神さまの愛であると知ります。不十分で不完全な私たちに、不安の種は尽きません。愛が足りず、他者を愛することに息切れをしてしまう者でもあります。罪の闇に揺さぶられて足取り重くなること多く、惑うこと多い者です。人の前では取り繕っていても、これが神さまがご覧になっている私たちの実態です。それでも罪が赦されていることが、私たちに平安をもたらします。この神さまの真理に信頼する信仰が歩みの土台だから、口先だけの虚ろなものではなく、行いをもって神さまと隣人を愛そうと、互いに励まし合うことができます。十字架を見上げる度に、愛は神さまから与えられていることを、神さまの恵みと真理は既にキリストによって実現されていることを知り、心の頑なさが説かされます。私たち不安や恐れに陥らせるどのようなものにも、神さまの愛は勝るのです。