· 

生ける希望

「生ける希望」マラキ313、Ⅰペトロ139

2024211日(左近深恵子)

 

 先週礼拝で共に聞きましたヤコブの手紙もそうでしたが、このペトロの手紙も、キリスト者として生きていくのが厳しい環境で暮らしている人々に向けて書かれています。キリスト教が社会の土壌にない地域、人々の生活や文化がキリスト教とは異なるものによって成り立ってきた場所で、キリスト者たちが批判をされたり、揶揄されたりということがあったことでしょう。批判や嘲笑を向けられるのは、その人々が神さまのご意志に従って日々を生きようと、神さまのご意志にふさわしい正しい生き方をしようとしていたからでしょう。そのような生き方が、この世的な判断と相容れないということが起こってきます。この方が現実的だ、みんなそうしている、そのような理由ではなく、神さまに従うためにという理由で選び取る一つ一つの判断が愚かだと思われる、揶揄される、理解されないということが起きてきます。この手紙の受取手たちには迫害の危険もあったと考える人びともいます。自分や信仰の友たちが、時に身の危険も身近なこととして感じることのある人々でありました。

 

 今日の箇所をご一緒にお聞きして、受け取り手たちがそのような厳しい状況にあったということを、意外と思われるかもしれません。手紙は12節で、手紙の前置きとして挨拶と祈りを述べますが、それを述べ終えた途端、「私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように」と神さまを賛美し始めます。挨拶と祈りの後に先ずこれを伝えたい、そう願ってきた思いが溢れ出した、そのような勢いのある表現です。先を読み進めていくと、危機的な状況が浮かび上がってきます。今日の箇所でも6節には「今しばらくの間、様々な試練に悩まなければならないかもしれませんが」と述べられています。手紙の受け取り手である人々が試練に悩んでいること、その試練は簡単に過ぎ去るようなものではないことに気付かされます。しかし8節で手紙は、受け取り手の人々が「言葉に尽くせない素晴らしい喜びに溢れています」(8節)と述べるのです。

 

長く試練の中に置かれている人々に私たちが何かを書こうとするならば、何から書き出すでしょうか。“そちらは大丈夫ですか、どうぞ言葉や行動で苦しめる人々に用心してください“、そのような言葉から始めることを考えるのではないでしょうか。けれどこの手紙からは、賛美の言葉がほとばしり出ます。手紙の送り手だけではありません。「あなた方は」「言葉に尽くせない素晴らしい喜びに溢れています」と、私もそうだがあなた方も、このような者なのですと、言い切ります。辛い日々の中にある手紙の受け取り手たちは、自分たちがそのような者であることに気づいていなかったかもしれません。その人々の気分は、喜びに溢れているという状態からはほど遠いものであったかもしれません。それが当然であるでしょう。それでも、悲しみに沈んでいても、不安が後から後から沸き起こってきていても、苛立ちがおさまらなくても、そのような気分がキリスト者の全てとなるのではありません。自分の気分では生み出すことのできない喜びを一緒に見つめることへと、手紙は招いているのです。

 

 手紙はなぜ神さまを賛美するのでしょう。手紙は神さまを「私たちの主イエス・キリストの父なる神」と呼びます。神の独り子を私たちが、私たちの救い主、キリストとお呼びすることができる方としてくださったことを、先ず覚えます。旧約聖書の時代から待ち望まれてきたメシア、救い主が、神であり、神の独り子であり、私たちと同じように人としてお生まれになった。人として一般的であったイエスという名前を持つ方となられ、生きているからこその喜びと、そして他の誰もそこまで味わうことのできない苦しみを味わって、十字架で死んでくださった。この方を神さまは豊かな憐れみによって、死者の中からよみがえらせてくださり、そのキリストの復活を通して、私たちを新たに生まれさせてくださった。だから神さまを賛美するのだと述べます。手紙の書き手も、賛美したい気分だから賛美してみた、ということではありません。キリストの十字架と復活によって私たちが新たに生きる者とされている、それが何から起こされているのかというと、神さまの憐れみに拠る。だから、神さまに感謝せずにはいられないと賛美します。だから、辛い試練の中にある人々に、賛美の言葉はそぐわないかもしれないから遠慮しておこう、などと見当違いな遠慮もしません。周りから理解されず、攻撃を受け続ける苦しみの中にある人々に、もしかしたら信仰のための闘いにおいて愛する家族や親しい人を失ったかもしれない、葬むった後かもしれない人々に、言葉を飲み込む遠慮をするよりも、浅い慰めの言葉をかけるよりも、神さまの憐れみ豊かに注がれていることを伝えることの方が、真に支えとなり慰めとなるからではないでしょうか。

 

手紙は、「私たちの主イエス・キリストの父なる神が、ほめたたえられますように」と真っ直ぐに神さまに賛美の言葉を捧げます。誰かが辛い思いをしているから、讃美の言葉を口にしない、讃美歌を歌わないということはないのです。コロナで私たちが大きな不安を抱えていた時も、賛美を歌わないということはありませんでした。葬儀の礼拝でも、悲しいから讃美歌は歌わないなどということはありません。神さまを共に賛美するために作曲され、神さまに感謝の言葉を共に捧げるために詩が紡がれた賛美歌を、今日この礼拝堂でも、他の教会でも神さまに捧げているように、手紙の書き手は離れた地で暮らしているキリスト者たちと共に捧げる思いで、主を讃美する言葉を届けます。この手紙の受け取り手たちが今、自分で声を発して神さまを賛美できる状態にないならば、今はその人々の分も他の人々が賛美をします。力を落としていた人々が再び力を得て賛美できるようになる日を待ち望みながら、祈り、賛美し、その言葉を手紙に乗せて届けるのです。

 

主イエスはご自分の民であるユダヤの人々によって、民を支配していた当時最強の国、ローマ帝国へと引き渡され、異邦人の処刑法によって処刑される最も不名誉な死を死んでゆかれ、それによって全ての罪人に対する神さまの裁きをその身に受けて死んで行かれました。神さまの憐れみは主イエスが降られた死の奥底にまで注がれ、主イエスをそこから引き上げてくださいました。神さまに従おうとする私たちの歩みを、他者の中にある闇が妨げようとします。そして、私たちの中にある神さまに従う生き方に背を向けたくなる傾向は、神さまに従う生き方は本当は愚かな選択だとする主張に引きずられがちであり、そのような闇に打ち勝つことができないまま、完全な死の闇の中へと引き摺り込まれてゆくようです。生かされている時間も死の力に侵食されながら、仕方ないでは無いか、みんなそうではないかと、生きていることの喜びが小さく、短くなっていく。それが人の実態ではないでしょうか。そのところから新たな命に新たに生きるところへ、キリストの復活によって変えられました。私たちが生き方を変えられていなかったのに、闇の魅力に引きずられるのも、死の力に侵食されるのも変えられずいたのに、キリストが代わりに私たちが抱える闇の重さを全て背負って、私たちを侵食する死の淵へと降って行ってくださったから、変わらなかった私たちに新しさがもたらされました。願う自分でいられず、至らないところ多く、他の人のことを大切にしたいのだけれど結局自分を1番大切にしてしまう、そのような自分を変えられずにいたのに、神さまがキリストの血を流し、肉を割いて、私たちがそのままでは陥っていくしかなかったところから救い出し、私たちの罪が赦される道を切り開いてくださった、これが新たに生まれさせていただくということなのです。

 

 「新たに生まれる」ということは、実際には洗礼において起こります。キリストが死者の中から復活されたことによって、自分の罪が赦され、キリストが復活されたように自分も終わりの日に死人の中から復活することを信じ、洗礼を受けます。その人はその日、新たな人として誕生し直します。このままで良いはずが無い、でも自分で自分を救えない、そのところから救い出された新しい歩みの中、生きているからこその楽しみや喜びは一層尊く大切に思えます。神さまから新しい命を与えられた自分であるので、不安や悲しみに覆われそうな時も、それでも神さまのみ心の中にあることを思い出せます。死の陰の地を行く時も導いてくださる主の導きの中にあることに力づけられます。死を身近に感じ、この日々が死に向かっていることを思う時、この歩みは、私たちを救うために死へと進み続けたキリストの後を行く日々でもあることに支えられます。神さまは「生ける希望を与えて」くださったとも述べられています。この希望は過去の名残でも、この先潰えてしまうものでもなく、生き生きと生き続けて、私たちに命を示します。この希望の拠り所であるキリストが、罪と死を突き破って今も生きておられるからです。キリストは私たちが弱っても、死の時を迎えても、私たちを生ける望みを与えてくださいます。

 

私たちに与えられている生ける希望とはどのようなものなのか、もう少し説明がされています。それは、神さまが天に蓄えておられる宝を受け継ぐことなのだと。その宝は、朽ちないもの、消えないものであるとあります。私たちが日々の生活の中で得られるもので、朽ちないもの、やがて消えないものはありません。私たちが抱く願いも、絶えず変動する荒波のような現実の中で、勢いを失い、実を結ばないまま波に呑み込まれてしまうことが多々あります。私たちが得られるもの、生み出せるものは残念ながら、時間や世の評価によって変動し、やがて朽ちて、消えてしまう。そのようなものに囲まれながら、私たちの生涯の間も、肉体の死の後も変わることなく在り続ける宝を受け継ぐことが約束されています。

 

生ける希望はまた、汚れないものであります。私たちの浮き沈みや変転の激しい熱意にも、不安定な結束にも、価値が減少したり、変質してしまうことなく、汚れないままで天に蓄えられています。そして終わりの時に現されます。キリストが再び来られると約束されている終わりの時に、この宝を受け取るのです。

 

キリスト者の生活は、神さまのもとに蓄えられている宝という救いを目指しながら歩む日々です。その人の生活、生き方には、その人が何を目指しているのかが映し出されます。その人が求めているものが、その人の生活を支配します。朽ちるもの、いずれ汚れるもの、やがて消えるものを目標にしているなら、その人の歩みもそのようなものに重きを置いたものとなっていきます。天の宝を目指すキリスト者の歩みは、天を仰ぎ、神さまを礼拝し、神さまの宝を映し出すものとなります。朽ちない、汚れない、消えない救いが最後には与えられるという約束が、絶えず私たちを根底から平安と共に支えます。この手紙は更に、終わりの日に天の宝を受け取ることができるように、それまで神さまがみ力によって守ってくださるのだと、信仰によってそのことを私たちは受け止めていくことができるのだと述べます。救いという宝が天にあるのに、神さまを仰げなくなってしまう時があります。平安で満たされているはずなのに、思い悩みに心が塞がれてしまう時があります。神さまに従う生き方を否定するようなことが私たちの周りから消えることは無く、それ以上に、神さまに従うことにおいて不甲斐ない私たち自身の弱さや歪みが、私たちの問題です。揺さぶられても、内側から揺らいでも、神さまが信仰者たちを守ってくださいます。私たちは不確かな、頼りない者でありますが、神さまに頼ることができます。「だからあなた方は大いに喜んでいます」とこの手紙は言います。嬉しいことがあったから喜ぶ、辛いことがあるから喜べないということではない喜びを、述べています。天の宝と神さまの力という、これ以上に無い助けを信仰によって知るから、喜ぶことができるのです。

 

だから手紙は信仰の試練を、私たちの信仰を精錬する火だと述べます。信仰に生きることへの無理解、的外れの批判、揶揄は私たちを揺さぶり、私たちは内側から大いに揺らいでしまいます。揺さぶられることを通して、私たちの本当の助けはどこから来るのか、神さまに従うにはどうするのか、見つめる目を養われます。金属を精錬する炎は、その金属の不純物を取り除き、少しずつ純度の高いものへと変えてゆきます。キリスト者も、試練の度に信仰の核にあるものだけが残り、強められます。精錬の過程で不純物が取り除かれることで金属の量が減少します。人も、信仰に生きることに奮闘することであるいは他者の目には小さくなったと、シンプルになったと、そんなふうに思われるところがあるかもしれません。その人が自分を自分で量増ししていたもの、底上げしていたもの、飾っていたものが取り除かれるからです。自分がそれまで身に纏わせ、頼ってきたものが、神さまに従う生き方が問われる試練においては頼りにならないことが明らかになり、頼るべきはただ神さまであることが明らかになって、それまで身に纏っていたものが必要なくなる。残るのはただ神さまが命と存在を与えてくださった自分自身と、神さまが自分に与えてくださる信仰だけとなっていく、そうやって純度を増していくのでしょう。神さまを拠り所とする、神さまに従う、このことが喜びであることを知り、大いに喜ぶことができるようになります。主イエスの最初の弟子たち、使徒たちの世代を除いて、キリスト者たちはキリストをその目で見たことが無い者です。けれど試練に鍛えられ、信仰の目も鍛えられる信仰者たちは、見るべきものを見つめ、キリストを愛し、信じ、言葉に尽くせない喜びに溢れています。キリストが来られる終わりの時には、純化された私たちの信仰は、キリストの称賛となり、栄光となり、誉となると言われています。神さまを仰ぎ、賛美する生涯であったことが、明らかになると言われています。

 

 

マラキ書にも、神さまが人々を裁かれる日に、神さまの使者が人々を火で精錬することが語られています。神さまの裁きは信仰の試練よりも徹底的に人を精錬し、純化します。マラキ書は、誰が耐えられようかと言います。神の民らを精錬し、金や銀のように純化する神さまの裁きの炎は、人を滅ぼすためではありません。人々を「主に供え物を正しく捧げる者と」するためです。主を礼拝することを喜びとし、主に捧げる生活を求められるように民を正すためです。それなのに神さまではなく自分を頼みにしてしまう私たちのために、神さまは独り子を世に与え、独り子の命と体を裁きの十字架に架けてくださいました。誰も耐えられない裁きの炎を、キリストは私たちの代わりにその身に受けてくださいました。この豊かな神さまの憐れみと、キリストの十字架と復活に、心からの感謝と賛美を捧げていきたいと願います。