「望んでいる事、見えない事」創世記12:1〜4、ヘブライ11:1〜3
2024年1月21日(左近深恵子)
この冬もクリスマスの時期、クリスマスの出来事を伝える幾つもの聖書の箇所に礼拝で共に耳を傾けました。ベツレヘムの郊外で野宿をしていた羊飼いたちに神さまが、お生まれになったばかりのキリストに最初にお会いする恵みを与えてくださった出来事も聞きました。天の使いから救い主の誕生を告げられた羊飼いたちは、布に包まれて飼い葉桶に寝ておられるという、天から与えられた小さなしるしだけを頼りにキリストに辿り着きました。律法や細かな規定を守りきれない羊飼いたちの生活は他の人々の目に信仰者として不十分であると映っていたと、羊飼いたちは信頼できない者たちと見なされていたと言われています。しかし天使の言葉と、その言葉通りに救い主がお生まれになったことを人々に伝えてまわる羊飼いたちに臆する様子はありません。自分たちが伝えて信用されるかどうかと案じる思いも吹き飛ばすほど、救い主の誕生を伝えたいと願う思いが大きかったのでしょう。自分たちに対する評価の低さが救い主がお生まれになったという事実を霞ませるものにはならないと、自分たちに対してではなく、出来事の偉大さに確信があったのでしょう。救い主にお会いし、神さまの言葉は必ず実現することを知った彼らは、自分たちにできることを見出し行動に移す強さ、その実りを見ることができなくても伝えることができたことを感謝し、神さまを賛美することのできる深い喜びを与えられたのです。
東方の国の学者たちが主イエスにお会いした出来事も、この冬聞きました。日々夜空の天体を観測していた彼らは特別な星を見つけ、それが王の誕生を示していると受け止めました。王の誕生は他国で起きていることであるにもかかわらず、彼らは自分達の国を後にしました。その特別な王に実際にお会いしたいと、その王を拝みたいと願い、特別な王にふさわしい贈り物も用意し、遠路も厭わず進みます。星の導きだけでは辿り着けなくても、ユダヤ王ヘロデが生まれた王を殺そうとしていることを知っても、怯む事なく求め続けた彼らは、聖書の言葉と神さまに導かれ、遂に王の中の王にお会いすることができました。そして携えてきた贈り物を捧げ、そのみ前に跪いたのです。
羊飼いや学者たちは、先がよく見えなくても、困難な道中であっても、神さまの導きに信頼し、主イエスにお会いするために前へと進み続けました。その姿に憧れを抱きます。キリスト者にとってクリスマスがひときわ心躍る時である理由は色々あると思います。羊飼いや学者たちに憧れを抱くように、神さまの言葉に信頼して歩むことへの思いを何度も新たにされる季節であることも、その理由の一つではないかと、この冬、クリスマスの出来事に改めて耳を傾けながら思いました。
生きるということはこんなに大変なことなのかと、生きて死んで行くと言うことは自分が予想していたものとこんなに違うものなのかと辛く思う時が誰にでもあるのではないでしょうか。自分の心の弱さ、小ささ、醜さを突きつけられる時も、前へと進む意味や価値が分からなくなる時も、この先もこのような思いに歩みを揺さぶられ続けるのかと思うと力を失いそうになる時も、あるのではないでしょうか。不安や恐れや虚しさに心の主導権をいとも簡単に奪われる私たちですが、羊飼いや学者たちなどクリスマスの出来事に登場する人々の姿に力づけられ、日々の生活を信仰の旅路の一日一日とすることへと促されます。彼らのようにキリストを求めたいと思えること、キリストを礼拝したいと願えることを、喜ぶことができる心を回復されます。夜の闇の中で野宿をしていた羊飼いたちが、闇も貫く神様の栄光の光に照らされたように、夜空の天体を見つめ続けていた学者たちが、真の王の誕生を示す特別な光に導かれたように、事あるごとに沸き起こる不安や恐れを、諦めや無関心で抑え込もうとしては、内なる視野が更に暗く霞んで行く私たちの心も神さまの光に照らされ、自分も神さまを仰いで踏み出そうと、願うことができるのです。
ヘブライ書11章は、私たちに神さまを仰ぐ姿勢を思い出させてくれる人々が他にもこんないるのだと教えてくれます。本日の箇所の後に続く、4節以降の部分です。アベル、カイン、エノク、ノアの名前が挙げられます。アブラハムについては他の人よりも少し詳しく述べ、妻サラとの間に生まれた息子イサクへ、イサクからヤコブ、ヨセフ、モーセへと紡がれていく神の民の歴史を辿ります。更に「ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、また預言者たちについて語るなら、時間が足りないでしょう」(11:32)と、まだまだ名前を挙げたい人々がいることを述べます。この手紙の最初の聞き手たちがよく知っていたであろう旧約聖書のこれらの人々のことを12章では「証人」と言い表し、私たちは「多くの証人に雲のように囲まれているのですから、全ての重荷や絡みつく罪を捨てて自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」と呼び掛けています。雲のように私たちを囲むこの人々のことを述べるために、11章は「信仰」という言葉を20回近く繰り返します。そうしてこの人々が依って立っていたものを示します。今日は特にアブラハムに焦点を当てますが、アブラハムも「信仰によって」「自分が受け継ぐことになる土地に出て行くように召されたとき、これに従い、行く先を知らずに出て行きました」と、8節で述べます。創世記によると、アブラハムは自分が受け継ぐことになる土地が具体的にどこであるのかも、そこまでの道中がどのようなものとなるのかも分からないまま、故郷を後にしました。アブラハムは神さまから、「あなたを大いなる国民とし、祝福する」、「祝福の基」とし、「地上の全ての氏族をアブラハムによって祝福」するとの約束も与えられました。受け継ぐ土地で子を与えられ、子孫が大勢の民となり、世代を超えて全ての民が神さまから祝福を与えられる、この神さまからの約束だけに信頼して、親族とのつながり、共同体とのつながり、安定した豊かな暮らしといった自分の居場所から、先が見えない道を妻サラと共に踏み出しました。ヘブライ書11章は続けて9〜10節で、他国の地に寄留する不安定な身となることも、堅固な土台の上に神さまが設計し、建ててくださる都をアブラハムは「信仰によって」待ち望んでいたから、厭わなかったのだと述べます。11節では、子に恵まれないまま年老いたアブラハムと妻サラが、子どもを与えられたのは、神さまは真実な方であり、ご自分の約束を果たす方であることを「信仰によって」信じたからだと述べます。
アブラハムや他の信仰の証人たちの生涯は私たちに、信仰によって歩むとはどういうことなのか、示してくれます。信仰によって歩むことをヘブライ書11:1はこう述べます、「信仰とは、望んでいる事柄の実質であって、見えないものを確証するもの」。新共同訳聖書ではこう訳されていました、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」。新共同訳で「確信し」と動詞として訳されていた言葉が、聖書協会共同訳では「実質」と名詞として訳されました。「確認すること」と訳されていた言葉は、「確証するもの」と訳されました。両方の訳で「望んでいる」と訳されている言葉は同じです。これは受け身の形ですので、直訳すると「望まれている」となります。神さまから望まれていることを表します。こうしてみますと、翻訳が変わったところもあれば変わらないところもありますが、新共同訳の方は、信仰者に求められている歩み方を示すことに重きを置く訳し方をしていたと言えます。神さまが信仰者に望んでおられるのは、神さまがこの先もみ業を世にあって推し進められ、終わりの時にそのみ業を完成してくださることを確信することであり、このまだ見えていない事実を、信仰の目で確認することなのだと、新共同訳は示します。
一方聖書協会共同訳の方では、人が信仰によって歩む歩み方よりも、その歩みを得させる信仰そのものを示すことに重きがあるようです。信仰とは、神さまから望まれている事柄の実質だと言います。「確信する」とも「実質」とも訳される元の言葉には本来、“下に立つもの“という意味があります。そこから何かの基礎や土台を表すようになり、それが実質や現実、本質や内容といった意味の広がりにつながりました。私たちは根拠の無い空虚な願望を抱くのではなく、神さまから望まれていることを土台に願います。神さまが与えてくださった土台を11章は、旧約聖書の信仰者たちが信仰によって何を信じてきたのか、挙げて行くことで示します。神さまのご意志とみ業は旧約の時代から新約の時代へと、新約の時代から現代の私たちへと貫かれ。そして将来に完成が約束されています。そのことを私たちはまだ見ることはできませんが、神さまが与えてくださっている土台が私たちに確証しているのです。
聖書協会共同訳と新共同訳の翻訳の違いは、元の言葉が示す意味の広さを反映しています。その幅広い意味を持つ言葉によってヘブライ書が伝えようとしている信仰の深みを表しています。聖書協会共同訳によって私たちは、神さまが与えてこられた救いそのものを見つめることが促され、新共同訳によって、与えられた救いを受け止め、応答することへと導かれます。神さまが願っておられることの内容を見つめることで私たちは初めて、その内容を確信することができます。両方の訳が補い合うように、信仰によって歩むことを示してくれます。信仰によって歩む者の大胆さや、世の常識では選び取らないような道を進む勇気は、それぞれの信仰者の情熱の強さに拠るのではなく、神さまが望んでおられることに源があり、支えられています。時に私たちを不安や困難をもたらす世の様々な力も、終わりの時に至るまで神さまのご支配の下にあります。信仰者の大胆さ、勇気は、神さまが救いを完成してくださることに根拠があります。弱く脆い私たちでありながら、神さまが願っておられるから、神さまのご意志に確信を持つことができます。まだ見えていなくても確かな希望が与えられているから、旧約、新約の信仰の証人たちの後に続いて、神さまに信頼して踏み出すことができます。踏み出し続けるから、神さまが救いのみ業を推し進めておられる事実を、信仰の眼で確認する幸いと驚きをその道すがら味わうことができるのです。
ヘブライ書は旧約聖書の人々の名前を挙げましたが、彼らは皆完璧な、非の打ちどころのない信仰者というわけではありません。アブラハムも、常に真っ直ぐに進み続けられたわけではありません。自分の命が奪われることを恐れ、妻サラに自分の妹と偽らせ、結果、サラがエジプトのファラオの宮廷にファラオの妻として召し入れられてしまったことがありました。子が与えられないまま自分もサラも高齢となったから、神さまが与えてくださった子孫の約束が自分たちの間で実現されることは無いと判断し、他の手段で子を得ようとしたこともありました。危機に直面した時、神さまのみ前に不安と恐れを注ぎ出して道を求めるより、神さま抜きにより安全そうな道を自分の心の内に定めてしまったのです。先がよく見えない中で神さまの約束に立ち続けることに耐え切れず、自分の経験や知識や能力を土台とした自分の判断力でより先が見えやすいところに身を置こうとする、自分の信念や世の流れに照らしてより現実的、より常識的に思える手段で自分を守ろうとする姿は、私たちの姿でもあります。そのようなアブラハムを見捨てられず、導き続けてくださった神さまによって、アブラハムは自分が神さまに信頼できずにいたこと、神さまのご意志にお応えしたいと願っていた自分の願いからも離れ出てしまっていたことに、気付かされました。回り道をし、その道に巻き込んだ人々を苦しめたアブラハムが、神さまの約束に信頼することへと立ち返ることができたことの重みを私たちは知ります。幾度も迷い、神さまに立ち返ったアブラハムを、神さまが私たちの祝福の基としてくださったことの重みを知ります。先に触れましたように、ヘブライ書は12章でこう述べていました、「こういうわけで私たちもまた、多くの証人に雲のように囲まれているのですから、全ての重荷や絡みつく罪を捨てて自分に定められている競争を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(12:1)。アブラハムやここに名前が挙げられているのは、自分とは違う特別に立派な人々なのだと思うことで自分を擁護したくなる思いを私たちは抱きがちです。彼らには自分が抱えているような重荷は無かったのだ、彼らには絡みつく罪に引きずられる自分のような弱さはなかったのだ、などと思いたくなる私たちですが、見渡せば見えてくる信仰の先達の姿が、励ましとなるのではないでしょうか。
ヘブライ書の核となっているのは、神さまから与えられた道を、忍耐を持って信仰によって進むことへの呼びかけです。ヘブライ書は、信仰のために苦しい経験を経てきたキリスト者たち、特に、神さまが与えてこられた土台に立ち続けることに揺らいでいる人々に語り掛けます。10章には、その人々が、世の人々のキリスト者に対する視線を恐れ、世と同じ流れに身を任せることに引きずられている様子が浮かび上がります。彼らは苦しい試練に何度も遭ってきたからです。「そしられ、苦しめられて、見世物にされたこと」も、「財産が奪われ」ることもあったと、言われます。そのような危機の中であなたがたは何度も耐えたではないかと、信仰の初めの頃を思い出すように促します。信仰の初めをヘブライ書は「光に照らされ」ていたと表現します。福音を聞き、キリストの赦しが自分のためであると受け入れ、信じることは、神さまの光に照らされ、温かな神の慈しみに触れ、燃え続ける神さまの愛を内に与えられる経験です。その光に照らされた初めの頃を思い出し、「信頼し切って、真心から神に近づこうではありませんか」と呼びかけ、「私たちは、ひるんで滅びる者ではなく、信じて命を得る者なのです」と述べます。その言葉に続いて、今日の11章の言葉が述べられるのです。
自分の信念や世の流れが何よりも自分を守るものなのだと、神さまの願いと祝福に背を向ける人々の罪を代わりに担って、神のみ子、イエス・キリストは十字架で命を捧げてくださいました。この神さまの救いを受け止め、この救いを土台にし続けるために、神さまは信仰を私たちに与えてくださっています。主イエスは十字架にお架かりになる前の晩、弟子たちに「私はまことのぶどうの木、私の父は農夫である」「私につながっていなさい」と語られました(ヨハネ15:1~10)。私たちは、自分たちの力、自分たちの信念だけで立ち続け、成長し続けることはできません。私たちを揺さぶるものに怯む思いを覚えても、水や養分を注ぎ、手入れをしてくださる農夫である神さま、私たちに必要なものを枝である私たちの内に満たしてくださるキリストによって、神さまを信頼する枝であり続けられます。雲のように私たちを囲む枝たちに励まされ、ぶどうの木につながり続けることを願うことができます。神さまの栄光の光に照らされ、導かれた羊飼いや学者たちのように、真の光、世の光なるキリストの光を浴び続けたいと願うことができるのです。
信仰によって主に従う生活とは、まだ露わになってはいないけれど既に始まっている救いに支えられていることを礼拝の度に確認し、聖餐の度に味わう歩みです。礼拝において信仰の先達や共に今を歩む信仰の家族たちの証しを受け止め続け、神さまに信頼しながら進む一人一人において、これからも驚くようなことが成し遂げられます。私たちの常識や世の常識を超えた、並外れたことが、私たちの細やかな、時に大胆な歩みの積み重ねから生み出され、神さまがそれを救いのみ業に貢献するものとして、用いてくださいます。今も推し進められ、やがて完成してくださる救いの出来事に、私たちの歩みも加えられることに信頼し、共に信仰の旅路をまた重ねて行きたいと願います。