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光に導かれて

「光に導かれて」イザヤ6016、マタイ2112

20231231日(左近深恵子)

 

アドヴェントからクリスマスまで、ルカによる福音書からクリスマスの出来事を聞いてきました。今日は、クリスマスの出来事を物語っているもう一つの福音書、マタイによる福音書に耳を傾けます。

 

ルカによる福音書では、天使を通して告げられた神さまからの言葉と、主イエスの誕生に関りを与えられた人々の発した言葉が、交互に述べられます。織物が、様々な色合いの縦糸と横糸が重なりながらその姿を現わしていくように、神さまからの言葉に人々が驚いたり喜んだりしながら言葉を発しつつ、クリスマスの出来事が辿られます。けれどその中心で語られた主イエスの誕生そのものにおいては、誰も言葉を発していません。状況も僅かな言葉で簡潔に述べられるだけです。いつもよりも大勢の人々がひしめき、それぞれが自分の場所を確保し、自分の生活を守ることにあくせくしているベツレヘムの町で、人々が気づかないような小さな、静かな出来事として、神さまが預言者たちを通して告げてこられた救い主は、地上のご生涯を始められました。

 

マタイによる福音書も、主イエスは神さまが告げてこられた救い主であることを大切に語ります。この福音書は、アブラハムからダビデへと、更にダビデからヨセフへと至る系図を記し、そのヨセフの妻となったマリアから「メシア(救い主)」と呼ばれる「イエス」がお生まれになったと述べることで、このことを伝えます。長きに渡る旧約聖書の歴史の根底を貫いているのは、神さまの救いのご計画であることが示され、これまで為されてきた救いを決定的なものとされる救い主が人としてお生まれになったことが告げられます。そうして次に、救い主がどのようにお生まれになったのか、語ります。クリスマスの出来事は、天使を通して夢でヨセフに告げられます。婚約者マリアが自分と一緒になる前に子を身ごもったと、それが聖霊によってなされたと聞き、このことが表沙汰にならないように離縁した方が良いだろうと心を決め始めていたヨセフに、天使は、「このすべてのことは、主が預言者を通して言われたことが実現するためであった」と告げます。マリアの言葉を信じたいという思いと、信じきれない思いの狭間で苦しんでいたであろうヨセフは、マリアの言葉通りであったと、マリアに起きていることは聖霊のお力に拠るのだと知ります。ヨセフにとっては全く思いもよらない突然の出来事でありますが、この出来事は神さまが告げてこられたことの実現であると、そのみ業が、マリアにおいて既に起こっているのだと知ります。目覚めたヨセフは、不信、葛藤、孤独の日々から、恐れず、神さまの言葉に信頼する日々へと、自分の人生を定めます。マリアに続いて神さまのみ業を受け入れることを決意し、行動に移し、マリアを妻に迎え、お生まれになった方をイエスと名付けます。そこにヨセフの言葉は記されません。この福音書でも主イエスの誕生そのものにおいては、人の言葉はありません。聞こえるのは、ヨセフの夢の中で告げられた主の言葉だけです。主の言葉だけが響く中、主の言葉が実現することに信頼し、自分も大切な相手の人生も主に委ねた二人の人において、静かにみ業が出来事となってゆきます。

 

マリアとヨセフが、神さまの言葉の実現を自分の身に、自分の人生に、自分たちの家庭において受け止めていったことを福音書はこのように伝えると、次にその時代へと、私たちの視線を向けさせます。それは、ヘロデ王が神の民の王として君臨していた時代であったと述べます。ベツレヘムでお生まれになったとの言葉に、聞く私たちは、預言者たちが告げていたように、ダビデ王の町ベツレヘムで、ダビデの血筋のヨセフの子としてお生まれになったのだと、神さまの言葉の実現を思います。同時に、そのベツレヘムも、ユダヤの地全体も、ヘロデという王の支配下にあったことを思います。主イエスが福音を宣べ伝えられた頃には領主となる息子のヘロデ・アンティパスと区別して、ヘロデ大王とも呼ばれる人物です。このヘロデは、時勢を読むことに長け、忠誠を誓う相手をその都度変えて自分の支配権を確立させ、そうしてローマ帝国の後ろ盾を得てユダヤの王にまでのし上りました。神さまによって神の民とされた人々の王は、軍事力や権力、人脈によってではなく、何よりも神さまから王として立てられることが重要であるはずですが、ヘロデはそれよりも、ローマ帝国との友好な関係を保つことに関心のある者でした。ヘロデ・アンティパスを含め、自分の息子たちをローマに送ってそこで学ばせたり、自分自身もローマに赴き、皇帝を訪ねています。ローマとの強力な関係を利用しながら、自分の領地を徐々に拡張し、そこに次々と大規模な建築物を建てて、自分の権力を知らしめました.神の民とされた人々はこのような王に支配されていた時代、ダビデ王の町で、救い主はお生まれになったのです。

 

神の民にとって、待ち望んだ救い主の到来です。神の民はどんなにかその誕生を喜んだことかと、どんなに心を込めて自分たちの中へとお迎えしたことかと思いきや、そうではない人間の現実をこの福音書は伝えます。神さまはみ言葉を実現してくださり、救い主を世に与えてくださいました。しかし、み言葉が自分において実現されることを望むことが決して当たり前ではない人間の実態を、マタイは包み隠さず語ります。

 

クリスマスの出来事は、人々が思い描いていた救い主の到来からはかけ離れた、人の目には取るに足らない小さな出来事であったのでしょう。主イエスがお生まれになっても、ベツレヘムの町の人々は自分たちの町に、自分たちのために、神さまが救い主を与えてくださったことに気づきません。その町の人々が気づいていないので、都エルサレムの王宮に居るヘロデも知る由がありません。この福音書において最初に救い主の誕生を知ったのは、東方からやって来た博士たちです。新共同訳聖書では「学者」と訳されていた人々です。彼らは国に居た時に夜空に特別な星を見つけました。それはユダヤの王の誕生を示していると考えた彼らは、新しい王に捧げようと、黄金、乳香、没薬を携えてユダヤの地までやって来たのでした。

 

人工の灯りが見せたいものだけを浮かび上がらせ、照らし出されるものも大半は人工的な物である渋谷のような街とは異なり、自然が豊かな地域では、夜は闇に包まれるのが当たり前です。華やかなイルミネーションも街灯も無い古代の世界では尚更、毎晩頭上を覆うのは夜空だけです。夜空に輝く天体の存在は人々にとって身近で、生活に深く関わるものです。ユダヤの東方にある地域では特に、天体について熱心に研究が為されていました。天と地が一体のものと理解されている世界観の中、天体の動きと地上の出来事は結びついていると、相互に影響し合っていると捉えられていました。天体に特別な動きがあれば、地上にも特別なことが起こると、考えられたのです。

 

学者たちが見た星がどのように特別であったのか分かりませんが、それが新しい王の到来を示していると彼らは理解しました。その方にお会いしたいと願いました。他国の王の誕生であっても、それが自分たちにとっても喜びであると、彼らは受け止めることができたのでした。

 

ルカによる福音書で、救い主がお生まれになった知らせを聞いた羊飼いたちは、その時夜の闇の中にいました。ベツレヘムの町の中で寝起きしている人々よりも、闇の深さと、その中に潜む危険を、肌身に感じながら暮らしていた彼らが、最初に主イエスの知らせを聞き、主イエスにお会いする幸いに与かりました。その羊飼いたちとは、仕事柄、律法や細かな規定を守っていないその生活態度ゆえに、町の中の人々からは信仰者として不十分な者と見なされていた者たちであったのでした。

 

マタイによる福音書でも、その支配が国の中に留まらない王の誕生を知った学者たちは、夜の闇を見つめる人々でした。主なる神によってではなく、被造物に過ぎない天体によって世の動きを知ろうとする占星術は、神の民にとって神に背く忌むべき行為でありました。エゼキエル書では、「偽りの占いをし、主が彼らをお遣わしにならないのに、『主の仰せ』と言い、その言葉が成就するのを待ち望んでいる」人々は、「愚かな預言者」「偽りの預言者」と呼ばれ、そのような人々に、主が立ち向かうと言われています(エゼキエル1318)。異邦人であり、占星術によって彼らが下す判断も発する言葉も「偽り」とされるこのような人々は、神の民から、神さまの祝福に与かる資格の無い人々と見なされていました。その占星術の学者たちが、自分たちこそ真っ先に神さまの祝福に与かることができると考えていた神の民よりも先に、真の王の誕生を知りました。その支配が国境で留められることのない、血筋やこれまでの生き方も超えて祝福を与える王の中の王の誕生を、東方の学者たちは闇を見つめ、その闇の中で特別な輝きを放つ光によって知りました。天体の動きを調べ、その判断が国の決定を左右することもある、重要な仕事を担っていた彼らは、国で重んじられる人々であったでしょう。しかしそのようなことは、特別な光が示す特別な王にお会いしたいという彼らを引き止めるものとはなりません。その光を追って国を後にした彼らは、王がお生まれになったのだから、国の都の王宮におられるだろうと、都エルサレムまでやって来ました。

 

イスラエルの神ではない神々を信奉する東方の国から、王への捧げものに相応しい宝を携えてやって来た学者たちの姿に、イザヤ書60章が伝える光景が重なります。シオン・エルサレムの上に主の栄光が昇り、暗闇の中、諸国の民や王が、富や宝を携えて、主の光に向かって歩み、シオンを目指してやって来ると、彼らは皆主のもとに来て、礼拝を捧げ、主の栄光を讃えると、だからエルサレムの人々よ、起きよと呼び掛けています。闇を貫く神さまの栄光の光は、神の民だけでなく諸国の民にも見出されます。自分たちこそ真っ先に栄光の光に照らされるはずと思っていた人々は、寧ろその光を求めてやって来る諸国の民によって目覚めることができると、神の民は主の光を受けて、光を照り返す存在となることができると、告げられます。

 

ユダヤの地まで来たものの、東方の学者たちは星の光だけでは目指す方に辿り着くことができません。学者たちはエルサレムに来ると、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と尋ねます。この東方の学者たちの来訪を耳にしたヘロデは、祭司長や律法学者たちに、メシアはどこに生まれることになっているのかと、問いただしたとあります。学者たちと同じように「どこに」と問うヘロデですが、お生まれになった方にお会いしたくて問う学者たちと、生まれた子を殺そうと居場所を探るために問うヘロデでは、問いの目的は全く異なります。同じ問いによって、両者の違いが際立ちます。聖書に記されていることをよく知る祭司長たちや律法学者たちは、王の問いに対して直ぐにミカ書の言葉を引用して、救い主はベツレヘムで生れることになっていると、答えることができました。星の光だけでは辿り着けない道を、主の言葉が指し示します。学者たちがその言葉通りベツレヘムを目指すと、星の光も再び先立って行き、彼らは主イエスに辿り着くことができました。学者たちにとっても、マリアと共におられる幼子の状況は、一国の王の誕生として予想していたものとは異なっていたことでしょう。けれどそのようなことは、彼らの特別な王を見つめる目を曇らせるものにはなりません。彼らは迷わず、主イエスを礼拝し、捧げ物をしたのでした。

 

学者たちは、神さまが世に与えてくださったこの方が、ユダヤの王に留まらない、自分たちも含めた諸国の民の王であることを受け止めていました。特別な王がお生まれになったことに喜びを与えられ、ただその方を礼拝したいと言う願いで、異国の地へと旅をしてきました。救い主が共にいてくださる時代を生きられること、真の王を礼拝できることが、こんなにも人の内に大胆で純粋な熱意を湧き上がらせるのかと、学者たちの行動に憧れの思いを抱きます。

 

そしてまた、ヘロデやエルサレムの住民の姿に、救い主が自分の人生に影響を与えるかもしれないことを人はこんなにも恐れるのかと、人間の現実を見る思いがします。ヘロデは王ではあったものの、自分が神の民の王として神のみ前にふさわしい者であることにも、神の民としてこの国の人々が神のみ前に祝福の内に生きていけることにもさほど関心が無く、自分の地位を保つことが最大の関心事である人物です。このヘロデにとって、自分の子ではない者が新しい王として誕生することは、許しがたいことでありました。自分の王座を奪いかねない子どもは、このまま存在されては困る命であったのでしょう。

 

しかし、祭司長や律法学者たちはどうして、学者たちのことを耳にし、ヘロデから救い主の誕生の地を問われながら、人々に呼びかけることも、人々の先頭に立ってベツレヘムに行くこともしないのは何故でしょうか。ヘロデの目を恐れてのことでしょうか。新しい王の誕生に喜んでいる様子も見えない祭司長や律法学者たちは、王の問いに答えたものの、それ以降、まるでそこに居ないかのように存在感がありません。彼らの聖書についての知識は学者たちの助けとなりましたが、彼ら自身は自分が知識として知っている主の言葉に、生きようとしていません。そしてエルサレムの人々は、ヘロデと同様の不安を抱いたとあります。彼らは、不安の中で思考も行動も止まってしまっています。自分たちの国や社会、自分たちの生活が、神の民の王としてふさわしくは無いけれど、超大国ローマとの関係をある程度給ってくれているヘロデに支配されている今のままで、良いとしているようです。ヘロデやローマ皇帝は自分の内面までは支配できない。だから自分が自分の内面の支配者で居られる今のままで良いではないか。救い主が本当に来られ、社会も自分の在り方も神さまのみ前で根幹から問われるより、今のままで良いではないか。そう思う人々の内なる闇が、救い主の到来に不安を掻き立てられているのでしょう。人々も、自分が自分の王でいる、その王座が奪われかねない不安に陥ったのです。

 

 

エルサレムの人々はおそらく自覚の無いまま救い主を拒んでいます。この時、天からもたらされた主の栄光の光に照らされ、自分たちの内なる闇の深さが一層際立っていることの認識も無いかもしれません。翻って私たち自身は、真の王を、本当に喜んで自分の人生に、自分の生活に、お迎えしたいと願っているのかと、問われる思いです。そして、神さまが救い主を与えてくださったのは、このような闇の只中であることに、改めて驚きと喜びを覚えます。神さまは私たちにも語り掛けておられます。倦怠、無関心、自己中心的な闇の中から目覚めよと、呼び掛けておられる主の言葉に耳を傾けたいと願います。「起きよ、光を放て、あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に昇ったのだから。見よ、闇が地を覆い、密雲が諸国の民を包む。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる」(イザヤ6012)。