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主の恵みを迎える

「主の恵みを迎える」イザヤ916、ルカ12638(アドヴェントⅡ)

20231210日(左近深恵子)

 

 古代イスラエルは、ダビデ、ソロモンの時代に栄華を誇りましたが、南北に分裂し、シリア・パレスティナ地方を支配する覇者から、幾つもある小さな国家のうちの2つに過ぎない存在となりました。北のイスラエル王国は、度々クーデターによって血が流され、政権が簒奪され、王朝も次から次へと交替してゆきました。南のユダ王国は、小さくはなったもののダビデの後継の王国として安定した時代が続きました。しかしメソポタミアでアッシリア王国が強大化し、南下政策を取るようになり、北王国、南王国はそれぞれ、この大国への対応を迫られる事態となりました。

 

 イザヤ書は、北王国がアッシリアの侵攻に対抗するため、アラムという国と同盟したことを伝えます。アラムは今のシリアに当たります。両国は南王国のエルサレムを攻めるために上ってきますが、攻撃を仕掛けることはできずにいました。この両国の同盟の話は南王国に衝撃を与え、「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺し」たとイザヤ書7章は伝えます(72 )。両国は南国にも同盟に入るように迫りますが、南王国は親アッシリアの立場から国を守ろうとします。すると神さまはイザヤを南王国の王の元へと遣わしてこう告げさせます、「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはならない」(74)。主なる神に信頼し、静かにしていなさいと言われたのです。また「あなたの神である主にしるしを求めよ」とも言われますが、王は「私は求めません」と従おうとしません。そこで神さまはイザヤを通してしるしを告げられました。714以下に記されているインマヌエル預言です。「見よ、おとめがみごもって男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」(714)。インマヌエルとは、「神は私たちと共におられる」という意味です。「私たち」とは、神さまに信頼する人々です。「気をつけて、静かにしていなさい」との呼びかけに従い、神さまからのしるしを求める者にと共に神はおられることのしるしとして、「神は私たちと共におられる」という名を持つ1人の男の子が与えられると言います。そして、南王国の王が恐れている北王国とアラムの両国は、アッシリア王国によって滅ぼされることも告げます。

 

 世界の情勢に絶えず翻弄されて来たパレスティナの地で生きる古代イスラエルの王と民に、神さまは、今力を持つ大国に自分たちの未来を託し、擦り寄り、好意と支援を獲得しようとするのではなく、また政治的同盟によって軍事力を増強して他の国に対抗することで生き延びようとするのでもなく、中立な政策をとり、静かにしているようにと呼びかけました。神さまに信頼するという、神の民にとっては当たり前のようでありながら、そこに立ち続けることは決して容易くないところ、主が世界の真の王であることに信頼し、王なる主の言葉が実現することに信頼するところに立ち帰るように、呼び掛けるのです。

 

 そしてイザヤは9章の少し手前から、神さまの祝福を語り始めます。南下してくる大国に侵略されるのではないか、不安定な情勢に乗じた周囲の国々に占領されたり属州とされるのではないか、捕虜とされて強制的に連れ去られるのではないかと、自分や大切な人々の尊厳や命が脅かされる不安の中に絶えず置かれている神の民の苦しみを、闇や死の陰と言い表し、「抑圧された地から闇は消える」、「異邦人のガリラヤに栄光が与えられる」、「闇の中を歩んでいる民は大いなる光を見、死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が輝いた」と述べます。既に起こったことを語っているように聞こえる文ですが、預言の言葉を告げる表現方法です。そして5節で、ここには訳されてはいませんが、「なぜなら」と述べてから、「一人のみどり子が私たちのために生まれる」からだと述べます。この方が世に到来し、王となられるから、闇の中にも、死の陰の地にも、光が輝くのだと述べます。

 

他の様々な国の力に怯えたり、対抗する力をつけなければと心騒がせていた南王国の王や民に、主権はこの新しい王の肩にあることを語り掛けます。この新しい王は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」という四つの称号で呼ばれます。「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父」は、これまで神さまについてだけ用いられてきた表現であり、「平和の君」は、王に対してその王座に神さまからの平和が与えられることを願って、用いられる表現だそうです。新しい王は、本来神さまだけに用いられてきた称号も、神が王に与えてくださることを願ってきた称号も神さまから与えられることが約束されている、これまでにない新しい王であるのです。

 

 最初の「驚くべき指導者」の「指導者」と訳されている部分は、「助言者」と訳されたり、英語では「Counselor」と訳されることが多い言葉です。元の言葉には「計画する、定める」という意味があり、イザヤはもっぱら神のご計画を示す時に用いているのだそうです。イスラエルの民を基に神さまの祝福をあらゆる民へともたらす救いのご計画を推し進めるために、民や王を立て、預言を通して助言を与えてこられた神さまが、そのご計画を新しい王によって成し遂げ、闇と死の力に押しつぶされそうな世に光をもたらされると述べます。このことは、主の熱情によって成し遂げられると、述べられるのです。

 

 それから長い年月の後、ガリラヤのナザレと言う町に暮らしていたマリアという一人の女性に、神さまは天使を遣わされました。天使は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」と告げます。この言葉にマリアはひどく戸惑います。すると天使は「マリア」と名を呼び、「恐れることはない」と安心するように呼び掛け、恵まれた方と呼ばれたマリアは、どのような恵みを神さまからいただくのか、語り始めます。あなたは男の子をみごもると、その子は偉大な人になり、いと高き方の、聖なる者、神の子と呼ばれると。神さまがこの方にダビデの王座をくださり、この方は永遠にヤコブの家を、神の民を治め、その支配は終わることが無いと、告げたのです。

 

 マリアが男の子を身ごもり、産むということは、別の状況であれば本当に喜ばしいことでありましょう。ヨセフとの結婚を控えているマリアは、結婚後、子どもに恵まれることを願っていたのではないでしょうか。周囲の人々も、そのようにマリアとヨセフが神さまから祝福されることを願っていたことでしょう。

 

けれど、婚約はしているもののまだヨセフと同居していないマリアに、妊娠はあり得ないことです。妊娠がもし現実に起こったら、マリアを苦境に追いつめることになります。場合によっては死も覚悟しなければなりません。当時のイスラエルでは、婚約は法的に結婚と同じ意味を持ちました。マリアはまだヨセフと暮らしていなくても、ヨセフの妻としての法的立場と責任を持っているとみなされていたでしょう。夫ではない者の子を妊娠したとなれば、結婚の関係を蔑ろにする姦淫の罪を犯した者として、法的に裁かれても仕方のないことです。姦淫には、死刑を宣告される可能性もあります。この妊娠は姦淫に依るのではない。神さまのみ業に拠るのだと、天使の告げた言葉を伝えたら皆、理解してくれるのでしょうか。誰よりもこの出来事を理解しなければならないヨセフが、理解し、受け止めてくれるようになるのでしょうか。マリアには分からないのです。

 

 天使を通して神さまは、マリアが身ごもる子は、神のみ子と呼ばれ、王となられ、永久に支配する方となることも告げました。マリアも、いつかダビデの血筋から神さまが王を興してくださると、この王がダビデの王国を揺るぎないものとし、永久に続くものとすると告げられた預言を、知っていたことでしょう。夫がそのダビデ家の者であることも思い起こしながら、天使の言葉を聞いたかもしれません。神さまが告げて来られた救いのみ業、神の民が長い間待ち望んできた王の到来がいよいよ実現する、そのことは人々にとって、恵み以外の何ものでもありません。けれど、マリアをこの先待ち受ける日々は喜びだけでは無いことが目に見えています。理解されず、誤解や中傷、非難を浴びるかもしれません。浴びるのは自分に向かって投げつけられる石打ちの刑の石かもしれません。お腹に宿ると言われる命まで、危険にさらすことになるかもしれません。その自分に「おめでとう、恵まれた方」と告げた天使の言葉を、マリアはどんな思いで聞いたことでしょうか。

 

そもそも、今の自分に妊娠があり得ないことは、マリアが誰よりも知っています。出来事の出発点が、起こり得ないことなのです。「どうしてそんなことがありえましょうか」と問うマリアに、天使は、「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを覆う」のだと、神さまがこのことをなさるのだと告げます。そして、マリアの親類でもある、祭司ザカリアの妻エリサベトに起きていることを告げます。子に恵まれないまま高齢となり、子を望むことが既に不可能であったエリサベトは、神さまのお力によってザカリアとの間の子を宿し、もう6か月になる、神さまにできないことは何一つ無いのだと。この神さまによって、マリアには神のみ子が宿るのだと。人間の力と常識を超えて、人生設計やそのための備えを超えて、周囲の人々の期待や想定を超えて、神さまは救いのご計画をマリアにおいて出来事とすることができる方です。何故マリアなのか、「ダビデ家のヨセフの婚約者」ということ以外何も述べられていません。エリサベトのようにイスラエルの民にとって重要な血筋の者であるわけではなく、ザカリアのように、イスラエルの民の信仰の中心であるエルサレムの神殿で神さまに仕える特別な務めを委ねられた者の妻となるわけでもなく、ザカリアとエリサベトのように、主の戒めと定めとをみな落ち度なく守る、神さまのみ前に正しい生活態度が知られていたことが、述べられているわけでもありません。エルサレムから離れた小さな町で暮らしていたまだ若い女性にこのみ業をもたらすことは、ただ神さまのご計画によりました。「マリア」と名を呼ばれ、「恐れるな」と語り掛けてくださる神さまのみ前に、たった一人身を置き、この驚きに満ちた突然の知らせに戸惑い、もがきながらも向き合うマリアの姿と、マリアの発した言葉に触れる度に、私たちは打たれるのではないでしょうか。

 

「私は主の仕え女です。お言葉どおり、この身になりますように」とマリアは答えました。自分の主は自分ではなく神さまであると、はっきりと言い切ります。不安の種は尽きず、どのようにして神さまが事を実現してゆかれるのか全く分からない、濃い霧の中へと向かってゆくような状況であったでしょう。それでも、霧がこの先闇のように濃さを増してゆくのだとしても、いと高き方がそのお力で自分を覆ってくださるのだと、自分を包むのは闇だけではないのだと、神さまの言葉に信頼しました。自分と新しい命が死の陰の谷を行くことになろうとも、闇を貫ぬく神さまの光を見続けることができると、神さまの言葉に信頼しました。「お言葉通り、この身になりますように」と答えることができたマリア、このマリアの信頼をエリサベトも、「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」と言い表しました。主の言葉が必ず実現すると信じたマリアは、なんと幸いなことかと、神さまとマリアの間にある信頼に満ちた結びつきに感嘆の声を挙げました。今得ているものを奪われかねない大きな変化にあって、マリアは戸惑い、天使が返す言葉と向き合い、更に問いかけ、与えられた言葉に聴く、そのように真摯に、誠実にやり取りを重ねながら、神さまへの信頼を深め、最後に「お言葉通り、この身になりますように」と答えました。「気をつけて、静かにしていなさい」「貴方の神にしるしを求めなさい」とかつて南王国の王に神さまが告げられた言葉のように、神さまの言葉に聞き、神さまに問い、また聞き、洞察を重ねながら、静まって耳を傾け、神さまのしるしを求めることへと導かれました。自分の計画が自分の思うタイミングで、思う仕方によって実現することを願う思いは勿論あるけれど、それだけでなく、神さまがこれまで為してこられた救いのご計画が実現することを願うことへと導かれました。自分のこの先の人生も自分の存在も、自分がこの先直面するであろう苦しみも悲しみも、神さまのご計画の実現に用いられることをも、自分の願いとすることへと、導かれました。マリアは、自分自身や力を持つ誰かにではなく、神さまに自分の願いの核心を置いたのです。

 

私たちは、自分自身や他の人々に、色々な期待を抱きます。自分の期待が実現すれば幸いだと喜び、実現しなければ願いが叶えられなかったと落胆する、そのような浮き沈みを繰り返しています。自分にとって望ましく思えることの実現が、神さまのご計画の実現に寄与するならば、私たちにとってこんなに嬉しいことはないでしょう。それだけでなく、望ましく思えないこと、困惑、疑問を覚えずにはいられないことも、神さまのご計画であるならば、このことにおいても自分をも用いてくださいと願うことのできる道が与えられていることも、私たちにとっての幸いであることを知ります。嬉しいか嬉しくないか、直ぐに得になるかならないかが、生きていることの価値を決めるのではないと知る幸い、全ての人に祝福をもたらす神さまの救いのみ業に用いられることを願える幸いが、キリストの後に従う私たちにも与えられています。

 

 

神さまの言葉が実現することに信頼した聖書の民は、イザヤを通して、インマヌエルと言う、「神が私たちと共におられる」しるしを与えられました。そしてマリアは、神さまの遣いから、「主があなたと共におられる」と告げられました。主イエスの母として魂を刺し貫くような苦しみ悲しみに耐えなければならない時にも、主が共にいてくださることに支えられる人生を歩み始めました。罪の闇を抱え、いつも死の力にどこか怯えながら道を求めている私たちは、私たちを罪の支配から救い出すために世に来られた神のみ子と共に、歩むことへと招かれています。インマヌエル「神は私たちと共におられる」というお名前も持つ、真の王なるイエス・キリストによって、罪の闇の中に座する時も、死の陰の谷を行く時も、神さまの光を見出し、時が来れば実現する神さまの言葉に信頼する旅路を、歩むことができるのです。