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真実な救い主

申命記3178、Ⅰコリント1013「真実な救い主」

2023101日(左近深恵子)

 

 コリントの信徒への手紙一から、1文だけを先ほど聞きました。どれだけ多くの人がこの箇所に励まされてきただろうと思います。私たちが試練の中にある時、思い出される聖書の箇所の一つでありましょう。自分の過去を振り返り、「神は、あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらない」と言う言葉に、本当にそうであったと思うかもしれません。しかしまた、試練の中、ぎりぎりの状態であった時には、本当にそうなのだろうかと、この言葉を受け止めきれなかったこともあったかもしれません。私たちの周りや社会で起きている悲惨な現実と向き合う時、この言葉が力を失っていくように思ったこともあったかもしれません。この文は、本当に苦しんだことの無い者だけに響く、浅い慰めなのでしょうか。

 

 今日の13節は、10章の大きな流れの中で述べられています。10章は厳しい言葉で出エジプトの出来事を思い起こさせ、この時イスラエルの民が陥ってしまったような悪に陥らないようにと呼び掛けます。ファラオの下での奴隷生活を強いられていたイスラエルの民は、神さまによって救い出され、神さまが選び立てたモーセに率いられてエジプトを後にし、神さまが与えてくださる地を目指して進みました。けれど奴隷たちを諦めきれないファラオは、全軍あげて追いかけてきます。前には葦の海、背後からは当時世界最強のファラオの軍が迫り、どちらに進んでも滅びしかないと、イスラエルの民は絶望に呑み込まれていきました。しかし神さまは海を二つに分け、水を両側に留めてくださったので、イスラエルの民は海の水の間を通り抜けて向こう岸に渡ることができました。民が渡りきると神さまが水を元に戻されたので、ファラオの軍は全滅し、民はもう二度とファラオの力に怯えることは無くなりました。エジプトでの、衣食住は与えられていたものの、人として生きることができなかった奴隷の日々から救い出され、生存することが困難な荒れ野の旅路で、神さまは天からマナというパンを降らせ、硬い岩から水をほとばしり出させ、肉体だけでなく存在丸ごと養ってくださいました。民は救い出され、向かうことのできる地を与えてくださり、その旅路を共に居て導き、養ってくださる神さまから、こんなにも大きな恵みをいただきました。この神さまに、礼拝において感謝を捧げ、日々の生活を通してお応えしていく自由も、回復されました。

 

 しかしイスラエルの民は、度々悪へと陥ってしまいます。最たるものは、偶像礼拝です。神さまが共にいてくださることに確信を持てなくなると、あっという間に民はぐらつきます。一行はシナイの山の麓に着き、モーセは神さまから登って来るように告げられ、山で十戒が記された石の板を授けられました。しかし麓でモーセの帰りを待つ民は、なかなかモーセが戻ってこないことに次第に苛立ちます。モーセと、モーセを通して為される神さまのみ業をこれ以上待てないと金の子牛を作り、これを神として礼拝し、飲んだり食べたりして楽しんだのです。

 

自分たちの願いを叶える存在として作り、神と呼ぶのが偶像です。神と呼びながら実態は自分たちが偶像の神を支配しています。自分たちの利益に仕えるための存在である偶像を礼拝することは、自分たちの利益、自分たちの欲求を神とすることです。自分の腹を自分の神とするようなこの偶像礼拝に、主なる神は激しい怒りを示されます。全ての者が滅ぼされ、旅に終止符が打たれても仕方の無い悪でしたが、モーセの必死の執り成しによって、神さまはイスラエルの民に、旅を続けることを赦されました。

 

出エジプトの出来事によって神さまは、自由を与えてくださいました。道を選び取ることのできる自由の中で、民は自分の欲求が満たされることを何よりも求めるようになりました。それは、生きていくために必要なものが与えられますようにとの切実な祈りを超えて、自分の欲求が満たされることを求める思いです。満たしてくれそうなものを神として崇め、満たされれば喜びます。その裏返しに、欲求が満たされず、厳しい日々が続けば崇めずに不平を言います。既に十分に必要を満たされているのにその恵みを忘れ、もっと得たいと求め続け、不満をくすぶらせ続けます。そのようにイスラエルの民は、神が自分の欲求を満たす力を持っているのかどうか、神の恵みの大きさを試そうとしました。この試みに神は怒られ、多くの人が蛇に噛まれて死に至った出来事をパウロは思い起こさせます。こうして悪に対する罰が降ったのに、その後も荒れ野の旅の厳しさに直面すると、民は不平をモーセやアロンにぶつけます。こんな辛い思いをするのだったらエジプトで死んだ方がマシだったと言ってみたり、食べられるのはマナばかりだと言ってみたりします。更にはモーセやアロンが指導者として立てられていることに不満を持ち、自分たちが2人の上に立とうとします。自分たちが思い描くように、思い描く仕方で欲求が満たされないと、民は神さまの恵みを侮り、退けました。それは、神さまの救い、養いを、更には神さまご自身を、軽んじ、侮り、退けることでありました。そうして民は、神さまの厳しい罰を受けたのです。

 

コリントの教会に宛てた手紙でパウロは、このようなイスラエルの民の姿を今一度人々の前に示します。悪を貪ったイスラエルの民の罪をも、神さまは私たちを導くための警告として用いておられることを示します。悪を貪ることは、その者を滅びへと至らせるのだと、私たちを戒めます。イスラエルの民が特別に悪を求めてしまう人々だったわけではありません。コリントの教会の人々が、私たちが、それは自分の姿でもあると気づくことをパウロは願っています。誰の心の奥底にも、貪る思い、自己中心的に自分の欲求を満たそうとする思いがくすぶっています。その悪を貪る思いが何かの折に力を得て心の底から湧き上がると、神さまへの感謝、自分に命を与えてくださり、他者にも命を与えてくださった神さまを仰ぎ、他者を重んじ、他者との結びつきを尊び、礼拝と礼拝に始まる行動をもって神さまにお応えしようとする思いといった、私たちが大切にしていたものは、かき消されてしまいかねない、私たちは皆そのような者です。荒れ野の旅の厳しさが露わにした神の民の罪と、罪に下された罰が戒めとならない者はいません。今日の箇所の直前、12節で、「立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい」とパウロは語ります。自分は誰かに支えられなくても自立していることができるのだと、思っている、それが「立っていると思う者」です。このような人々は神さまの恵みを土台とせず、自分の才覚や能力や自分の中のリソースで自立できていると、自分を頼みにしています。自分が自分の神になっています。神でないものを神として、それを土台にしているのですから、いつ倒れても不思議ではありません。そのような、自分と言う不確かなものを土台にしている者が倒れてしまったら、そのもろい自分を土台にしてどうやってまた立つことができると言うのでしょうか。

 

神さまから与えられている恵みを忘れ、自力で立てているという偽の安心感を土台にし、自分の欲求を満たすものを神と呼ぶ、この悪を貪る思いは誰の中にもあるのだと10章は語り続けてきました。空虚な偽りの安心感に立つ人々に、実は危機的な状況にあることをパウロは語ってきました。自分を頼みとする時私たちは、自分が危機的な状況にあることになかなか気づけず、危機的であることを受け入れることも難しいものです。他方、私たちが厳しい試練の中に置かれている時は辛い思いをしているので、危機をひしひしと感じ、自分の何もかもが試練に呑み込まれてしまうように思います。試練に襲われると私たちは、苦しみから逃れられるかどうか、その結果だけしか関心を持てなくなりがちです。信仰とは、苦しみに会わないために求めるものなのだという考えさえも世にはあります。しかし信仰をもって歩んでいるからこそ避けられない試練もあります。試練の中で問われるのは、私たちの信仰です。私たちの信仰が試練の中に置かれます。パウロは、このような試練の只中で苦しみ、心が弱っている人々に、13節で呼び掛けるのです。

 

「あなたがたを襲った試練」と13節にあります。直訳すると「試練があなたがたを捕えている」となります。試練の只中にある時、私たちはまさに試練に捕えられ、支配されているように思います。こんな厳しい試練を誰も経験したことが無いだろう、誰もこの辛さは分からないだろう、そう思います。しかしパウロは、試練があなたがたを捕えているが、その試練の中で世の常でないものは無いと言います。「世の常でないもの」を直訳すると、「人間的でないもの、人間に属さないもの、人間から来ないもの」となります。あなたがたに耐え難い思いを味わわせているその試練も、これまで他の人々を襲ってきたものと同様のものであり、人間的なものなのだと言います。イスラエルの民も捉えられました。数多の信仰者たちが捕らえられる苦しみを味わいました。パウロ自身もそうです。これまで福音を伝える歩みの中で幾度も挫折を味わい、同胞の民からも異邦人からも嘲られ、攻撃され、訴えられ、投獄され、命が脅かされる試練に遭ってきたパウロは、自分もそうなのだという思いと共に、この言葉を語ったのではないでしょうか。

 

過酷な道のりを経て来たパウロは、次の言葉もやはり実感をもって述べたことでしょう。「神は真実な方です」。試練の苦しみから逃れられるかどうか、結果だけを問題にすることに、あるいは試練の中でも自力で立つことが立派な人間の在り方なのだと、自分で自分を鼓舞し続けることに対して、最も大切なのは、神が真実な方であるということなのだと、呼び掛けます。神は真実な方です、言い換えれば、真実なのは神さまである。このことに信頼を置き続けられるか、問いかけます。もし私たちが試練の苦しみから逃れられたら、真実なのは神であると思うことは容易いかもしれません。しかし苦しんでいる今、そのことに立ち続けられるかを、問います。神ではなく、結局はこの苦しみを与えている力に真実があると思うのか、最後に頼りになるのは自分だ、だから真実は自分にあると思うのか、それとも、先が見えない辛い状況にあっても、真実なのは神であると、神さまに信頼を置くことができるのか、私たちの信仰が問われているのだと、真実なのは神さまだと、パウロは告げます。

 

私たち自身、真実であり続けられない者です。自分が真実を貫いていないことに自分で気づくこともありますが、寧ろ他者の中の不真実さばかり目についてしまい、だから人間は信じきれないと思ったりするものです。真実を貫くことができない自分たちの常識で神さまを見てしまうから、神さまが真実であることにも信頼を置くことがなかなかできません。そのような私たちに、神は真実な方なのだと、真実は神さまにこそあるのだと、パウロは呼び掛けます。自分の罪を認められず、悔い改めることもせず、罪からの救いが必要であることにも気づかぬまま、滅びへと坂道を滑り落ちていく不真実な私たちを救い出すために、み子を十字架に架けてくださいました。神さまの真実が、み子の十字架に明らかになっています。既にいただいてきた恵みを見失い、悪を貪ってしまった荒れ野の民に、モーセを通して神さまが呼び掛けてくださったように、既にいただいている恵みを見失わないようにと、十字架と復活を見つめ、神さまの真実を見つめるようにと、パウロを通して神さまは呼び掛けてくださいます。

 

この真実な神さまは、「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道も備えてくださいます」とパウロは続けます。信仰において、その意味が見えてくる言葉です。今はまだ苦しみの中にあっても、信仰において、神さまの真実に苦しみもこの先も委ねることができます。年月を経た後振り返って結果だけを見れば、願うような苦しみからの解放は実現しなかった、そのようなこともあり得ます。パウロが福音を宣べ伝えるためにと計画した旅が、自分の思いに反して何度も行く先を変えなければならなかったり、心も体も傷を負うような出来事に何度も見舞われたように、挫折を味わい、苦しみ、悲しみは残り続けるかもしれません。それでも、逃れる道を神さまは備えてくださるとパウロは証言します。どんな試練にもひたすら耐えるべきだと言っているのではありません。神さまが道を備えてくださるから、耐えることができるのだと言います。「逃れる道」と訳された言葉は、「出口、脱出の道」といった意味の言葉です。「出て行く」という意味の動詞が元になっています。試練を回避する横道ではなく、試練を突き破って出て行く道です。前は葦の海、後ろはファラオの軍勢に挟まれ、道は閉ざされたと思ったイスラエルの民に、神さまが海の中に道を切り開いてくださったように、神さまに信頼して進む先に神さまが道を備えてくださいます。来た道を戻るのではなく、横道を探すのではなく、苦しみの只中で身を固くしてただ耐えているのでもありません。偶像礼拝へと迷い込む道では無く、結局神の真実は現実の出来事の前ではかすんでしまうのだと、不満を募らせる道では無く、神さまの真実に信頼して、神さまの導きを祈り求めながら、まだ見えていない出口を目指すのです。

 

 

先ほど申命記からモーセの言葉を聞きました。荒れ野を旅してきたイスラエルの民が約束の地に入るその直前に、死が近いことを知ったモーセはヨシュアを後継者に任命し、最後の教えを語ります。その教えの一部です。モーセは律法をヨシュアに託して言います、「主ご自身があなたに先立って行き、あなたと共におられる。主はあなたを置き去りにすることも、見捨てることもない。恐れてはならない。おののいてはならない」(申318)。振り返れば民はこれまで不真実な歩みを重ねてきました。悪を貪り、神さまへの不平を繰り返してきました。そして、民の前にあるのは、聞いてはいても、実際にそこで暮らしたことが民の中に誰もいない土地です。過去からの延長線上として今を見れば、前へと踏み出せる根拠は自分たちの中にありません。奴隷の地から救い出してくださり、荒れ野の旅を常に導き、守り、共にいてくださり、天からのパンと岩からの水で養ってこられた神さまが、この地を与えてくださると告げられた、この神さまだけが彼らの根拠です。先立って導かれ、共におられ、置き去りにすることも見捨てることもない方であるとモーセが教える神さまの真実だけが、踏み出す彼らの土台です。不真実さを捨てきれない私たちにとっても、神さまの真実だけが支えです。神さまの真実を見失うことの無いように、神さまが備えておられる道を求めて踏み出します。私たちは、洗礼を通して神さまの恵みに生きる新しい命を与えられ、聖餐のパンと盃によって、神さまの真実を味わいながら、先立って導かれ、共におられる主と共に進んでゆくのです。