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神との平和

イザヤ54810、ローマ515「神との平和」

2023917日(左近深恵子)

 

平和を求める思いや、平安で満たされた日々を過ごしたいという思いは、誰の中にもあるものでしょう。あるのだけれど平和や平安を求める私たちの熱量は一定していません。戦争や暴力に曝されている誰かの悲惨な現実に胸を痛め、何とかしなければと、熱い思いで取り組んでいる時もあれば、そのことに以前ほどの熱意は自分の中に無いことに気づくこともあります。自分の働きが平和を実現することに何かしら貢献できると思う時は、平和のために力を注ぐことができますが、一人一人が地道な努力を長年積み重ねても、為政者たちの判断一つで築いてきたものが踏みにじられる現実に、失望を覚えずにはいられない時があります。先ほど共にお聞きしたロマ書55に、「この希望が失望に終わることはありません」と述べられていました。新共同訳この箇所は「希望は私たちを欺くことがありません」となっていました。私たちはまさに、希望が失望で終わってしまうような恐れ、希望が私たちを欺くような不安を幾度も抱いてきたのではないでしょうか。同じように平和というものを求めながら、人によって想定している平和が違う現実に、心が揺らぐこともあります。社会の平和、世界の平和について他の人々が行っている活動や議論が、どこか別世界のことのように思えてしまう時、身近な人の暴力や言動に苦悩し、一瞬でも自分のこの生活に平安があることを切望する時もあるかもしれません。他者との関わりをそぎ落とし、接点を減らし、心の扉を閉じて、自分の内なる平安を守ろうとする時もあるかもしれません。それぞれにとっての平和や平安を、それぞれの熱量で、不安を覚えながら求めている現実があります。

 

平和を、叶うかどうか分からないけれど叶って欲しいものと捉えている私たちに、また平和のために何かをすることにばかり心を向けがちな私たちに、今日の箇所でパウロも「平和」を語ります。パウロは平和を、義とされていることと並べて語ります。

 

パウロは直前の4章まで語って来たのは、私たちが本来持っている性質の中の良いところや、その良い性質を表わす行動の積み重ねでは、私たちを義とすることができない。罪深い性質にひきずられてしまう私たちを、神さまは独り子であるキリストの十字架によって、義としてくださるということ、無罪としてくださるということ。この常識ではあり得ない赦しを、この私のためにも神さまが与えてくださったのだと受け入れる信仰によって、私たちは義とされるのだということでした。

 

5章に入るとパウロは、私たちは義とされていることを出発点に語り始めます。そして、義とされているということは、平和を与えられているということなのだと告げます。この部分を元のギリシア語で見ますと、51は「義とされている」という意味の言葉から始まり、「キリストによって」と義とされていることの説明がされた後、「平和を得ている」という言葉、直訳すると「平和を持っている」という言葉が来て、「私たちの主イエス・キリストによって、神との間に」という平和を持っていることの説明が続きます。パウロが冒頭で、「義とされている」ということと「平和を持っている」ということを並べます。パウロの力点は、キリストによって義とされている者は、神さまとの平和を持っているということにあります。罪深い性質に引きずられ、神さまに背を向け、隣人のことを本当に受け入れることができずにいた私たち、神さまとの間にも隣人との間にも、本当の平和を持つことができずにいた私たちに、神さまが赦しを与えてくださった。それは、神さまが私たちとの間に平和をもたらしてくださったことなのだと。神さまとの間に平和が必要であることが分からないまま、自分の主観や熱意に頼り、自信や希望を失ってはぐらついていた私たちに、神さまは、神さまとの平和と言う土台を与えてくださったのです。

 

救いと言うことの意味を、私たちの社会では死後に天国に行くことと捉えることが多いと思います。けれど神さまは、私たちの罪が赦され、神さまのみ前で義を宣言されることを救いと教えてくださいます。この救いは既に私たちにおいて事実となっているのだと、赦しによって義とされ、神さまとの間に平和を持っているのだと、パウロは強く語ります。「既に」ということが毎日私たちの出発点です。築いてきたものよりも崩れてしまったものの方が大きいように思うことがあっても、互いの思いに温度差を感じることがあっても、取り巻く現実が刻々と変化しても、義とされ、神さまとの平和が与えられている、そのことが私たちの前提であることは変わりません。この前提があるから、この先いつか訪れる死も、私たちの平和を築く歩みを崩すことはできないのです。

 

キリストに救われている私たちは、神さまとの平和を土台に、社会や世界のこと、あるいは家族や隣人との関係のことに向き合うものであります。「平和」「平安」という二つの日本語があります。それぞれ少し異なった意味合いを持つ言葉として使い分けることが多いと思いますが、新約聖書で「平和」「平安」と訳されている言葉は一つです。私たちが「平和」と言って思い浮かべるのと同じように、戦争や暴力と反対の状態を表します。そしてまた、「平安」や「安心、安全、無事」も意味します。この言葉が聖書の中で用いられる時には、旧約聖書で「平和、平安」と訳される「シャローム」という語の意味を受け継いでいます。シャロームは、あらゆる面での完全な充足状態を表す言葉であり、人間にとってこの上ない幸せとなるあらゆる要素を含んでいるそうです。本日の午後、平和をテーマにした支区の講演会が美竹教会で行われ、平和のために共に祈る時間も持ちます。そのような平和講演会が行われる日の礼拝に、平和を語る聖書の箇所が与えられたのは不思議なタイミングです。

 

このシャロームの系譜を引く新約聖書の「平和」「平安」という言葉は、戦争や暴力が無く、安心安全な状態を表わす以上に、キリストによって私たちにもたらされ、終わりの時に完成される救いのみ業全体を指します。救いと平和は同じことを別の面から言い表す言葉と言えます。新約聖書で福音が「平和の福音」と表現される(エフェソの信徒への手紙)のも、救いが平和をもたらすものであることを示しています。私たちが与えられている神さまとの平和は、神さまの新しい契約の実現です。預言者イザヤは、神さまのみ業を告げる者のことを「平和を告げ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ」る者と言いました(イザヤ527)。先ほど共にお聞きしました箇所では、神さまはイザヤを通してノアの洪水の時に神さまが虹をしるしとして示され、「このような洪水を二度と地上に起こさない」と誓われたことを思い起こさせます。それなのにご自分に背き続けてきたイスラエルの民は捕囚の身となりました。この民を見捨てず、深い憐れみをもって捕囚の地から約束の地へと連れ戻す、永久の慈しみをもって憐れむと、私はあなたの贖い主である、私の平和の契約は揺らぐことはないと告げられ、重ねて、あなたを憐れむと言われています。神さまに背く生き方と決別することのできない人間を救い続けてこられた神さまが与えられた平和の道は、み子イエス・キリストです。ご自分の肉によって隔ての壁を取り壊し(エフェソ214)てくださったキリストによって、平和がもたらされたのです。

 

救いが与えられているということは、平和が与えられているということだと語るパウロは、今日の箇所の少し先、10節、11節では、同じことを和解と言う言葉で言い換えます。和解も、救いを言い表す重要な言葉であり、キリストによってもたらされている平和の意味を示してくれます。私たちが通常他者や社会に対して主張する公平さを土台にすれば、自分の罪深い性質に支配され続け、神さまに背き続けてきた私たちは、神さまの裁きによって断罪されて当然です。けれど神さまは独り子の命によって、私たちの罪を赦してくださいました。私たちの常識を土台にすれば、神さまに対して罪責のある私たちの方から和解を申し出なければ和解は成立しません。けれど和解を求める必要すら分からなかった私たち、和解を求めることの根拠となる正しさを持たない私たちに、まだ罪から離れられずにいたのに、神さまの方から和解のための道を切り拓いてくださいました。こうして私たちは神さまと共に生きる平和を持つ者とされているのです。

 

だから私たちは今、神さまの恵みの中に導き入れられています。「導き入れられている」と訳された言葉の元の意味は、「入口の中に入ることを赦され、立っている」というものです。キリストが平和の道となってくださり、閉ざされていた扉を開いてくださり、キリストによってこの恵みの中に導き入れられ、私たちは今そこに立っています。これが、今私たちが居る所です。私たちが毎朝自分自身を置くところです。

 

私たちはそれぞれに社会の平和、世界の平和、家族との平和、隣人との平和を求めています。多くの壁に阻まれながらも、神さまの恵みの只中に日々立ち直し、神さまとの平和を土台とし、その上に平和の歩みを築いていくことが、キリスト者の在り方です。自分の心の内の平安も、他者との間の通路を狭めたり閉めたりすることによってではなく、神さまの恵みの只中から、神さまの平和を根拠に、求める道を与えられています。そうであっても、恵みの中に自分の立脚点を据え続けられない弱さを私たちは抱えています。私たちが仮に世の平和のために自分の何かを犠牲にすることも厭わないひたむきな行動をすることができたとしても、その行動の土台が実は自分の自己実現のため、自己満足のためであるということは、いつでも起こり得ます。神さまとの平和を出発点として歩み始めたのに、いつの間にか土台が別のものにすり替わっている、あるいは徐々に変質している、ということも、誰にでも起こり得ます。また、そのような正しい行いの内側に人間の罪をかぎ出しては曝したい欲求に駆られ、自分の目の中の丸太に気づかず、他者の目にあるおが屑ばかりあげつらう誘惑も、いつでも私たちを惹きつけます

 

私たちの土台を、聖書のみ言葉に示され続けることによって、土台にその度に立ち返ります。土台が無いまま自分の熱量と主観に頼るところから、神さまの恵みの只中に帰ることができます。パウロは2節で、「このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」ていると語ります。日本語の「お陰」と言う言葉には、その漢字にも現れているように、覆うように及ぶ恩恵や庇護を表す意味がありますので、「キリストのお陰で」と言うと、キリストからの何らかの力が自分を何となく包み込んでいる、そのようなイメージを思い描きがちです。けれど私たちがその只中に立っている恵みは、そのような曖昧な実態の無いイメージではなく、十字架と言う歴史の中の具体的な出来事において苦難と死を味わい尽くされたキリストによって、もたらされています。されこうべの丘を意味するゴルゴタの丘に付き立てられた処刑台にご自身の命をささげ、十字架で肉を裂かれ、血を流されたキリスト、そのお方によって、私たちは神の裁きの処刑台ではなく、恵みの中に立っているのです。

 

この恵みの中に立つ者は、誇るものも持っています。それは自分がこれまで平和のために費やしてきた時間や実績ではありません。パウロは、神の栄光という希望であり、苦難であると言います。希望を誇るということも、誇ることを狭い枠の中で考えてきた私たちには意外な表現ですが、苦難を誇るということはより掴みづらい表現です。パウロがここで用いている苦難は、他の手紙で「誇る者は主を誇れ」と語る時の「誇る」という言葉の用い方に通じます。自分を高めるものを自分の中に見出し、喜びを得るのではなく、主を誇ることに喜びを見出す、思いがけない生き方を示されます。既に今、神さまの栄光に与るという、神さまから与えられた希望を持っています。その希望を誇るだけでなく、キリストに従うことで味わう苦難の先も見つめる目を与えられます。苦難が忍耐を、忍耐が品格を生み出し、それは失望に終わることのない希望に至ることを知っているから、苦難をも誇りとするのです。パウロは、苦難を誇るなどと言って、実現不可能なことを聞き手たちに強いているのではありません。自身、同胞のユダヤ人たちから敵意を向けられ、宣教を妨げられ、暴力を振るわれ、投獄され、命の危険にさらされ、また異邦人たちからも嘲笑され、相手にされない苦難を味わってきたパウロです。パウロの宣教の業が大いに実りを結んだように私たちには見える地域であっても、パウロは語る言葉に背を向けられる辛さを数えきれないほど味わってきたはずです。けれどパウロはいつも出発点において新鮮な希望を抱き、そして苦難によって鍛えられた忍耐、精錬された品格を経て、より確かな希望を先に見るようになることを繰り返してきた、だから手紙を通して人々に、「この希望が失望に終わることはありません」とはっきりと述べることができるのでしょう。私たちも、押し潰されそうな苦しみの日々が続いても、その道の先の終わりに希望を与えられています。強い心を持つから、そのように希望を見据えられるのではありません。神さまの愛が、聖霊のお働きによって注がれているからです。そのことを知り、そのことに信頼する信仰が、私たちの力となり、希望を見据える目となります。

 

 

私たちは神さまが愛を注いでおられること、神さまとの平和が与えられていることを、福音を通して受け留めます。特に聖霊が共におられる礼拝において語られる福音に耳を傾け、受け止めることによって、土台が強められます。だからこそ、自分が既に与えられている平和を土台に、歩むことができます。「平和を造る人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」(マタイ59)。と主イエスは教えられました。平和を造る日々の出発点は、いつでも神さまとの平和にあります。失望に終わらない希望の確かさに生き続ける者でありたいと願います。