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人を生かすため

創世記281019、ヨハネ316「人を生かすため」

202393日(左近深恵子、使徒信条)

 

 大変なこと多い現実の中で、夜だけがようやく休息できる時だという人がいるかもしれません。日中も休むことはできないわけではないけれど、心も体も休めることができるのは夜だけだと。

 夜が、自分が自分で居られる時だと言う人もいるかもしれません。他者に期待される自分という枠の中に自分を押し込んで過ごした一日が終わり、自分を取り戻すことができるのは夜だと。

 しかしまた、自分の中の思いから逃れられないのが夜だと言う人もいるかもしれません。昼間は忙しさに紛らわせたり心の内に抑え込んで向き合わずに済んでいた自分の中の思いが、夜になると膨れ上がり、潰されそうになり、夜明けがなかなか来ないこと、ようやく眠れても、目覚めた途端、重い気持ちに襲われることに、日々苦しんでいる人がいるかもしれません。

 

 今日お聞きしました聖書の二つの箇所には、夜、主なる神にお会いすることのできた二人の人のことが書かれています。

 創世記28章は、ヤコブという人のある晩の出来事を語ります。ヤコブには双子の兄エサウがいました。双子でありながら性格も得意とすることも対象的な兄エサウの方を、父イサクは特別に大事にしました。他方、母リベカはヤコブを特別に大事にしました。リベカの思いの背後には、二人が生まれる前に神さまから告げられた言葉があったと思われます。神さまはリベカの胎内に二人の子が宿っており、双子は二つの民となると、一方の民は他方の民より強くなり、兄は弟に仕えるようになると告げました(創252223)。そうして生まれ出た双子の内、弟ヤコブの方を特に重んじたリベカには、それだけの理由があったのでしょう。けれど親たちの偏った愛情と行動は、息子たちの間に溝を生み、対立が起こります。またヤコブと言う人は、欲しいものを手に入れるために、策略を巡らし、機を逃さず実行に移すことのできる知恵を持つ者でした。ある時ヤコブは、空腹で帰宅したエサウから、レンズ豆の煮物一杯と引き換えに長子の権利を獲得しました。それから暫くして、年老いてその時が来る前にと、祝福を長子エサウに与えようとしていたイサクをヤコブはリベカと協力して騙し、エサウの振りをして祝福を代わりに受けてしまいました。先のレンズ豆の煮物によって長子の権利が奪われた一件もあり、祝福までも奪い取られたエサウは怒りに燃え、ヤコブを殺そうと考えます。エサウの殺意を知った母リベカは、自分の兄のもとに行くようにヤコブに告げます。不和と確執を抱える家族の中で、ヤコブは自分の才覚によって手に入れたいものを手に入れて来ました。その結果、家族の間の溝はもはや自分たちでは埋めることができないほど深くなり、ヤコブは家に居られなくなり、逃亡の身となったのです。

 

 ある晩ヤコブは、とある町のそばで野宿をしました。父と兄を欺いてきたヤコブだからこそ、人の内側に潜む闇を恐れ、一人も知り合いの居ない街中で安全に泊まれる場所を探すよりも、獣から身を守る方がまだましと思ったのかもしれません。その場所にはルズという名前がありましたが、この時のヤコブにとって名前があろうとなかろうと、そこは故郷と伯父の家の間の一地点に過ぎませんでした。故郷や家族の中に居場所を失い、この先おじの所にも、自分が安らいで暮らせる自分の居場所を得ることができるのか定かではないヤコブにとって、寄る辺ない身を一晩横たえるだけの場所でした。それは孤独と不安の中で過ごす夜であったでしょう。エサウに怒りどころか殺意まで抱かせ、年老いた父親を深く悲しませ、命懸けで逃亡しなければならなくなってしまったことについて、ヤコブがこの時どう思っていたのかは分かりません。他者を傷つけ、苦しませてしまった闇を自分が抱えていることに向き合いたくない思いと、その闇によって自分が苦境に陥っている現実の間で、揺れていたのではないでしょう。

 

 その晩神さまは、夢の中でヤコブに天から地に達する階段を示してくださいました。神さまがおられるところである天と、神さまに造られた者たちが息づいている大地の間を、天の使いたちが上り下りします。ヤコブは自分のことを、取り返しのつかない過去と、確かなものが見えない未来との間を進む者としか見ていなかった、そのヤコブに神さまは、ご自分とのつながりの中にあることを示されました。神さまを求めたわけではないヤコブに、神さまの方から訪れてくださり、神さまとのつながりがどのようなものであるのか、階段を行き来するみ使いたちの情景によって、示してくださいました。ヤコブが地上のことに目を奪われ、自分の闇と他者の傷に目を塞いできたこの間も、み使いたちは天と地を行き来しながら神さまのご意志を成すための働き続けていたことを示してくださいました。そして主はヤコブのそばに立って語り始めます。神さまはご自分を、ヤコブの父祖アブラハムの神、イサクの神であると言われます。父祖たちに告げてくださったのと同じ約束をヤコブにも告げます。ヤコブから出る子孫がこの地上にあって神さまの祝福を受けると、他の人々もヤコブから出る子孫を祝福の源として、祝福に入れられるという約束です。後に、ヤコブから出た多くの民が、神の民と呼ばれ、ヤコブのもう一つの名前、イスラエルという名で呼ばれるようになることを、私たちはこの箇所で思わされます。神さまはこの日、アブラハム、イサクに続いて、ヤコブを神の民の基とすると言われます。ヤコブのようなものが何故、という納得のいかない思いが私たちの内に沸き起こります。しかし神さまは、家族の間の確執を深め、欲しい者はだまし取り、結果追われる身となったヤコブであっても、そのヤコブでさえも、救いの歴史を受け継ぎ、大きな働きを為す者とすることのできるお方です。私たちの思いを超えたみ心とお力によって、ヤコブはやがてこの地に増え広がる民の、祝福の源として立てられるのです。

 

 神さまは更に約束を告げられます。先の見えない寄る辺ない身であり、苦境に陥っており、この先も危機的な状況に幾度も直面することになるヤコブに、神さまは共にいてくださると、ヤコブがどこへ行くにしてもヤコブを守り、この地に連れ戻すと、神さまが約束されたことを果たすまで神さまはヤコブを見捨てないと、約束されます。自分の才覚で得たいものを得ることに必死になってきたヤコブが知ろうともしなかった神さまのみ心を、自分から求めもしなかったヤコブに、告げてくださいました。やがて目覚めたヤコブは、まったく新しい自分となって生き始めたことでしょう。神さまがこの地においても働いておられることを知ったヤコブにとって、その場所はもはや「とある場所」ではなく、「神の家」です。故郷に居場所を失い、親族の家が自分の居場所となるかどうか定かではないヤコブですが、神さまにつながる道の門がここにあります。そこでヤコブはその場所を、「神の家」を意味する「ベテル」と名付けました。枕にしていた石を取り、それを記念碑として立て、先端に油を注いで聖別しました。石やこの場所が特別に畏れおおいからではなく、神さまがいつも共にいてくださり、神さまのみ心とみ業がヤコブを見捨てないことが、ここで示されたからです。ヤコブは神さまに祈りを捧げ、出発したのでした。

 

 人のこれまでがどんなに罪深いものであっても、他者との健やかな関係を築けず、他者も自分も苦しめて来たものであっても、その人をも天の祝福の中に招いてくださる、この神さまのみ心とみ業は、イエス・キリストにおいて最も明らかになりました。人々の罪深さに悲しみ、苦しまれながら、その罪の赦しのために、代わりにご自分の命をささげてくださった主イエスによって、私たちの罪は赦されています。私たちを、罪深い性質に支配されたまま死んでゆく死からも、救い出しておられます。「私はあなたと共にいる」「私はあなたに約束したことを果たすまで、決してあなたを見捨てない」、この神さまの言葉は、死によっても妨げられません。主なる神キリストは、死の前も、死の只中も、死の後も、私たちと共にいてくださる方であります。主イエスがお生まれになる前に、神さまがヨセフに夢の中で告げられたように、キリストはご自分の民を罪から救う方です。それは旧約の時代から預言者を通して神さまが言われてきたことが実現するためであります。そして神さまは、「神は私たちと共におられる」を意味する「インマヌエル」という名を主イエスに帰せられました(マタイ12123)。神であり、罪から救い出してくださる方が、私たちと共にいてくださるために、人としてお生まれになり、十字架に至る道を歩み通してくださったのです。

 

 このイエスと言う方にこそ、神さまのみ心とお力が共にあることを、ニコデモと言う人は受け止め始めていました。この人はヨハネによる福音書の3章と、主イエスの埋葬の場面に登場する、ファリサイ派の人でした。ファリサイ派というのは、当時のユダヤ教の主流をなしていた一派で、旧約の律法を厳格に守り、その教えに生きた人々です。彼らは、自分において旧約聖書が預言したことが成し遂げられると言うイエスという者の発言を、神さまへの冒涜と取りました。また自分たちファリサイ派も含め、当時のユダヤ社会の指導者たちの在り方を厳しく批判することも厭わないこのイエスという者を、敵対視していました。

 

 ファリサイ派の一人であり、「イスラエルの教師」とも呼ばれていたニコデモは、ヤコブとは対照的に、社会の中で指導的立場にあり、学びと研鑽を積んでこの地位に到達し、人々から敬意を払われる身でありました。ニコデモは、神殿を商売の場にしてしまっている商人たちを主イエスが追い出した出来事を見聞きし、今の自分の生き方は神の国に入るための歩みとして十分なのだろうかと、揺らぎ始めていたのでしょう。主イエスに会って、もっと神さまの教えを受けたいと思ったニコデモは、主イエスのもとを訪ねることを決断します。それは夜のことでした。主イエスから厳しく批判され、主イエスを敵視している指導層に属する自分が、主イエスに教えを請いに行く姿を他の人たちに見られることを避けたかったのでしょう。夜の闇の中だからこそ、社会や同僚たちが自分に求める立場上の役割と言う衣を脱ぎ捨てることができ、本当に神さまの教えに生きる道を求めることができたのかもしれません。

 

 このニコデモに主イエスが繰り返し語られたのは、新しく生まれるということでありました。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(33)、「誰でも、水と霊から生まれなければ、神の国に入ることはできない」(35)、「あなたがたは新たに生まれなければならない」(37)と、重ねて語られました。ニコデモが意味が分からず問う度に、主イエスは語り直してくださいます。ニコデモも、よく分からなくても、もう良いと席を立って帰ってしまうのではなく、何かを掴もうと問い続けます。主イエスは、罪から逃れられない私たちにとって、新しく生まれることがどうしても必要であるのだと教えられました。罪によって誰かとの間に深まった溝を自分の力で埋めることができない、自分の力では人生をリセットして最初から上書きするようなこともできない、心入れ替えてやり直す決意をしながら、自分の罪深い性質にひきずられた生き方を繰り返してしまう、その私たちに、聖霊によって新しい命が授けられます。それは、水と霊による洗礼によって経験されます。そしてこの新しい命は、人生の旅路の間、養われます。「私は、天から降って来た生けるパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハネ651)と言われたキリストが、聖餐の食卓において、この命を養ってくださるのです。天へと挙げられ、神の右に座しておられるイエス・キリストを見上げる度に、また聖餐の食卓を目にする度に、自分の力、自分の才覚、正しさで自分を生かそうとするところから、主にあって生かされ、養われるところへと、生きる姿勢が変えられるのです。

 

ニコデモとのやり取りに続いて主が言われたのが、先ほど共にお聞きしました言葉です。「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。み子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。自分で自分の生き方の向きを正そうとしても、私たちが頼るのは自分の理想や、地上の誰か、地上の何かという、不完全で不確かなものです。神さまは、私たちを神さまへと、天へと、向けさせてくださいます。そのために、独り子、イエス・キリストを、神さまに背を向けるようなことばかり繰り返してきた世に、与えてくださいました。イエス・キリストの命までも与えて、私たちが私たちを真に救う力の無い地上の何かに自分を任せてしまい、結局罪深さの中で滅んでいく道から救い出し、天へと至る道へと導いてくださいました。それほどまでに神さまは私たちを愛しておられ、救い出すことを願っておられます。私たちが肉体や心の痛みに悩んでいる時、自分が良いと思って為して来たことが他者も自分も痛めつけるものであったことに苦しんでいる時、本当の自分の願いに生きることができずに押しつぶされそうな時、この先の人生に期待できるものなど無いように思えて弱さと疲れの中に沈み込んでゆく時、ご自分に背を向ける私たちに独り子を与えてまでも、私たちとのつながりを確保し、罪の値を代わりに払い、どのような時もみ子が共にいてくださる命に生きる者としてくださっている神さまを仰いで、もはや罪赦されていること、既に祝福の内に入れられていることを、思い起こすことができるのです。

 

 

 使徒信条の結びにおいて毎週私たちは、「罪の赦し、からだのよみがえり、永遠の命を信ず」と述べます。私たちはキリストにあって罪赦され、死で終わらない命に生かされていることを覚えて、感謝をもって、これからも礼拝の度に、世界中の教会と共に言い表していくのです。