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再び来られるキリスト

マラキ31924、フィリピ31721「再び来られるキリスト」(使徒信条)

2023813日(左近深恵子)

 

 これから先のことに、私たちには何かしら願っていることがあると思います。それが実現することに、期待を抱いていると思います。しかしまた、この先に何が起きるのか分からないことが、私たちを不安にさせます。私たちの身に降りかかるかもしれないことへの不安があります。それだけでなく、自分自身への不安もあるのではないでしょうか。何か思わぬ出来事に直面した時に誤った選択をしてしまうかもしれない不安もあれば、今の状態がどこまで保てるのかわからない、自分に起こる変化への不安、願うことに向かってたゆまず進み続けられないかもしれない不安もあるかもしれません。これまでを振り返れば、自分の不確かさ、不完全さにはいくらでも心当たりがあるからです。では一人一人は当てにならなくても、大勢集まれば正しく歩めるのでしょうか。歴史を振り返る機会がいつもよりも多いこの時期、人が皆いつもしっかりと正しい選択をし、為すべきことを為し、自分たちが願うような歩みをしてきたわけではないことを思わされます。戦争によって取り返しのつかない被害を与えてしまい、取り返しのつかない被害を受けてしまった、それから78年の間、私たちは歩むべき道を歩んできたのでしょうか。苦しみが過去のものとならない過酷な日々の中で生涯を終えた方々、今もその苦しみの中にある方々の現実に対して、私たちは考えるべきことを考え、取るべき道を取ることができてきたのでしょうか。

 

 自分自身の中にも、自分も含めた人間の中にも、揺るぎない希望の根拠となるような、確かなものは無いことを思わされます。この私たちに聖書は、私たちの希望の根拠は私たち自身にではなく、神さまにあることを教えます。私たちの希望の揺るぎない土台は、私たちの内にではなく神さまの内にあるのです。

 

 けれど私たちはと言えば、希望を土台として与えられていながら、それを土台にし続けられない不確かさまで抱えています。土台から引き剥がそうとする流れに足元をすくわれ、押し流されてしまう弱い部分を抱える者であります。そのような人間の姿も、聖書は包み隠さず伝えます。たとえば旧約聖書の出エジプト記はイスラエルの民の旅を辿ります。イスラエルの民は、ファラオによって奴隷とされていた地から神さまによって救い出され、自由へと導き出されました。それは、神さまがイスラエルの民の中からモーセを選び立て、モーセを通してファラオに語り、ご自分の力を示すことで為されました。神さまの言葉と力はファラオの持つどのような力にも勝ることを、10もの災いを通して神さまはファラオとその民に示され、とうとうファラオは神の民イスラエルが去ることを認めます。こうしてイスラエルの民はエジプトを後にし、神さまが約束してくださった地を目指します。しかしファラオは奴隷たちを手放すのが惜しくなり、全軍を率いて追いかけます。すると神さまは、当時世界最強のこの国の全軍勢を、葦の海で一晩の内に滅されました。この驚くべきみ業によって完全にファラオのコントロール下から救い出された神の民は、皆で一緒になって歌を歌い、楽器に合わせて踊りを踊って神さまをほめ讃えたのです。そうして再び旅を再開し、荒れ野の中を進み始めて3日後、民は水不足と言う困難に直面します。乾燥した荒れ野で水が足りないのに、モーセはこの問題を解決してくれないとモーセに落胆し、詰り、こんなモーセを自分たちのリーダーとした神さまにまで不満を募らせます。歌を歌い、踊りを踊ってお祝いしたのはたった3日前のことです。エジプトを後にするまでの出来事、葦の海での出来事を通して、モーセや、モーセを遣わしてくださった神さまに対する信頼を堅くしたはずであったのに、人々の心は不安や不満にアッと言う間に呑み込まれました。圧倒的なお力を示してくださり、導き出し、救い出してくださった神さまに助けを祈り求めるよりも、自分たちの内がわで沸き起こり、うねりとなってゆく不安にからめとられ、神さまという土台から引き剥がされてゆきます。神さまの内に希望を見いだすことも、神さまがお立てになったモーセに従って荒れ野を前へと進むことも、できなくなってしまうのです。

 

 自分の中に未来へと進んで行ける揺ぎ無い土台を据えることができず、土台を私たちに与えてくださる神さまに従い続けることにもふらつく私たちです。だから他の人に向かって、この私に倣う者となりなさいなどと言うのはおこがましいことだとそのように思うと、フィリピの信徒への手紙317でこの手紙の書き手であるパウロが、「きょうだいたち、皆一緒に私に倣う者となりなさい」と述べることに困惑してしまいます。その上パウロは、自分たちの生き方に倣っている他の人々の生き方にも目を向けなさいと言うのです。

 

 パウロは、厚かましさからこう述べているのではありません。自分に自信が無くても、自分を模範にして、と言えるのが、キリスト者です。完全な人などいないことを知りながら、他のキリスト者たちの生き方に倣ってと言えるのが、キリスト者です。パウロはコリントの信徒への手紙Ⅰやテサロニケの信徒への手紙Ⅰでも、「私に倣う者となりなさい」と述べています(Ⅰコリント416111、Ⅰテサロニケ16)。「私がキリストに倣う者であるように」と述べてから、「私に倣う者となりなさい」と呼び掛けることもあります。パウロが繰り返し自分に倣うようにと呼びかけるのは、自分が何かを完成してきたことを誇っているからではありません。寧ろこれらの手紙でパウロは、自分が何かを完成したことを誇る考え方や、自分の力で自分を完成させることを求める考え方に、厳しく立ち向かっています。フィリピの信徒への手紙も、そのような考え方と対峙するために書かれたと言えます。誤った教えにフィリピ教会が脅かされていることを知ったパウロが、教会に警告を与えるために綴ったのがこの3章の部分と思われます。18節で「涙ながら」に訴え、1819節で極めて厳しい語調で警告を記すのは、フィリピの教会が、そのような自分自身の完成度を誇る人々の誤った考え方に揺さぶられているからです。揺さぶられ、キリストから離れてしまいそうなフィリピの教会の人々に、自分の完成度を土台にするのではなく、キリストを土台とする道を自分たちと共に行こうと、呼び掛けているのです。 

 

 自己実現や、自己の完成というものを自分の目標とする道には終わりがありません。自分の完成度を誇っても、現在目標地点にかなり近づいていると主張しても、目的地には達していません。逆に自分はまだまだであることに捉われ続けるなら、この先も自分の不完全さが影を落とし続ける日々を歩んでゆくことになります。どちらも自分がしてきたことを土台とする生き方です。自分の可能性が人生を決定づける生き方です。生き方の土台はいつも自分自身です。それは終わりの無い道を一人、力を振り絞って進む歩みです。しかしパウロと共にキリストの後を行く道は、キリストに土台があります。礼拝の度に礼拝において共におられるキリストから土台を示されます。私たちの土台はキリストであることを確認し、新たに歩み始めます。自分の不完全さから目を逸らして完全さを装う必要も、自分の不完全さに支配される必要もありません。キリストの内に土台があるからです。

 

この道は、独りっきりではありません。キリストの後を行きます。そしてキリストによってもたらされている救いを、他のキリスト者たちと共に受け止めながら歩んでゆきます。17節でパウロも、自分や他のキリスト者たちに倣うようにと述べる時、「皆一緒に」と呼び掛けています。

 

キリストに従うこの歩みは、険しい道を行かねばならないこともあります。フィリピの教会の人々を揺さぶっていたような考えは、しぶとく私たちを捉えます。他者を顧みない身勝手さ、今さえ良ければ良いではないかという思い、キリストの十字架など自分に必要ないとする思い、キリストではなく自分の腹を自分の神とする考えは、誰にとっても強い誘引力をもっています。私たちの歩みに絡みつくそのような思いに呑み込まれまいと踏ん張ることができるのは、踏ん張る土台がキリストの内にあるからです。同じ土台を求め、同じように踏ん張っている人々、案じ、祈ってくれる人々がいるからです。そしてこの道にはゴールが約束されています。パウロが310で述べているように、信仰者はキリストを知り、キリストの復活の力を知っています。この道の先には、復活の力の完成というゴールが与えられているのです。

 

私たちに命を与え、存在を与えてくださった神さまは、キリストの十字架によって私たちの罪を赦してくださいました。そして終わりの時に、神さまのこの救いのみ業を完成してくださると、私たちに、キリストに倣う栄光の姿を与えてくださると約束されました。パウロは21節で「私たちの卑しい体」と述べています。私たちには体を持っているからこそどうしても抱える弱さや限界があります。時に身体は、周りの人々のことを軽んじる身勝手さ、自分自身の真の願いさえも顧みることのできない弱さの場となってしまいます。そのような身体も含めた全てで私たちは存在しています。そのような私たちを、その存在も丸ごと救うために、主は自ら肉体を持つ人間としてお生まれになり、肉体を持つからこその苦しみを死に至るまで苦しんで、私どもの罪を贖ってくださいました。だから私たちは、万物を支配下に置くことさえできる神さまのお力と、終わりの日の約束を求めて、存在の全てで真剣に求めることができるのです。

 

この終わりの約束に、私たちの希望の源があります。しばしばうねりとなって現れる、自分の腹を神とする思いにひきずられる生き方ではなく、終わりの時の希望によって神さまが約束されたゴールへと、前へ、前へとけん引されます。私たち自身は不完全な者です。私たちが作って来た歴史も、社会や世界も、到底完全と言えるものではありません。それでも、神さまの約束という目標を目指し、神さまに導かれて進む生き方は、神さまが与えてくださる完全さに既に属しているのです。

 

聖書において終わりの時は、神さまが審判を下される時と言われてきました。マラキ書319以下の箇所でも、終わりの時は主の日と呼ばれ、神さまの裁きが述べられています。神さまの呼びかけに応えようとせず、高慢に自らの腹を神とし、悪を行う者は、わらのように根も枝も残さず燃やされ、滅ぼされる。神さまの呼びかけに応え、神さまの御名を畏れ敬う者たちには義の太陽が昇り、そのような者たちは癒され、牛舎の子牛のように躍り出て跳ね回ると語られます。裁きは、悪が滅ぼされることであります。そしてまた、神さまの栄光の光の中で、私たちの命と存在が本来持つ健やかさが回復されることであります。この約束は、私たちの罪深さ、不完全さ、不確かさを思うと驚きでしかありません。新約聖書は、この約束が最終的にイエス・キリストによって為されることを証します。キリストにおいて、終末は既に始まっていることを、その完成は終わりの時に成し遂げられることを語ります。だからイエス・キリストを通して与えられている神さまの約束を目指し、神さまの約束を希望の土台として生きるキリスト者は、既に神さまの完全さに属しているのです。そのことをフィリピ書320は、「私たちの国籍は天にある」と言い表すのです。

 

私たちにはそれぞれ国籍があります。日本であろうと他の国であろうと、それらは確かに私たちが属する国ですが、私たちの本国は天にあります。地上の国籍がたとえ変わろうとも、私たちは天の本国に属し続けます。いつかそこに帰ってゆく故郷です。その本国から、キリストが終わりの時に来られる、救いを成し遂げてくださいます。天の本国をゴールに望み見ながら、私たちは与えられた時を歩みます。地上の何かを本国としないので、与えられた人生の時間の中で結果が出ることを性急に求める必要がありません。今見えているものが結果の全てではない、今見えているものが私たちの歩みを最終的に決めるものではありません。私たちが努力して取り組むことのすべてに対して、本当に正しい評価を下すことができるのは、終わりの時に来られるキリストです。死もその人を最終的に審くことはできません。人が死を、キリストの審きからの逃れ場とすることはできません。キリストは生きている人も、既に死んだ人も審かれると、聖書は告げてきました。このことを使徒信条は「(我らの主、イエス・キリストは)かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と、言い表します。誰もが罪を抱えており、誰も終わりの時の主の審きを逃れることができません。けれど審判者である主はまた、キリストの十字架を通して私たちに罪の赦しを与えてくださっています。そして、キリストの十字架と復活を通して、終わりの時に罪と悪が完全に滅ぼされるという保証を与えてくださっています。わらのように燃やし尽くされて当然の私たちが、赦しを保証され、天の本国に入る証書を与えられるのです。

 

 

私たちの内には自分の罪が赦される根拠がありません。罪の結果としての滅びから、神さまの栄光の光の中へと移される根拠もありません。天に国籍を持つことのできる根拠もありません。私たち自身にではなく神さまの内に根拠があります。だから私たちは安心して、確信をもって歩むことができます。根拠は不確かな自分にあるのではないから、このキリストに従う道を一緒に行こうとよびかけることができます。私たちの細やかな行いが、万物を支配下に置くことさえできるお力によって、神さまのお働きの中へと加えられ、神さまによって完成されることに希望を与えられるこの道を、1人でも多くの人と共に歩んでゆきたいと、心から願います。