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勝利をのぞみ

イザヤ261213、ヨハネ福音書162533「勝利をのぞみ」(主の祈り)

202364日 左近深恵子

 

 主イエスが弟子たちに日々このように祈りなさいと教えてくださった、私たちが「主の祈り」と呼び習わしている祈りを、順に礼拝で聞いてきました。主ご自身が日々祈られる方でありました。福音書は、主イエスがしばしば寂しい所や山や園など、人々から離れた所で祈りに集中されたことも伝えています。ルカによる福音書では、その祈りはいつも「父よ」と神さまをお呼びすることで始まっていました。今日のヨハネによる福音書の箇所の直ぐ後に主が祈られた祈りでも、主は先ず「父よ」と呼び掛けておられます。今日の箇所は、十字架にお架かりになる前の晩に主が弟子たちと最後の晩餐の席で語られた教えがまとめられている、その最後の部分です。祈りの後、主は弟子たちを伴って園に行かれます。祈るためであったのでしょう。そこでユダの裏切りにより逮捕されます。私たちに罪の赦しを得させ、神さまの子とするために、私たちの罪を代わりに背負って十字架へと歩まれ、十字架上でも「父よ」と呼んで祈り続けられました。その主が弟子たち、私たちに教えてくださった祈りも、「父よ」と始まります。主の地上の歩みを貫く祈りの呼びかけと同じ呼びかけを、私たちにも与えてくださいました。私たちも主イエスに続いて神さまを「父」とお呼びすることができる者としてくださっている、このキリストによって与えられている恵みを祈りの初めに思い起こし、実際に口に出して「父よ」と神さまをお呼びしながらその恵みを噛みしめ、この恵みが与えられるからこそ祈ることのできる一つ一つの祈りを祈るのが、主の祈りです。神さまのみ名のこと、み国のこと、み心のことを祈り、私たちの日毎の糧のこと、罪の赦しのことを祈ってきて、私たちが試みに遭わないように、悪より救い出されるように、父なる神に祈り求めます。最後の頌栄とアーメンを除くと、この祈りが主の祈りの最後の部分となります。

 

 先週のペンテコステ礼拝では、口語訳による主の祈りを捧げました。口語訳ではこの祈りは、「わたしたちを誘惑から導き出して、悪からお救いください」と訳されていました。文語訳で「試み」と訳されている言葉が「誘惑」となっています。元の言葉にはどちらの意味もあります。試みや試練と訳される時、主イエスに従う者であるなら出会うことを避けられない、主に従うために必要な試練のことを思うかもしれません。そのような意味においても使われる言葉ですが、ここでは神さまに従う道から引き離すもの、私たちを悪へと引きこむものを指しています。「誘惑」という言葉がそうであるように、神さまが私たちに願っておられるのとは全く逆の方向に私たちを行かせてしまうものです。私たちの日々は、そのような試みや誘惑に次から次へと見舞われる中、進むものであることを、主イエスは人として歩まれた地上のご生涯の中で身をもって知っておられます。だから日々主の祈りによって「試み、誘惑に遭わないように」と祈ることを教えてくださいました。

 

 私たちには、神さまから引き離そうとする試みに打ち勝って前進したいと願う、強い思いがあります。主は私たちのそのような真っすぐな熱意をご存知でありましょう。けれど主が与えてくださったのは、「試みとの戦いに勝つことができますように」との祈りではなく、「試みに遭わないように」との祈りです。試みに勝ちたいと願う思いがありながら、私たちの実態は、いとも容易く試みによって主から引き離されてしまう、真に弱い者であることも主はご存知です。果敢に戦う時もあるかもしれません。けれど来る日も来る日も、試みと四つに組んで死闘を繰り広げられるわけではありません。いつ終わりが来るのか分からない試練の暗いトンネルの中を這うように進むことに心身ともに疲弊することもあるでしょう。そのような時には、“父なる神よ、どうかこの試みに勝たせてください、どうか無力な私にあなたの力を与えてください”と祈らずにはいられないでしょう。けれど日々の祈りである主の祈りでは、先ず、「試みに遭わないように」と祈って良いのだと主が教えてくださっていることに、深い慰めを与えられます。

 

 それでも、試みに一切遭わないことなど不可能ではないかと、この祈りの言葉に疑問を覚えるかもしれません。「試みに遭わせず」の「遭わせる」と訳される元の言葉は「連れて行く、運んで行く」ことを意味します。“試みに次々見舞われる道を進むのだけれど、その試みの所に連れて行かれないようにしてください”、そのような祈りです。ある主の祈りの訳においては、ここは「私たちを誘惑に陥らないように導」いてください、とされています(フランシスコ会訳)。私たちの理解の助けとなる訳です。またある本は、キリスト者が誘惑に遭うことについて、このような昔の人の言葉を伝えています。「お前は、鳥が頭上を飛び交うのをやめさせることはできない。だが、鳥がお前の頭に巣をかけさせないようにすることは、確実にできる」(ドナルド K.マッキム著『長老教会の問い、長老教会の答え2』)。試みに溢れた世を生きる私たちは、神さまから私たちを引き離そうとする試みが視野に入ることが無いまま歩んでゆけるわけではありません。頭上を飛び交う鳥のように、その存在、その誘惑する力を感じながら一歩、一歩、歩んでいます。自分だけでなく私たちの大切な人々も、試みの中にあって時にとても弱いことも、私たちは知っています。だからこそ神さまに、私たち自身のために、そして私たちが案じている人々のために、“試みが私たちに襲い掛からないようにしてください、試みを私たちから遠ざけてください、私たちが試みの中に陥ってしまわないようにしてください、試みが私たちに留まってしまわないように、私たちが試みのすみかとなってしまわないようにしてください”、そう主の祈りによって日々祈り求めるのです。

 

 それでもふとした時に、私たちは試みを自分に近づけてしまう、試みを自分に留まらせてしまうことがあります。そうして神さまから離れ出て、神さまに背を向けさせる悪の力の中に陥ってしまうことがあります。「試み」の祈りに続いて、「悪から救い出したまえ」との祈りを与えてくださっている主は、私たち自身にも見えていない私たちの弱さも全てを見つめておられます。悪は私たちを神さまから乖離させ、断絶させ、その中に留め置こうとします。神さまに希望を抱くことなど無意味なのだと、それが世の常識なのだと、悪の力こそが人々に対して最も影響力を持ち、人々を動かす現実的な力なのだと、それが当たり前のことなのだと思わせようとします。その闇の中からもお救いくださいと神さまに助けを求めることを、主イエスは最後の祈りとして教えてくださるのです。

 

 主の祈りの後半で、私たち自身のことを祈ってきました。最初に私たちの日毎の糧のこと、そして罪の赦しのことを。日毎の糧も罪の赦しも、私たちに日々無くてはならないものです。その後に続く最後の祈りも無くてはならないもののための祈りです。大人は歩き始めた幼児の周りから危ないものを取り除こうとします。たとえ幼子が転んでも大怪我を負わないような道へと導こうとします。もし子どもがどこかに落ちてしまったら、この子を失ってしまう恐怖に駆られ、慌てて駆けつけて助け出します。このおぼつかない足取りの幼児のように私たちも、私たちの父となってくださった神さまに、今日も私たちから試みを遠ざけてくださいと、悪に陥ってしまったら助け出してくださいと、祈ることができるのです。

 

 ヨハネによる福音書が伝える、主イエスが十字架にお架かりになる前の晩に弟子たちに語られた最後の教えは、決別説教、あるいは告別説教と呼ばれます。主イエスが弟子たちの足を洗われ、ユダに「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と告げ、ユダが食卓を去って行った後から語り始めておられます。これから逮捕され、死んでゆかれることをご存知である主イエスが、弟子たちと過ごす最後の晩に足を洗い、語られるのは、世があなた方を憎む時が来る、その時にあなたがたが倒れてしまわないため、あなたがたを躓かせないため(161)だと告げてこられました。更に今日の箇所で、「あなたがたが私によって平和を得るためである」と言われています(1633)。主の弟子たちに向かって悪の力が立ちはだかり、これが世にとっての当たり前だと迫る時でも、主によって、主の平和を受け止めることができるように語って来られました。

 

 これまでは、これらのことを主は「たとえ」を用いて話して来られました。ここで言われる「たとえ」とは、「ベールで覆われた言葉」を意味します。人にとって無くてはならない大切な事柄であるけれど、ベールで覆われたように弟子たち自身でははっきりと理解することができない言葉でありました。しかしベールの内側にある父なる神についての言葉を、「もはやたとえによらず、はっきり」「知らせる時が来る」と言われます。既に1613で、「真理の霊が来ると、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれる」と告げておられたように、聖霊のお働きによって弟子たちは父なる神がどのような方であるのか、真理をはっきりと知ることができるようになると約束されました。

 

 父なる神を明らかに知ることができるようになると、弟子たちは主イエスがこれから十字架において成し遂げられるみ業によってもたらされる救いの意味を知るようになります。天から降られた主イエスが天へと戻られ、主イエスのお働きが聖霊なる神に引き継がれると、主に従う者たちと神さまとの結びつきは一層神さまの愛によって強められ、結びつきに神さまの愛が溢れます。それほど強固な愛の交わりの中で、弟子たちはキリストの名によって神さまに祈ることができるのだと、告げておられるのです。

 

 「信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るため」(313)に、天から降ってこられた主イエス、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(316)父なる神、このみ子と父なる神の人々に注がれている愛を、弟子たちは最後の晩餐の時にはある程度受け止められるようになっていました。しかし、弟子たちの信仰はなおも中途半端なものであります。「見よ、あなたがたが散らされて、自分の家に帰ってしまい、私を独りきりにする時が来る。いや、既に来ている」と主は言われます。主イエスが逮捕されると、主を見捨てて逃げてしまい、試みに捉えられ、悪に陥り、主イエスに背を向け、散らされてしまう弟子たちの姿を、この時主だけがご存知です。世の力を恐れ、主に従いきれない弟子たちの、主に対する裏切りが露わになる時はそこまで迫っています。弟子たちが主を独りきりにして、家に帰ってしまうとあります。この「家に帰る」とは、ガリラヤの彼らの自宅に帰ることを指しているのではなく、主に出会う前に自分が属していたものに帰ることを指していると考えられます。主イエスに従うことはもはや自分の益にならない、寧ろ主に従うことが自分の命までも危うくしてしまうと恐怖にかられ、それぞれ主にお会いする前の古い自分に帰ってゆき、散り散りになってしまうのです。

 

本当であれば自分の罪の値を自分で負わなければならないのに、悪から自分を救い出すことも、罪に勝つこともできない私たちのため、裁き主であられる神さまが、み子の十字架と復活と昇天によって、そして真理の霊のお働きによって、赦しの道をお与えになります。決別説教を通して主は繰り返し、神さまとご自分の交わりの中に弟子たちが結びつけられること、この関わりに留まることを説いて来られました。主イエスを離れ、試みの巣となってしまい、悪の中へと沈んでいってしまう私たちのために、主イエスが神さまとの結びつきの中に留まり続け、父なる神の御心に従う道を歩み続け、十字架の死においてすら、父なる神に祈り通されました。命を捨てるまで父なる神に従い続けられたのは、弟子たちを、私たちを、見捨てないためであったのです。

 

主イエスがこれまで決別説教を語って来られたのは、弟子たちがご自分によって平和を得るためでありました。1427でも、「私は、平和をあなたがたに残し、私の平和を与える。私はこれを、世が与えるように与えるのでは無い。心を騒がせるな。怯えるな」と言われました。弟子たちが心を騒がせ、怯えてしまうような状況にあって、心騒がせるな、怯えるなと命じることができるのは、主の平和が、その身と命をささげて私たちの罪を負われた主イエスの十字架と復活に根差す、揺ぎ無いものであるからです。

 

主の平和は、預言者の時代から語られてきました。預言者イザヤも、主の与えてくださる平和を語っています。抑圧される苦しみの中にあって、神さまのご意志が地上で為されますようにと、神さまの裁きが行われ、全ての人々が真の「正しさ」を学び、神さまに従う者となるようにと祈ります。この祈りに、神さまが応えてくださることを、確信しています。「真実を守る正しい」神の民に神さまは門を開いてくださり、「志の堅固な者」を、神さまは確かな平安をもって守られると(イザヤ2623)、神の民のためのすべての業を神さまが成し遂げてくださることによって、平和が備えられると、確信を語ります。だから抑圧する者たちの神さまから引き離そうとする力に支配されても、ただあなたのみ名だけを唱えてきたのだと、神さまが平和を授けてくださることに信頼しているから、支配する者たちの名ではなく、神さまのみ名だけを崇めて来たのだと、述べます。

 

世が思う平和とはかけ離れた悲惨な現実があります。悲惨な現実に苦しむ人々のために、アメリカの公民権運動を率いたキング牧師は、説教の中でしばしば、「神の平和はバラ色の人生と同義ではなく、むしろ人間性を抑圧する力と、ガップリ四つに組むこと」だと語ったそうです。神の平和とは、戦いが無いことではなく、戦いの最中に、神の器として生きることなのだと。火に入れられ、精錬され、試されることなど、誰も望みません。誰もが回避したいことであり、この世の常識では回避すべきことであります。けれど、その苦難の中で、主が既に勝っておられることを信じる人は、神の平和を得るのです。

 

 

神さまから引き離す力に主は既に勝っておられることを、聖霊によって思い起こすことができます。痛み、苦しみ、傷の中にあっても、主が共におられることを確信することができる主の平安が、既に与えられています。勝利はどこにあるのかと挫ける時にも、主は、既に勝っておられます。主の勝利の確かさに力づけられ、主の平和の内に行きましょう。