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見捨てることができようか

ホセア11111、Ⅰテモテ11517「見捨てることができようか」

202335日(左近深恵子)

 

 感染症、戦争、紛争、災害に、多くの人の命や生活や尊厳が奪われてきました。解決の道が見えていない状況で、更に戦争や紛争の地域は拡大しています。災害からの復興が途上なまま、新たな災害が起こります。復興とは何であるのか私たちが真摯に向き合いきれていない状況で時間だけが経過し、今週は東日本大震災から12年目を迎えようとしています。

 

 神さまという方は、全ての戦争や紛争や災害を超えた力を持つ方であり、その世界最強の力を注いで苦しみから救ってくださる方だと、もしそのようにだけ神さまを捉えるなら、早くこの全ての問題を解決してくださいと願うでしょう。なぜまだ解決してくださらないのかとの思い、神さまはこの現実の悲惨さから遠く離れたところにおられるのかもしれないとの思いも、消しきれないのではないでしょうか。

 

神さまはそのような捉え方の中に納まりきらない方であることを、聖書は語ります。神さまは契約によって人をご自分につなげてくださいました。聖書に記されている幾つもの契約の中心にあるのは、出エジプトにおいて、シナイの山でモーセを通して与えてくださったシナイ契約と呼ばれるものです。神さまが、イスラエルの民をご自分の民とし、ご自分をイスラエルの民の神としてくださった契約です。人と人との契約のような、対等な者同士の間で結ばれる契約ではありません。神さまがイスラエルを奴隷の地から救い出してくださり、自由の内に生きることのできる新しい人生を回復してくださり、この神さまの救いにイスラエルの民が応えて生きていくことを願い、契約のパートナーとしてくださいました。契約によって神さまとイスラエルのこの関係は厳粛なものであることを公にしてくださり、イスラエルの民が生きていく道標として、律法も与えてくださいました。人は、神さまが遥か高い天から降り注いでくださるかもしれない救いを受け留めようと、あてもなく上を見上げているようなものではありません。神さまは苦難の喘ぐイスラエルの只中にモーセを遣わしてくださ方です。モーセを通して語りかけ、様々なみ業を通して力を示されることで、人として生きることができなかった民を救い出し、神さまが約束されたカナンの地へと導いてくださいました。神さまの救いは、神さまが選び立てた者を通してこの民において実現され、民と神さまとの関係は、神さまが与えてくださった契約によって確かなものとされたのです。

 

カナンの地で暮らし始めたイスラエル民は、やがて周りの国々のように人間の王によって支配される国となることを神に願い、神さまの許しを得て王国となります。その後北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。今日お聞きしましたホセア書は、北王国で紀元前8世紀頃に活動した預言者ホセアを通して神さまが告げられたことが記されています。カナンの地で暮らす内にイスラエルの民は、周辺の民がバアルなどの異教の神々の偶像を礼拝する生活に惹かれ、イスラエルの王も民も、神さまのみ心から離れ出て、偶像崇拝に傾き続けました。また、当時その地域で最大の力を持つのはアッシリア帝国でした。アッシリアはシリア・パレスティナ地域に勢力を拡大し、オリエント世界を統一しようとしていました。北イスラエル王国もアッシリアの脅威に曝され、反抗と従属を繰り返していました。ホセアが活動していた時代も、北イスラエル王国は偶像を崇め、政治的、社会的に国内は混乱し、また謀反によって王が短期間で次々と代わっていました。アッシリアの脅威に対しては、当初、他国と同盟を組んでアッシリアに抗おうとし、その結果、アッシリアの攻撃によって甚大な被害を受け、しばらくアッシリアに従属します。後に別の大国であるエジプトを頼みとしてアッシリアに抗おうとして、アッシリアから更なる攻撃を受け、ついには北イスラエルの都サマリアが包囲され、陥落する、こうして北王国が滅びへと向かって突き進んで行く時代に、ホセアは神さまの言葉を人々に語ったのでした。

 

ホセアは、特に神さまの愛を繰り返し語った預言者であります。今日の11章では、出エジプトのみ業を、親の子に対する愛と述べる神さまの言葉を伝えます。神さまは、ご自分から離れ出て、異教の偶像や大国の力を利用することで自分たちの身を守ろうとしている北王国の民に、神さまに導かれてきたこれまでの歩みを振り返らせます。「まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した」と。 ファラオの下で奴隷とされ、人として生きることができず、軛につながれるように自由を奪われていた民を、神さまは幼子と言われます。一人で立ち上がることも、よちよち歩きさえもまだできず、自分に必要な糧を自分で食べることもできない赤ちゃんです。“独りでは生きていくことも身を守ることも成長することもできない私の幼子を、エジプトから呼び出した”と、それは愛であると言われます。

 

当時世界最強の国の王であり、頑なにイスラエルという奴隷の民を失うことを拒むファラオの手から、無力なイスラエルの民を救い出されることも、荒れ野の旅路を昼は雲の柱をもって、夜は火の柱をもって導き、ファラオの追っ手を葦の海で滅ぼされ、岩からほとばしり出る水と、天からのマナで養ってくださったことも、イスラエルの民にとって当たり前のことではなかったのだと、思い起こさせます。民に与えるものと、民から返ってくるもの、天秤に載せたらバランスなど取れるはずの無い神さまのこのみ業は、親の子に対する愛なのだと、主は言われます。

 

エレミヤ書3120にも、親が子に注ぐ愛に神さまのみ心がなぞらえられています。そこでも、イスラエルはエフライムとも呼ばれ、こう述べられます。「エフライムは私の大事な子ではないのか。あるいは喜びを与えてくれる子どもではないのか。彼のことを語る度に、なおいっそう彼を思い出し、彼のために私のはらわたはもだえ 彼を憐れまずにはいられない」。聖書協会共同訳でお読みしました。新共同訳聖書では、「はらわたはもだえ」という箇所は「胸は高鳴り」と訳されています。はらわたが悶えるような、胸が高鳴るような神さまの熱情によって、幼子イスラエルは神さまから愛されてきた。神さまの愛によって、荒れ野の旅路を守られ、神さまから賜物として与えられたカナンの地に導き入れられたのです。

 

荒れ野の厳しい旅路の間、試練の度に躓き倒れるイスラエルの腕を神さまは支えられました。幼子の身体を支えて歩くことを教えるように、律法によって歩むことを教え、イスラエルを危機にから救い、癒してくださいました。しかしイスラエルの民は自分たちが癒されていたことに気づかず、自分が受けた神さまからのみ業の根底に流れるものが、神さまの愛であることを知ろうとしません。寧ろ、神さまでは無いものに、危機からの救いを求め、癒しを求めます。バアルを代表とする異教の神々を自分の親のように頼り、保護を求め、すがります。神さまは民に綱を付けて無理やりエジプトから引っ張り出し、カナンまで引いてきたわけでありません。恐怖心で従わせてきたのでもありません。「人間の綱、愛の絆」で導かれたと言われます。親が子に注ぐような、親密で、時にはらわたが悶えるような、時に胸が高鳴るような熱情で、神さまは人をご自分に結び付け、導き、癒し、養ってこられました。それなのに信仰の危機、国の危機に直面したイスラエルは、神さまに立ち返ろうとせず、エジプトと手を組むことでうまく立ち回ろうとし、アッシリアに従属することで身を守ろうとします。神さまの子とされたのに、親でも無いエジプトやアッシリアの力に頼り、その結果、エジプトの地に帰ることもできず、アッシリアに支配され、滅びて行く民を神さまは見つめておられます。大国の力と自分たちの才覚を自分たちの主としてしまった彼らの罪の故に、剣は町々で荒れ狂い、人々の耳に心地よい偽りの言葉を語る者たちは断たれ、人間的な企ては滅ぼされます。神さまから受けたものを忘れ、神さまの愛に背を向け、神さまではないものを呼び、神さまの言葉に首を縦に振ろうとしない頑ななこの民が、たとえ天に向かって叫んでも、その叫びは神さまのもとに届かないと告げられます。彼らの側に神さまからの助けを望めるものは、決して何も無いと、断言されます。

 

そう断言されながら、その直ぐ後で神さまは嘆かれます。「ああ、エフライムよ」とイスラエルに呼び掛けます。これまで、「イスラエルは」「彼らは」と、イスラエルについて語っておられた神さまですが、8節からは「ああ、エフライムよ」と、イスラエルに向かって直接語られます。「お前を見捨てることができようか」、聖書協会共同訳では「どうしてあなたを引き渡すことができようか」と言われます。「お前を引き渡すことができようか」、聖書協会共同訳では「どうしてあなたを明け渡すことができようか」。我が子イスラエルを諦めることなどできないと、嘆かれます。ここに登場するアドマ、ツェボイムとは、ソドムとゴモラと共に滅びた町の名です。申命記で、この四つの町についてこう述べられています。「彼らの先祖の神、主がエジプトの国から彼らを導き出された時結ばれた契約を、彼らが捨て、他の神々のもとに行って仕え、彼らの知らなかった、分け与えられたこともない神々にひれ伏したから」、「主が激しく怒って覆され」、その全土は「硫黄と塩で焼けただれ、種は蒔かれず、芽は出ず、草一本生え」ない(申命記292225)。それらの町も、イスラエルの民も、罪は明らかであります。しかしそれらの町のように、民の罪の故に、見捨てることがどうしてもできないと、なぜなら神さまの心が激しく動かされ、揺さぶられ、憐れみに胸を焼かれ、憐れみで胸が熱くなるからだと言われます。民は神さまに背を向け、神は救ってくれないではないか、そう不平を呟いている、その同じ時、硫黄と塩で焼き尽くしてもおかしくないその民の背き、罪に対する怒りで、神さまの胸が焼かれています。どうして我が子を見捨てることができようかと、心を激しく揺さぶられています。その神さまのみ心を知ろうともせず、人は、神には救う力など無いのではないかと、神など無くても生きていけると、偶像化した何かにすがってしまうのです。

 

人は、罪に対して相応しい裁きを下すことが当然であると、契約に反する罪を犯したなら、その裁きを受け、契約は無効にすべきだと考えるでしょう。しかし神さまは、「もはや怒りに燃えることなく エフライムを再び滅ぼすことはしない」と言われます。怒りで終わりにしないと、罪を犯した者を滅ぼすことで終わらせないと言われます。私たちの思う公正さから見ればあり得ないはずのこの決定の理由を神さまは、「わたしは神であり、人間ではない」からと、「お前たちのうちにあって聖なる者。怒りをもって臨みはしない」からと言われます。胸を焼く怒りを超えて、憐れみを貫いてくださるのは、神さまが神さまであって人間ではないから、その神さまが人間の中に降られ、人間の内にあって、人間の罪の只中にあって、神さまの聖さを貫き、人間を罪から救われるのです。

 

この熱情によって、神さまは独り子イエス・キリストを世に与えてくださいました。どうして見捨てることができようかと、罪人を嘆かれる神さまの憐れみは、主イエスの十字架において最も明らかです。罪に胸を焼かれる神さまの怒りは、あろうことか神のみ子が私たちの代わりに、余すところなく受けてくださいました。「怒りをもって臨みはしない」と言われた主なる神の裁きは、罪人である私たちではなく、み子に下され、み子の十字架の死によって、罪に捉われている私たちを救ってくださいました。「『キリスト・イエスは、罪びとを救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」とパウロがⅠテモテで述べている通りです。父なる神と共におられた神のみ子が、私たちを救うために私たちの只中に宿り、罪びとの中をご自分の住まいと定められ、ご自分の命を捧げることで、罪に断ち切られない永遠の命に生きる者としてくださったのです。

 

今を生きることに必死で、神さまからいただいてきたものを忘れがちな私たちは、私たちが望む救いが形になっていないことに向けるほどの熱量を、私たちが既にいただいている恵みに向けていないのかもしれません。私たちがいただいている恵みを、当たり前のように思ってしまう時もあるかもしれません。私たちのために、この私のために、どれだけの人が祈り、言葉を掛け、行動してくれたことかと思います。私たちが気づいていないところで、どれだけの人が、見捨てず、諦めず、たゆまぬ祈りと思いと時間と労力を捧げてくださったことかと思います。そしてその一つ一つの思いと業を後押ししてくださってきた神さまを思います。荒れ野で不平ばかりを口から吐き、神さまに対してしばしば頑なになる民に、神さまが示された忍耐、寛容さは、私たちにも注がれてきたのです。奴隷の地で親を失った幼子のようであった民をご自分の子としてくださり、繋がれていたところから解き放ち、名前を呼んで呼び出し、屈んで食べ物を与え、養い、導いてくださった神さまは、私たちの名も一人一人呼んで導き出し、神の子としてくださり、神のみ子イエス・キリストの弟、妹としてくださっています。

 

教会で私たちは人と人とのつながりを持っています。それは、神の子とされた者同士のつながりです。親となり、子としてくださった神さまの憐れみと、キリストが示してくださった限りない忍耐と寛容によって結び付けられている者同士のつながりです。教会に居ても、罪の力は絶えず私たちに影を落としています。神さまに従う歩みの現状に不平をこぼし、神さまではないものに助けを求めてしまうことから抜け出せない私たちであるかもしれません。歩みがおぼつかない幼子のような私たちは、互いの言動に躓き、キリストに従う歩みの途上で躓くことが避けられないのかもしれません。キリストの12弟子も皆、主イエスが十字架上で死なれることに躓き、主を裏切り、主を見捨てて逃げてしまいました。それでも彼らはやがて復活の主と聖霊に導かれ、最初の教会の核となっていきました。私たちの歩みにも、神の子らとしてのつながり、神さまとの親子のつながりを映し出すものが必ずあるはずです。永遠の命を得ようと、神さまの救いを得ようとしている人々に、神さまとのつながりを証しするために、神さまは先んじて私たちを子としてくださっているからです。

 

 

国が滅びに向かい、自分たちイスラエルの民が捕囚や離散の憂き目にあう時代にあって、ホセアは1110以降で、その危機の向こう側に、神さまが与えてくださる未来を望み見ています。神の民が、主の呼び声にお応えして海のかなたから、エジプトから、アッシリアから、鳥のように主の元に戻ってきて、主が与えてくださるおのおのの家に住まう幻を見ています。私たちの日々も、やがて終わりの時にキリストが私たちを神さまのもとへと迎えてくださるその幸いに向かう途上にあります。振り返って、ただキリストによる罪の赦しと神さまの憐れみによって救い出されていることを感謝し、神さまが完成してくださる救いの完成を望み見つつ、今日の私たちの姿が神さまの恵みを証しするものとなることを願います。