2022.12.25.クリスマス礼拝
イザヤ9:1-5、ヨハネ1:9-13
「闇の中を歩む民にこそ」浅原一泰
闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭をあなたはミディアンの日のように折ってくださった。地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。独りのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。
その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってでもなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。
一昨日のアメリカABCであったかイギリスBBCであったか、ウクライナ正教会の一派が今年のクリスマスを従来の1月7日から12月25日に変更することを認めた、というニュースが報じられた。ロシア正教が用いているユリウス暦によれば1月7日がクリスマスにあたり、その日に祝うことが正教会の伝統となっている。ウクライナもそれに倣ってきたが、ロシアとの関係が悪化する中で次第に疑問視されるようになり、特に侵攻が始まった今年は、グレゴリオ暦に沿って12月25日をクリスマスとするヨーロッパと歩調を合わせることを認めた、ということらしい。ツリーに飾るオーナメントには、沈没するロシアの軍艦が描かれたものも売られていると聞く。ウクライナの教会では連日のように、戦争で夫を失い、息子を失い、孫を失った女性たちが司祭に祈ってもらうために列をなしているという報道も流された。遺族にとって、ロシアと同じクリスマスを祝いたくない、という気持ちは分かるような気がする。しかしながら、そのようなクリスマスは、先ほどの聖書が伝えていた「世に来てすべての者を照らす真の光」からは遠くかけ離れてしまっている。そうではないだろうか。
500年以上昔の話であるが、修道士ルターがヴィッテンベルクの城壁に95カ条の提題を掲げたあの宗教改革の四年前、ドイツ人アルブレヒト・デュラーによって作られた「騎士と死と悪魔」(1513)という銅版画がある。山の中を、甲冑に身を固め完全武装した一人の騎士が馬に乗って進んでいる。道幅が狭くなり、険しくなったところで騎士の後方には、豚の顔をした悪魔がつきまとい、やや前方には、やはり馬に乗って並んで進んでいく死神の姿がそこに描かれている。辺りの草は枯れ、樹木が根こそぎ倒れかかっているような殺伐とした風景はこの世を表しているらしく、そこには命の気配が感じられない。そこで死神は左手に砂時計を握っており、「お前の人生もあともうわずかだ」と言わんばかりの表情で騎士を見つめている。しかし騎士は表情を強張らせることなく、微笑みを受かべながら前へと進んでいる。遠く遥か彼方には、雲一つない青空に包まれた丘の上にそびえる神殿のような建物が見える。神の国を表しているのかもしれない。ルターその人を描いているのではないかとも言われたこの騎士の武装と武器は、敵を攻撃するためではなく悪魔を排除するための神の言葉であり祈りであると解釈され、以来、キリスト者はこうあるべき、と唱えられ、多くのキリスト者が我こそは、と完全なる武具を身に着けようと切磋琢磨したらしい。しかし、神の国に辿り着けるのは万全の武装を整えた者だけだと言うのなら、そこにも「世に来て全ての者を照らすまことの光」が輝いていることにはならない。むしろそこに漂うのは、自分だけは独別だと誇りたい欲ではなかっただろうか。
この作品が描くように、アダムとエバが神に背いて以来、確かに死神と「罪と言う名の悪魔」は常に人間に付きまとうものであることは否定できない。今年2月にウクライナ侵攻が始まった直後、首都キーウ近郊のブチャという町でロシア軍による大量虐殺が行われたと報じられた。犠牲者は軍服を着たウクライナ兵ではなく、子供たちを含めた400人を越える民間人であった。それ以外にも、ウクライナ、ロシア双方において敵の爆撃によって多くの市民、軍人の命が失われた。勢いが弱まったとは言え、コロナによる死者も依然として増え続けている。近頃、やけに著名人が亡くなるニュースが耳に入って来るが、この中にも愛する家族を失った方もおられよう。既に愛する者を天に送って久しい方はもっと沢山おられよう。
命が死に呑み込まれる現実に対して人間は無力である。ブチャの市民初め、コロナなどの病や事故で命を落とした一人一人に対して、たまたま生き残ったに過ぎない人間はすべて、気の毒にと悲しげな表情を浮かべることしかできない。キリスト者は祈ることが出来るが、その祈りも人の命を死から逃れさせることは出来ない。それは11年前の3月、あの東日本大震災直後に痛感させられたことでもあった。あの人たちも死神の手に落ちてしまったのか。ではこんな暗い時代なのだから、せめて生き残った私たちだけでもあの人たちの分まで盛大にクリスマスを祝おう、というのなら、それは欲ではないだろうか。ロシアとは決別し、ヨーロッパの一員であることを示そうとしてウクライナが12月25日にクリスマスを祝おうというのなら、また、派手に着飾って騒ぎ立てる世間のクリスマスとは一線を画して、せめて我々教会だけは本物の、神のクリスマスを喜び祝おう、はやりの歌なんかには耳を貸さず、厳かに讃美歌を歌ってクリスマスの喜びを嚙み締めよう、というのなら、そこにもまた欲が絡んではいないだろうか。いずれにせよそれらは皆、すべての人を照らす真の光が世に来たことを告げるクリスマスではなくなってしまっている。人類が、というよりも、むしろ我々クリスチャンが、食べれば神になれる、こうすれば神に喜ばれる、という囁きに唆され、欲に流されてクリスマスをそのように捻じ曲げてきたのかもしれない。ただ、先ほどの聖書はそのことも見抜いていた。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。それは、言は自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかったからだ、と告げていた。これが書かれた当時はこの民はユダヤ人を指していたであろうが、今は我々クリスチャンを指しているのではないだろうか。しかし聖書は別の個所で、(ロマ書11章)こうも語っている。「神は全ての人を不信仰(不従順)の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」と(ローマ11:32)。
ツリーを飾り、クランツに火を点し、讃美歌を歌ってクリスマス気分に浸ろうとしてもどうしてもそこには人間の欲がからんでいるのであれば、また、憐れむために神が我らをそのような不信仰に閉じ込められたと言われてもピンと来ないのであれば、先に名を呼ばれた我々キリスト者がクリスマスの朝に思い知らされるべきは、「自分には何と信仰がないのか」ということ、この一点に尽きるのではないだろうか。忍び寄る死の恐怖の前に、押し迫る不安や思い煩いを前に、いくら祈っても賛美の声を挙げても、自分で信仰を増し加えることなど誰にも出来ない。出来るのは、「どうしてそんなことがあり得ましょうか」とマリアのように神を疑うことくらいであろう。しかしながら、だからこそ神は動かれる。御子イエスを動かされる。死んで墓に葬られたラザロに同情することしか出来ず、死の支配に打ちひしがれるしかないマルタやマリア、そして民を見てイエスは激しく興奮し、涙を流されたように。石を取り除けさせ、ラザロよ、出て来なさい、と叫ばれ、死んでいたラザロを生き返らせてその場にいた者すべてを悔い改めさせたように、言を受け入れることが出来ない我々に向かって、闇の中を歩む民に向かって神が動かれる。その神の業を聖書はこのように告げている。
「しかし、言は自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってでもなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである」、と。そのことを実現させるために「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」、神が人となられたのだと。
神になろうとまで思い上がる人間を悔い改めさせ、生まれ変わらせるために、神が人の姿形をとってまでして全ての者の助け手となり、あなたの助け手となるのだと。この方は決して自分で自分を守ろうとしない。むしろ飼い葉桶に眠るみどりごの姿で、甲冑などで身を守ることなく、弱さを曝け出す無防備な姿で現れた。ひたすら神のみを信頼し、神に全てを委ね切っているからこそこの方は三度に亘る悪魔の誘惑を跳ね除け、保身に走らず、憎しみ、嘲り、侮蔑、友からの裏切りや迫害の苦しみ全てを逃げずに受け止め、ゲッセマネでは「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」と叫びつつ、まだ死にたくない、という人間のどん底の弱さをも味わい抜いた上で「御心がなりますように」と祈り、最後には死の苦しみをも受け止められるその時、この方は「成し遂げられた」(19:30)と言われた。それでも終わらせることの出来ない命があり、消すことの出来ない光があることを身をもって示すこと。それが父なる神から託された使命であり、そのためにこの方は世に来られたからではなかっただろうか。
80年前のアウシュビッツの囚人の中にユダヤ人の医師たちのグループがあった。労働力として仕えない囚人を一人でも多くガス室に送るために、ろくな食事も与えられず劣悪な状況で酷使され、健康を害して倒れ、明日にもガス室に送られるしかない病人をその人たちは懸命に支え、助けるために最善を尽くした。この医師たちによって何人もの囚人がガス室に送られずに済んだと言う。しかし次第に彼ら自身の健康が犯され、体力は衰え、死の眠りに就く時が訪れる。この医師たちにも、あの死神は砂時計を片手に囁いていたに違いない。しかしその時の様子を、生き残った一人の医師がこう証言している。「この医師たちは誠実に苦しむ術を知っていた。彼らにナチスを恨む言葉は一切なかった。彼らの眼差しは希望に溢れていた。ナチスの兵士も人間の良心を破滅させる悪の犠牲者なのだと。だから私は彼らを赦そうと」。その時、紛れもなくそこに、世に来てすべての者を照らす真の光が輝いてはいなかっただろうか。収容所の闇の中で、この医師たちに欲など一切なかっただろう。彼らの肉の命は死に呑み込まれた。しかし彼らの内に輝く真の光は、死をもってしても終わらせることの出来ないキリストの命は、紛れもなく輝いていた、今もなお輝き続けているのではないだろうか。それこそが、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。彼らの負う軛、肩を打つ杖、虐げる者の鞭をあなたはミディアンの日のように折ってくださった。地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく火に投げ込まれ、焼き尽くされた。独りのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」、とイザヤが告げていたあの光に他ならなかったのではないだろうか。その時の彼らにおいて、真のクリスマスが訪れてはいなかっただろうか。
死を恐れ、自分で自分を守ろうとする限り、人はこの光を知ることも気づくことも出来ない。そうであれば誰もがそうであろう。私もそうであるし、皆さんだってそうであろう。それはあなたがたが、闇の中を歩んでいるからだ、と聖書は語り掛けて来る。しかしながら、闇の中を歩むことしかできない民のためにこそ、この方は生まれ給う。そのような者たちをこそ闇が消すことの出来ない光で照らし、死をもってしても終わらせることの出来ない命を分け与え給う。そのことに気づかせて下さる神の業こそがクリスマスである。初めに紹介したデュラーの銅版画に出て来る騎士、死神に嘲笑われ、悪魔に唆されながら闇の中を歩み続けるあの騎士の姿は確かに我々自身である。その騎士を守り、神の国へと辿り着かせるために着せられていたあの甲冑こそが御子キリストである。キリストを着せられていることをあなたに気づかせる神の業、あなたを神によって生まれさせる業こそがクリスマスである。それは、「どうしてそんなことがあり得ましょうか」と疑わせた上で「お言葉通り、この身になりますように」とマリアに言わしめ、更に彼女から「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き下ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返される」と歌わせた神の業である。それはあなたを、あなたをも含め勝利者も敗北者も、強き者も弱き者も、生きている者も死に呑み込まれた者も、墓に眠っていたラザロをも誰一人として欠けることなく、唯一の永遠なる真のクリスマスへと招くための神の業である。永遠なるクリスマスとはどのようなものか。その光景を黙示録はこう描いた。「わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取って下さる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』」と。
その光景は目には見えない。しかし神によって生まれたあの収容所の医師たちは信じて待ち望む者とされた。疑うことしかできなかったマリアも「お言葉通り、この身になりますように」と生まれ変わらされた。そこに神の業なるクリスマスが訪れていた。神によって生まれさせるため、永遠のクリスマスへと招くために今皆さんを、私をもこの場に召し集められた神の御名を共に心から褒めたたえたい。