マタイ1:18~25「その名はインマヌエル」
2022年12月11日(アドヴェントⅢ、左近深恵子)
ヨセフは、婚約者のマリアと共にこれから人生の新しい章を紡いでゆくのだと、マリアと暮らす日を心待ちにしていたことでしょう。子どもに恵まれることを願う思いもあったでしょう。家族が夫婦二人から三人となり、もしかしたら四人、五人となっていくかもしれないと、心躍らせながら二人の暮らしに備えていたヨセフは、思いもよらない知らせを受けます。マリアが聖霊のお力によって子を宿しているというのです。ヨセフがその知らせを誰からどのように聞いたのか、聖書に記されていませんが、直接マリアから聞くことができたのではないでしょうか。ヨセフはどんなに大きな衝撃を受けたことかと思います。
「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります(18節)。ヨセフに先立って、マリアにはそのことが明らかになりました。天使を通して神さまがマリアにそう告げてくださったからです。告げられた言葉を聞くことにマリアは格闘しました。考え込み、答えを求め、そうしてとうとう「お言葉通り、この身になりますように」と、自分の身に主の言葉が出来事となることを受け容れるに至りました。その上、天使が「神にできないことは何一つない」と語るそのお力で、自分に先立って神さまから子を宿らせていただいているエリサベトが、エリサベトの胎内のヨハネと共に、神さまの子を宿しているマリアを祝福してくれました。日が経つにつれて、マリア自身も自分の体に日々起きていく変化を通して、自分の胎で命が育まれていることを感じることができるようになったでしょう。神さまの言葉と、人の思いと力を超えた神さまのみ業の内に、自分より先に胎児と共に生き始めた仲間と、自分の肉体そのものによって、マリアには神さまのご意志が自分において出来事となっていることが明らかになっていました。
けれどヨセフにはそこまで明らかではありませんでした。妊娠も、その妊娠がどのようにして起きたのかも、ヨセフは何も実感を通して知ることができません。聖霊によって身ごもっていると聞いた、そのことが真実であるのかどうか、確かめようがありません。神さまがそのご計画によってマリアに為されていることなのだと、受け止められずにいます。ダビデ家の血筋に生まれたヨセフですから、ダビデ家にいつか救い主がお生まれになるという預言は知っていたことでしょう。ダビデ家に連なる人々はおそらく、自分たちの血筋の先にもたらされるというその預言を、誇りをもって世代から世代へと、語り継いできたのではないでしょうか。ダビデ家の人々やそのほかの人々は、預言の実現をどのように思い描いていたのでしょう。今はローマ帝国に支配されているけれど、いつか再び自分たち自身の王を持つことができるようになると、ダビデの血筋を受け継ぐ王朝が再興し、ダビデのような王が生まれると、その王は、王を生み出すにふさわしい家庭に、王の誕生にふさわしい状況でお生まれになると、そう希望を持っていたのではないでしょうか。しかしまた、人々は心のどこかでこの預言は本当に実現するのだろうか、もはや実現は難しいのではないか、新たなダビデ王は望めないのではないかと、神さまの言葉に全幅の信頼を置いていないところもあったかもしれません。神さまの約束に信頼しきれない人々の事例は、聖書の中で枚挙にいとまがないからです。私たち自身も振り返れば、神さまの約束に立ち続けられない者であることに気づかされるからです。
ヨセフも、マリアについて聞いたことを神さまの約束と結びつけることができません。あまりに思いもよらない知らせに衝撃を受けたからでしょうか、聖霊によって身ごもっているということに耳を傾けられないヨセフにとって、マリアに起きていることはひたすら、“あってはならないこと”でありました。妊娠が裏切りによるのか暴力によるのか分からないけれど、いずれにしてもヨセフには人間の罪の結果に見えていたのでしょう。思い描いていた未来は砕け散り、マリアに対する信頼が根底から揺らぎ、失望感、怒り、虚しさがこみ上げていたとしても不思議ではありません。当時の慣習では、まだ一緒に暮らしていない婚約の時点から、二人は法的には夫婦でありました。法的にマリアはヨセフの妻であり、妻としての責任を負っている、そのマリアが夫ではない者の子を宿しているということは、姦淫の罪を犯したということになり得ます。姦淫が公になれば、律法によって裁かれ、石打の刑によって処刑されることもあり得る重大な罪です。迂闊に誰かに相談するわけにもいかない状況で、失望感、怒り、虚しさが逆巻く混沌とした淵の底へと、ヨセフは独り沈み込んでいったのではないでしょうか。
ヨセフ自身のことを、ダビデ家の血筋の者であると言うこと以外、聖書は僅かしか述べていません。この箇所で述べられているのは「正しい人であった」ということです。正しい人であったので、不信感も疑問も何もかも独りで呑み込んで、マリアと予定通り夫婦として生活していく道は、ヨセフにはもはやありませんでした。マリアが公に裁かれ、処刑されるようなことにならないように、「ひそかに縁を切ろうと決心し」たところにも、ヨセフの正しさがあります。マリアを姦淫の罪を犯してしまった妻とするのではなく、夫に離縁された者として解き放つことが、ヨセフの正しさを貫けるぎりぎりの選択でした。妻をひどい仕方で離縁したという評価が自分に降りかかったとしても、自分の心とこの先の人生を守り、マリアと子どもの命を守る道はこれしかないと、マリアと子どもとは別の人生を生きていくことを選び取ろうとしていました。
そのヨセフに夢の中で主の使いは、「ダビデの子ヨセフ」と呼び掛けます。ヨセフに、救い主誕生のみ業を担う血筋の者であることを思い起こさせ、世代を超えてこの民を導いてこられた神さまとの結びつきの中へと、神さまがかつて告げてくださった約束の中へと、呼び戻します。
主の使いは「恐れず妻マリアを迎え入れなさい」と告げます。思い悩んだ末にヨセフが、マリアと別の道を進もうとしているのは、恐れているからであると主はご存知です。マリアに起きたこと、マリアと家族になれば自分がこの先も抱え続けなければならない内側で逆巻いている思い、不信感が消えないこの家族のこの先へのヨセフの恐れを、主はご存知です。その恐れから解放されたいヨセフが、自分の正しさによって導き出した結論が離縁であることを、ヨセフは闇の中で自分自身の正しさにすがって何とか自分とマリアを救おうとしていることを、主はご存知でした。
ヨセフは正しくあろうともがいてきましたが、それは神さまの言葉、神さまのみ業から離れたところでの苦闘でありました。混沌の底で足掻き、どの道を進めばよいのかよく分からないまま、自分の正しさと言う自分の力を足掛かりに這い上がろうとしていました。そのヨセフの恐れも足掻きも知っておられ、見つめてこられた神さまが、ヨセフの名を呼んで呼びかけくださいました。恐怖心を抱えながら独り手探りで道を求めるヨセフを、神さまのご計画の中へと、歴史を貫く救いのみ業の中へと招いてくださいました。イスラエルの民をご自分の民とし、民の神となってこられた神さまとの結びつきの中へと立ち返るようにと。自分の他頼るものが無いと自分の正しさにすがるしかないところから、主なる神に従うところへと、神さまが共におられ、そして既にその道を歩み始めたマリアも共にいるところへと、ヨセフを呼び寄せます。この道を照らすのは神さまのみ言葉です。恐れずみ言葉に耳を傾け、マリアの胎の子は聖霊によって宿ったと知らせるみ言葉に信頼し、マリアを迎え入れ、マリアと共に、み業の中を生きて行きなさいと告げます。
神さまがヨセフとマリアにみ子を託してくださいました。ヨセフには、その名前を付ける役割を与えてくださいます。しかし名前は何でも良いのではありません。ヨセフが名前を好き勝手に決められるのではありません。お生まれになる子の名前は神さまから与えられます。暗闇の底から独りで、自力で脱出口を見つけようとしていたヨセフに、神さまはヨセフの人生に神さまのみ業を受け入れ、み言葉に従う道を示されました。神さまはヨセフに、心から信頼することのできる伴侶を与えてくださいました。神さまはヨセフとマリアをお生まれになる子どもの親としてくださいました。二人がこれから共に築き、お生まれになる子どもを二人で守り、育てていくこの家庭の主は、ヨセフでもなければマリアでもなく、神さまです。お生まれになる子どもの名前も、神さまから与えられるのです。
神さまが告げられたお名前は、「イエス」です。ユダヤの民にとってごくありふれたこの名前が、神のみ子のお名前です。平凡な名前ですが、神の民にとっては大切な名前です。「イエス」という名は旧約聖書に登場するヨシュアという名前に遡ります。主は救い、主が救うという意味を持ちます。ではどこから救うのでしょう。主の使いは、ご自分の民を罪から救うと言います。ご自分の民を罪から救う方であるから、お生まれになる方の名前はイエスなのだと告げます。
ヨセフは正しい人でありましたが、ヨセフが内から必死に絞り出す正しさだけでは、真に進むべき道を見いだすことも、罪の中から這い上がることもできません。ヨセフの正しさでは、自分で自分を本当に救うことも、マリアを救うこともできません。常に影を落とす恐れに打ち勝つ根拠も得られません。
神さまが、混沌の淵の底からヨセフを救い出してくださいました。神さまに従う日々も、先ははっきりとは見えません。それでも神さまのみ業が自分の人生を通して推し進められることを望み、神さまに従うヨセフには、恐れに優る平安があります。だからヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じた通りマリアを妻として迎え入れます。ご自分の民を罪から救うためにマリアに子を宿らせてくださった神さまによって、先ずヨセフ自身が、罪の闇の底から引き上げられたのです。
マタイによる福音書は、主イエスの系図から始まっています。主イエスがヨセフの婚約者マリアからお生まれになるまで、神さまはどのような歴史を貫いて人々を導いてこられたのか、示されています。立派な家系であることを誇るためではありません。系図に記された名前を追っていくと、人はどんなに神さまに従いきれない、罪深い歩みをしてきたのか、気づかされます。その罪人の歴史の末端にヨセフがいます。この人間の罪深さを思わずにはいられない系図に、主イエスが連なってくださいます。ヨセフを、マリアを、すべてのご自分の民を、罪から救うために、一人の人間として世に降られ、この系図に連なる家族の子どもとしてお生まれになり、人としての生涯を始めてくださったのです。
主イエスは、罪深い民をご自分の民とされ、その一人一人を罪から救ってくださる、ダビデに勝る王であります。主の使いはみ子の名前を告げるだけでなく、お生まれになる方がどのような方であるのか、イザヤの預言を思い起こさせます。主イエスは「インマヌエル」と呼ばれる方であります。神であり、救い主であり、私たちと同じ人間となられ、地上を歩まれた主イエスによって、「神は、我らと共におられる」ことを、私たちは知ることができます。「我ら」とは罪人としての私たち、気づけば神さまから離れ出てしまい、神さまに背いてしまう私たちです。そのような私たちを罪から救い出すために、神さまはみ子をマリアに宿らせてくださり、ヨセフをみ子の父親としてくださったのです。
キリストは聖霊において今も私たちと共におられます。イエス・キリストのお名前は、救い主が私たちと共におられ、私たちを教会とし、私たちをご自分の身体の手足としてくださっていることを示します。だから私たちは主イエスのお名前によって、神さまに祈ることができます。だから教会は主イエスのお名前によって説教者を立て、み言葉を説き明かし、主イエスのお名前によって主がご自分の民の一人としておられる人に洗礼を授け、主イエスのお名前によって祝福の言葉を告げて、礼拝からそれぞれの生活へと、主と共に歩む日々へと遣わします。「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」(使徒4:12)とペトロが述べたとおりです。かつては主イエスの言葉に信頼しきれず、十字架に架けられる主イエスを見捨て、三度も主イエスとの関わりを否定したペトロが、大祭司からあらゆるユダヤの民の指導者たちまで、大勢が居合わせる議会の真ん中で、人々の罪によって十字架にお架かりになり、死者の中から復活されたイエス・キリスト以外には救いは無いと宣言するまでになったのは、主イエスが共におられることに信頼しているからです。
神さまにいつも共に居て欲しい、一人では無い安心感を持ちたいと私たちは浅いところで願いを抱きつつ、その下には自分が自分の人生の主で居続けたい思い、それを妨げるものを恐れ、妨げるものは神さまであろうと何であろうと、自分の人生から退けようとあがく思いが逆巻いています。神さまに共にいていただきたい、けれど自分の深いところまで関わられることは避けたい、そのような私たちの内なる思いも神さまは見つめ、私たちの名前を呼んでご自分の元へと招きいてくださいます。私たちが神さまの約束を信頼しきれない時も、神さまは約束に誠実にあられ、ダビデの血筋にイエス・キリストを与えてくださいました。恐れに覆われ、思い悩みに捕らわれている私たちです。隣人との関りを互いへの信頼を土台に築き上げることができず、先が見えないこと、理解できないことを恐れるばかりの私たちです。み言葉に心の底から耳を傾け、恐れと思い煩いの眠りから起き上がり、み言葉が照らし出す道を、先が分からなくとも、理解し難くとも、共におられる主が平安と祝福で主が満たしてくださるその道を、互いに祈り合い、支え合いつつ歩んでまいりましょう。