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主が選ばれた王

サムエル上102027「主が選ばれた王」

2022109日(左近深恵子)

 

このところ旧約聖書から、カナンの地に定住したイスラエルの民を士師という指導者たちが治めた時代の出来事を聞いてきました。士師たちの中には勇者と呼ばれたギデオン、怪力を神さまから与えられたサムソンなどがいました。先週は、幼い時のサムエルの箇所を聞きました。神さまに子どもを与えてくださいと祈り、もし与えてくださるならその生涯を神さまに捧げますと約束した母ハンナは、その言葉通り、神さまによって与えられたサムエルを、乳離れすると神殿の祭司エリに託し、サムエルは幼くしてエリの元で祭司の働きを学び始めました。そのサムエルに神さまが呼び掛けられました。それは、祭司エリの息子たちの罪とその息子たちを咎めなかったエリの罪のゆえに、エリが民を率いる時代に終わりが来ることを告げるものでした。その後、成長したサムエルが士師としてイスラエルの民全体を治めるようになり、主がみ言葉をもってサムエルにご自身を示され、サムエルの言葉は一つ足りとも地に落ちることはなかったと、その士師として、預言者としての働きが人々に喜ばれたことが伝えられています。しかしサムエルは、イスラエルの歴史が士師の時代から王政の時代へと転換していく、その時代のうねりの中を生きることになります。

 

士師と言う働きは、カナンの地で暮らすようになったイスラエルの民が、危機的な状況に陥って、救いが必要な時に神さまが立ててくださる指導者でした。士師たちは、民が陥っている危機によってその働きが大きく二つに分かれます。争いごとを調停することを主に担った士師たちと、敵が攻めてきたときに軍事的な指導をした士師たちです。民が危機に直面するようになったのはそもそも、カナンの周辺の民が崇める神々をイスラエルの民も崇めるようになったことに起因していました。そのことから内部に混乱が起き、弱体化し、周囲の民の侵略や略奪、圧政を受けるようになったのでした。神さまは、奴隷とされていたところから救い出し、約束の地まで守り導いてこられたのに、神さまに背を向け、偶像にひれ伏してしまう民を危機から救い出し、ご自分のもとへと立ち返らせるため、士師たちをその都度立ててくださったのです。

 

イスラエルの民が周囲の民に惹かれたのは、豊穣の神々を崇めて生活の豊かさを守ろうとする生き方だけではありませんでした。彼らの国の王政による統治でした。王制が、周囲の民の主流の統治体制であり、王が争いごとに関して最終的に決定を下し、王が他の民との争いでは軍のトップに立ちました。大抵の場合世襲によって王権は引き継がれ、国はほぼ途切れることなく王に治められていました。イスラエルの民も、そのような体制による国になりたいと思うようになりました。その兆しはギデオンが士師であった時代に既に現れていました。周囲の民から自分たちを勇ましく救ってくれるギデオンの所に人々が来て、“自分たちを救ってくれたのはあなたですから、あなたはもとより、ご子息、またそのご子息が、我々を治めてください”と頼みます。その民に対してギデオンは「私はあなたたちを治めない。息子もあなたたちを治めない。主があなたたちを治められる」とはっきりと答えました。エジプトでそうであったようにカナンの地でも、危機から救い出してくださるのは人ではなく主なる神であると、ギデオンは人々の願いを退けました(士師82223)。周りの国々では王制による統治が主流であっても、イスラエルが士師によって治められていたのは、ギデオンが告げたように、神の民イスラエルを本当に治めるのは人間の士師ではなく、奴隷の家から導き出してくださった神さまだからであり、士師は、真の統治者、真の王である神さまが、その人を通して民を救い、導くために立てた者だからです。士師が自ら士師になろうと思ってその座を獲得したのではなく、世襲によって親から士師の職を受け継いだのでもないのです。

 

けれど人々は、天上の王と、自分たちが必要としているものの間には隔たりがあるのではないかと、自分たちが今直面している危機に対して、神さまは本当に助けを与えてくださるのか、との思いを捨てきれずにいました。目に見ることのできない神さまの臨在を、そのご意志やお力を、自分から遠いものに感じ、神さまと自分たちとの間に常に存在してくれる人間の王を求める思いを募らせました。

 

人々がそのように思う背景に、イスラエルの民が置かれている状況の厳しさがありました。その頃イスラエルの民を特に脅かしていた民は、ペリシテ人でした。海沿いに定着したペリシテ人は、イスラエルの民も居住する内陸へと進出してきました。後に少年ダビデが闘ったゴリアトやその軍に現れているように、ペリシテ人は重装備の歩兵からなる強力な軍隊を持っていました。彼らはイスラエルの民が持っていない強力な鉄の武器を持ち、弓担当の兵士たちがいて、戦車の軍団もありました。イスラエルの民はこのペリシテ軍に何度も敗北を喫し、ペリシテ軍は征服した地の実効支配を進めました。イスラエルの民は攻め込まれ、追い詰められていく危機に絶えず直面していました。

 

そのような中で、サムエルが士師として統治していた間は、主がペリシテ人を抑えてくださり、平穏な時が続きました。サムエルは裁きの働きに集中し、やがて高齢になり、裁きの務めを自分の二人の息子に継がせようとしました。しかしこの息子たちは、不正な利益を求め、賄賂を取って裁きを曲げてしまう、全く相応しくない者たちでした。イスラエルの長老たちは全員サムエルの所にやって来て、あなたの息子たちではなく、公正な裁き手を王として選ぶべきだと、王制を整えることを要求したのでした。

 

人間の王を自分たちに与えよとの要求の第一の理由が、二人の息子が適任でないからというのは、尤もなことでありましょう。けれど第二の理由は、「他の全ての国々のように」というものでした。ペリシテの脅威が絶えずあり、これまでの、断続的に神さまが立てられる士師の統治と、士師がその都度召集する軍では太刀打ちできない、だから絶えず統治者が欲しいのだという理由ではありません。神さまに絶えず自分たちを統治する指導者を与えてくださるように、祈って欲しいとサムエルに頼むのでもありません。サムエルが力を失ったら攻め込もうと、国境の向こうで機会をうかがっている強大なペリシテ人の軍隊や、不正によって私腹を肥やす二人の息子たちという、目に見える危機から抜け出すために、人々は神さまに救いを求めるのではなく、周りの国々のような人間の王の力を求めたのでした。

 

かつてのギデオンのように、サムエルにも長老たちの要望は悪と映りました。そこでサムエルは神さまに祈って、み心を尋ね求めます。神さまもサムエルの思いが正当なものであることを認められ、神の民にとって、王はご自身であると、人間の王を要求するのは、ご自身が民の上に王として君臨しておられることを退けることであると、サムエルに告げられます(87)。イスラエルの民をエジプトから導き上った日から今日に至るまで、民がすることと言えばご自分を捨てて他の神々に仕えることだった、人間の王を要求するのも同じことだと、神さまでは無く目に見える偶像に頼ろうとしてきた民は、神さまでは無く人間の王や王政と言う制度で自分たちを守ろうとしていると、民の背きを明らかにされます。その上で、民が求めるように、王制を受け入れなさいと言われました。

 

サムエルと神さまがこの時民の要求の根元に見つめていた悪は、その後の歴史を辿れば的を得ていたと言えるでしょう。王として立てられたサウルが次第に王としてふさわしい在り方から離れてゆき、次のダビデも王として大きな罪を犯してしまい、ダビデがイスラエルの12部族を統一したものの、王国は僅か数十年で南北に分裂し、やがてどちらも滅び、その間、多くの王が神さまに従う道から離れ、多くの民がその王に追随します。それでも神さまは、民の王を求める声に耳を傾けられたのです。

 

神さまは、ご計画に基づいて救いのみ業を推し進める方であります。しかしそれは、人が何を求めようとも、ご計画通りに何ら変更することなく突き進んでゆかれるということではありません。出エジプトの出来事も、民の声に耳を傾けられた神さまが、新たなみ業を起こすことによって動き出しました。ファラオの圧政の下で奴隷とされていた人々が重労働の中から呻き、助けを求めて叫び、神さまはその嘆きを聞かれて、アブラハム、イサク、ヤコブと結んでくださった契約を前へと進めるために、出エジプトと言う大いなるみ業を行われたのでした。ペリシテ人の攻撃に絶えず脅かされる時代に、これまでの在り方に限界を感じ、別の制度を求める民の声にも、その奥に潜む罪をも見つめつつ、神さまは耳を傾けてくださっています。ただし、人間の王を自分たちの上に君臨させる王制に潜む危険を民に警告することもサムエルに命じます。王を立てることによって民は王の奴隷となり、自分たちが選んだ王のゆえに泣き叫ぶことになると。それでも民はサムエルの警告を真剣に受け止めず、天上の神を唯一真の王とする神の民の特別さを自ら放棄して、他の民と同じような民となることをひたすら求めます。この民に、神さまは王を立てることを認められたのです。

 

神さまは、「自分たちを奴隷のように支配する王によって、自ら滅びの道を行きたいなら、勝手にしなさい」と、民を見放したのではありません。他の国々と同じような王国となることがどのようなことなのか、先を見据えようとしない民の求めを受け入れてくださり、他のどの国とも異なる王国へと続く道を与えてくださったのです。イスラエルの王制は、神さまが定められます。王は、民の中の強い者が他の者たちを倒して手に入れるのではなく、また民が自分たちで王になって欲しい人を選び立てるのでもありません。神さまが立てられたサムエルが、神さまが選ばれた人物を王として立てます。地上に王を立てるということは、天上の真の王の下に立つことなのだと、王も民も、神さまの下にあるのだと、示されます。人間の王を求めてしまう民を見捨てるのではなく、神さまがこの先も民と共に居てくださり、王を立てることを通して、その王を通して、ご意志を示してくださることを、示されたのです。

 

王を立てるためにサムエルは聖所にイスラエルの全ての部族を呼び集めました。神さまがサムエルによって人々を召集するのであって、王を立てる主導権は人々の側にあるのではありません。全ての部族が集められることで、民の全ては、王を立てることは主のみ業によるのだと、受け止めることが求められています。そこにおいてサムエルは民に再び、神さまがなさってこられた救いのみ業を思い起こさせ、目に見える王を自分たちの中から立てようとすることが、神さまを退けること、神さまに対する背きであることの自覚を促します。民の背きにもかかわらず王を立てられる神さまのみ業であることを示します。

 

サムエルは王の選出を、くじによって行います。人の思いや都合が最も入り込みにくいくじは、聖書において神さまのみ心を知るための大切な手段の一つです。くじによって民の大きい単位から次第に小さい単位へと順次絞られ、最後にサウルが選ばれます。王になることを受け入れられなかったのでしょうか、隠れていて誰も見つけ出せなかったサウルの居場所も、主によって示されます。主だけがサウルの居場所をご存知です。人々の真ん中に立ったサウルは、他の人々よりも背が高い人物でした。9章では、サウルが端正な姿をしていたことも述べられていました。人の目に王にふさわしい人物に見え、民は皆大喜びします。その民にサウルは改めて、「見るがいい、主が選ばれたこの人を。彼に及ぶ者はいない」「彼に並ぶ者は民のうちにいない」と言います。人の評価でサウル王誕生を喜んでいる民に、これはあなたたちの評価によってあなたたちが選んだのではなく、「主が選ばれた」王なのだと、王制も主がイスラエルの歴史に与えられたのだと、改めて、王とはどのような者であるのか、民に語り聞かせます。更にそれらを書に記し、主のみ前に納めます。これまで民を救い出し、守り養ってこられた主に信頼しきれずに人間の王を求めた民に、神が王を与えられたのであり、王は神の下にあることを、神さまのみ前で共に確認します。主なる神こそ目に見えない真の王であります。地上の王も神の民も、これからも常にみ前に立ち返って祈りながら、神に仕えてゆきます。地上の王は、真の王である神のご意志を尋ね求め、地上の政治に反映することが求められます。民は、神が立てられた者だから王に仕えてゆきます。サムエルはこうして、民と王と神さまの関りを示したのでしょう。しかしその直ぐ後に、「こんな男に我々が救えるか」と、神さまのみ心を疑い、サウルと神さまのご意志に背を向けた者たちがおり、サウルがその人々に何も言わなかったことが伝えられています。王自身も、民も、自分たちが神さまの下にあることに揺らげば、王制も揺らいでしまいます。この結びが告げる不穏な動きは、この国とサウルが将来誤った道へと向かってゆくその兆しが既に生じていることを示すようです。

 

やがてこの王朝はバビロン捕囚で終焉を迎えます。人間の王朝は途絶えます。見えないけれど天上の神が真の神であると、十戒の「わたしをおいてほかに神があってはならない」という教えを自分たちの歩む道とするようにと、サムエルは語り続けました。エジプトから自分たちを導き出し、自分たちの中心に今も共におられる神さまを見失う時、地上の王を神としてしまう危機に陥ってしまうのだと呼びかけ続けたサムエルの言葉は、この地に響いていたはずです。サムエルを通して警告の言葉を繰り返された神は、地上の王や民がご自分の元に立ち返るように招き続け、待ち続けられたことでしょう。

 

 

そして神さまはこのような人間たちのために、ダビデ王との間に契約を結んでくださり、神の民を、ダビデ王とその子孫によって揺るぎないものとされると約束されました。やがてみ子を私たちの真の王であり真の救い主である方として与えてくださいました。ご自分が王であることを退ける思いが潜む民の願いにも耳を傾けられ、救いの歴史を新たな仕方で推し進めてくださいました。神でありながら、人としての苦しみを私たち以上に味わわれたこの方が、神さまに至る道となってくださいました。私たちを奴隷にする王ではなく、私たちの代わりに私たちの罪の値を背負って十字架にお架かりになったこの方によって神の国が到来しました。キリストの方のご支配の下に、「み国が来ますように、み心が行われますように、天におけるように地の上にも」と、神の国の完成を祈り求める歩みを重ねていくことができるのです。