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神はこのキリストを立て

2022.9.25.主日礼拝

アモス521-27、ローマ32326  

「神はこのキリストを立て」浅原一泰

 

わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない。たとえ、焼き尽くす献げ物をわたしにささげても、穀物の献げ物をささげても、わたしは受け入れず、超えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしはきかない。正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ。

イスラエルの家よ、かつて四十年の間、荒れ野にいたときお前たちはわたしにいけにえや献げ物をささげただろうか。今、お前たちは王として仰ぐ偶像の神輿や神として仰ぐ星、偶像ケワンを担ぎ回っている。それはお前たちが勝手に造ったものだ。わたしはお前たちを捕囚としてダマスコのかなたの地に連れ去らせると主は言われる。その御名は万軍の神。

 

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

 

 

他の者の罪を負わされる身代わりの犠牲をスケープゴートと言う。その語源は旧約聖書のレビ記16章から取られたと言われる。毎週日曜の夜は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」を楽しみに見続けている一人であるが、先週は「武士の鑑」と謳われ多くの御家人たちから信頼を集めていた畠山重忠が、執権北条時政とその妻に根も葉もない言いがかりをつけられて息子の命を奪われ、更に将軍の許可が下りたことで幕府軍は重忠討伐へと向かい、善戦空しくも彼が討ち取られてしまう話であった。しかしその後、重忠の潔白が御家人たちの間に伝わって御家人たちの批判が執権時政に向かい始めると、即座にそれをかわすための策が幕府の中枢によって講じられた。重忠討伐の本当の仕掛け人は稲毛何某であり、彼が時政に讒言を繰り返し、重忠を討つよう仕向けたのだ、という噂があちこちで流され始めたのである。その結果、御家人たちの怒りの矛先は稲毛何某へと向かい、その稲毛を捕えて見せしめに処刑することで執権時政への不平不満は取り敢えず抑え込まれた。稲毛なる人物は幕府中枢によって、スケープゴートにされたわけである。

 

政治家の世界でも、個人名を挙げることは差し控えるが、背後に控えている黒幕の名は証拠不十分で明らかにされないまま、「それはこの男がやったことだ」と、当選回数もそれほど多くはなく知名度も低い別の政治家がスケープゴートにされる、ということが繰り返され続けている。役人の世界や大企業などでもそういう経緯はあるだろう。しかし、それで何かが改善されるのだろうか。本当に裁かれるべき黒幕の代わりに他の誰かが犠牲になることで、法律的には片付けられたとしても、当の黒幕は悔い改める必要もない。

 

スケープゴート、犠牲。出エジプト記では、エジプトからイスラエルの民を解き放つため、神自らがモーセとアロンに、イスラエルの家は一匹の傷のない子羊を屠ってその血を門の柱と鴨居に塗りなさい、と命じる。主の災い(初子の災い)が起こる時、災いは血の塗られた家を通過するが、ファラオの子を含め、エジプト中の家の初子は死ぬ。恐ろしくなったファラオはあなたがたを出ていかせるだろう。心変わりしない内にあなたがたはその子羊の肉を焼き、酵母を入れないパンを焼いて苦菜を添えて食べ、直ぐに出発しなさい、と神は言われた。主の過越である。この過越の子羊もスケープゴートであった。迫害に苦しみ続けてきたイスラエルの民は真剣に、厳かにこれに従った。

 

しかしながら、既にその当初から、表向きは神に従う素振りをしつつ、私利私欲の為に生け贄を捧げても良い、という蛇の誘惑は働いていた。「これを捧げよ」という神の言葉を、「それさえ捧げればお前は死ぬことはない」、という意味へと蛇はすり替えた。イスラエルの先祖たちが真剣に神に聞き従ったのとは異なり、律法の規定通りに生け贄を捧げてさえいれば許されるし祝福される。そういった見返り狙いの神への振る舞いが、先ほど読まれたアモスを始め、預言者たちの時代には充満していた。「わたしはお前たちの祭りを憎み、退ける。祭りの献げ物の香りも喜ばない」との神の声をアモスは伝えていたが、アモスに近い時代の預言者ホセアは次のような神の叫びを伝えている。「わたしが欲しいのは愛(ヘセド)であって生け贄ではない。神を慕うことであって焼き尽くされる献げ物ではない。」(ホセア66)。出エジプトの時代の先人たちの苦労を忘れ、経済も栄し世俗化が進んだその時代、人々は皆、自己中心的になって見返りを得られることしかやらなくなっていた。富める者は、金を貸す見返りとしてその相手から労働力を搾取し、人権をも奪った。借金を返せない者には娘を差し出させて弄び、シャアシャアと神殿で酒を飲んでいる、とアモスは伝えている。日々の食糧のあてもなく献げ物をすることさえままならない苦難の日々において、約束の地を目指して一人も欠けることがないよう助け合い労わり合ったあの荒れ野放浪の民の姿は失われていた。律法通りに犠牲を捧げてさえいればそれで良いのか。お前たちは腹の中では、偶像の神輿や偶像ケワンを担いでいるではないか。それでは神であるわたしの思いから逸れている。正義が洪水のように、恵みの業が大河のように流れるどころか渇き切っている。神はアモスを通して叫んでいた。

 

今はどうであろう。自分の成功や安全の為に初詣には行く私たちの周辺社会は、神が忘れられている、というよりむしろそもそも神が知られていないのかもしれない。自らの知恵や力で事を推し進め、できる者は認められ、できない者は切り捨てられる。実力主義。結果主義。勝利者至上主義。差別に差別を積み重ねていくそのような考え方にいつの世も、今もなお、人間は常に翻弄され、揺り動かされ、ともすれば支配されている。見返りが得られないなら、例えば献金の額を上げるとか犠牲となる動物を人間に変えるとかして、捧げる犠牲の質を上げれば済むと考えてしまう。世俗の世界は勿論のこと、そこに身を置いている教会さえもが揺さぶられ、実績を残さねばと煽り立てられ、そこにつながる我々自身(私自身も)がそのような価値観に押し流されている。そうではないだろうか。蛇に姿を変えて人間を巧みに迷わせる罪の力はいつの世も変わらない。罪に屈している過ちを自覚しているからこそ人は礼拝へと集まって来るが、一方で誰もが思っていないだろうか。礼拝を守ることで一時赦しを与えられた気にはなるが、教会から離れれば忽ちの内に、誘惑に負けて罪を繰り返してしまう、と。それでは、アモスの時代の世俗的な人々や今の政治家たちと何が違うのか。礼拝を守ることで一時の赦しや慰めを得られても、自分自身は何も変わっていないとするならば、である。であるからこそ、そのことを知り尽くし、すべてを見抜いておられる神はそれ以上に、次の言葉を世にある我々に語り掛けているのではないだろうか。

 

人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさいました。」

 

旧約の人々が捧げる犠牲も、今我々が捧げている礼拝も、それをすることで神に赦していただこう、という類のものであるなら、どんなに心を込めてささげたとしても、それで本当に神が赦して下さった、ということにはならないだろう。人の業なる礼拝ではあっても神の業なる礼拝になっていないからだ。もちろんそれでも、きっとこれで赦していただける、という安心感は得られるし、神の憐れみ、励ましと慰めを期待させてもらえるとは思うが、赦しそのものの実現ではない。心のどこかで「赦されたいという見返り」を求めつつ守る礼拝、蛇の誘惑が垣間見える礼拝の域を越えない以上は我々は罪を犯したままであり、神の栄光を受けられない。先ほどの聖書ははっきりそう告げていた。ただ、それでも神は見逃してこられた、とも聖書は伝えていた。

 

神の栄光とは、神の国がそこにある、ということである。今ここにある、ということである。しかし今、それがここにあると我々は心の奥底から確信しているだろうか。憧れつつも、確信しきれていないのが本音ではないのか。それは罪ゆえであると。あなたがたの罪ゆえにそれに気づかず、見えなくなっているのだと先ほどの聖書は指摘する。一方で、生まれつき目の見えない人をイエスが癒された時、安息日に何をするのかと非難したファリサイ派に向かってイエスは言われていた。「(それでも)あなたがたは見える、と言っている。それゆえに罪は残る」と。ではどうすれば良いのか。神の国が見えないことを痛切に自覚していたパウロは、この手紙の7章で「わたしは何と惨めな人間なのだろう」と正直に綴っている。人間には神の国を見ることなど絶対に出来ない。確信することも出来ない。蛇の誘惑に全面降伏したアダムの末裔である以上、自分で自分の罪を消すことなどできず、無力さに打ちのめされるしかない。しかし、だからこそ神が我々のために動かれるのである。汚れ切った足にたとえられた、自分ではどうすることも出来ない弟子たちのおぞましき罪の部分をイエス自ら手拭いを腰に巻いて洗って下さるのである。先ほどの聖書も告げていた。あなたがたが神の栄光を受けられなくなっているからこそ、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされる、と。神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を償う供え物となさったのだ、と。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためなのだ、と。

 

犠牲とは本来、捧げることの出来ない自分の命に代わるものであった。それをささげた者は古い自分に死に、悔い改め神へと向き直らされて歩み始めるチャンスが与えられる、という神の指示であった。しかしその指示通り、律法通りに子羊をささげても人間は変わらない。どんなに祈って心を込めて礼拝を守っても罪に屈する自分を変えられない。それが現実である。我々人間の限界である。神の御前で正しい、義なる人間へと変わりたくても自分ではどうすることもできない。いくら祈っても、いかなる犠牲をささげても無理である。だからこそここで、他のいかなる犠牲でもなし得なかったことを成し遂げる犠牲が現れた。神の御前で義なる人間を生まれさせる真の犠牲が現れたのである。「神はこのキリストを立てられた」。足を洗い、おぞましき我らの罪を自らが身代わりに背負って十字架にかかり、血を流して犠牲となられるキリストが今、我らの前に足を洗おうと跪かれている、というのがそれである。それは神自らの行為である。神の業である。人間が手も足も出すことの出来ない神の奇跡である。しかも、足を洗い、供え物として命を捨てるこのキリストは何と、人となられた神ご自身でもある、という神の奇跡なのである。

 

人間がささげる犠牲は神の裁きを先延ばしにするだけで撤回はしない。一時の気休めは与えても完全なる赦しを与えはしない。それは、人間の罪をほんの少し見逃すだけであって、罪そのものの解決にはならない。しかし聖書は言う。「それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。」あなたがたがそうであったのも、そうしかできなかったのも、そしてそれらすべてを神が忍耐をもって見逃して来られたのも今、神の義を示すためであったのだと。

先延ばしではなく、完全なる罪の赦しを実現する犠牲。それをささげた者が罪あるまま、何も変わらないままであっても関知せず、無関心を装う犠牲ではなく、罪ある者すべてに代わって自らの血を流して彼らを赦し、彼らの中にある罪を真に取り除き、放棄させる力を持つ犠牲。人間を古い命に死なせ、新しい命へと生まれ変わらせる力を持つたった一つの生け贄。それこそが今、神が立てられた、神にしか立てられないこのキリストであり、分け隔てなくすべての者のためにこのキリストを立てることこそが神の義だ、と聖書は宣言する。あなたがたが招かれているのは、取り敢えず犯した罪の裁きを先延ばしにしてもらおう、安心させてもらおうという礼拝ではない。そのような人間の営み、思惑を忍耐して来られた神、この方によって遂にこの神の義が示され、それを惜しみなく分け与える礼拝へと今、あなたがたは招かれ、召し集められているのだと。それは罪を赦していただきたいと願って守るものではない。既にあなたがたはキリストの血によって赦されているのだ、この神の義によって古い自分に死んで新しい命へと変えられる、神の義があなたがたを変えて下さるのだと。神はそのことに我々の目を開かせようとしている。聖書はそう語り掛けているのではないだろうか。

 

献げ物をささげても、わたしは受け入れず、超えた動物の献げ物も顧みない。お前たちの騒がしい歌をわたしから遠ざけよ。竪琴の音もわたしは聞かない。正義を洪水のように、恵みの業を大河のように尽きることなく流れさせよ。アモスを通して神は言われていた。献げ物をして礼拝を守ってさえいればいいという思い込みで神の正義を、神の恵みをもうこれ以上覆い隠さないでくれ、というそれは神の叫びでもあると思う。

 

神はこのキリストを立てて、汚れし我らの罪を拭い去り、洗い清め、赦して下さっている。死ぬべき我らの代わりに犠牲となって血を流すことで、罪に跪く我らの古い命をも十字架につけて死なせ、死からよみがえられたキリストは我らをも新しい命へと生まれ変わらせようとしている。そうすることが神の正義であり恵みなのだとアモスは伝えていた。私たちは、自分で自分を変えられない。犠牲をささげても、祈っても罪を消すことなど出来ない。だからこそ神はこのキリストを立てられた。キリストによってあなたがたを清め、新たに生まれ変わらせる、という神の義を示して下さった。その神の正義を、恵みを受け止め、賛美をもって応える命へと、神の助けによって今、ご一緒に生まれ変わらされたいと心から願う。