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祝福の道を

「祝福の道を」創世記1219、使徒41012

2022612日(左近深恵子)

 

聖書の創造物語は、人や世界はそもそも、神さまから「極めて良い」と喜ばれる存在であることを語ります。人と人との関わりも、神さまからの救いを差し出し合うものとされているのだと、人は誰かにとって助け手となることができる者として造られたのだと、示されてきました。けれど本来の在り方に留まることができない人間の姿も語られてきました。エデンの園も、ノアの箱舟の時代の人も、先週のバベルの町の人々もそうでした。自分たちが選んだ場所から動かされることが無いように、自分たちの今の在り方やこれからの人生を誰にも、神さまにさえも変えられないようにと、町と高い塔を建てて自分たちの名を高め、神さまに匹敵する存在であることを知らしめようとしました。神さまとの関わりを自分の領域から締め出し、神さまの祝福から自分自身を引き離す人間の姿がありました。

 

神さまはこのような人間に救いをもたらすために救いの歴史を起こされたことが、今日の箇所で語られています。そのためにアブラムを立てられました。後にアブラハムと呼ばれることになるアブラムは、バベルの塔の物語に続く系図の中に登場します。ノアの息子の一人、セムの系図が11章にありますが、それによるとノアから数えて10代目にテラという人が登場します。テラの一家は、カルデアのウルという、ユーフラテス河のほとりにあった、栄えていた町で暮らしていました。テラの3人の息子、アブラハム、ナホル、ハランは、この町で生まれました。アブラムはサライと結婚し、ナホルはミルカと結婚しました。ハランの妻のことは記されていませんが、ハラン夫婦にはロトという息子が生まれました。しかしハランは父親テラに先立って若くして死んでしまいました。

 

 アブラム夫婦には子どもがなく、それはサライが不妊であったためだと記されています。アダムからノアへと、ノアからテラへと続いてきた血筋が、自分たちの家族においては自分たちの代で終わってしまうことも、子を願いながら抱くことができず、子どもと共にある未来を見ることができないことも、アブラムと妻サライを悲しませてきたことでしょう。

 

 やがてテラは、アブラム夫婦と孫のロトを連れてウルを出発し、カナン地方を目指します。一行はおそらくユーフラテス河に沿って北西に進み、さあ、ここから南下すればカナン地方の方角だ、というハランの町まで辿り着きました。ところが、理由は記されていませんが一行はそこから進まず、ハランの町に留まります。その後テラはハランの町で死の時を迎えます。カナンを目指しながら、何らかの事情により道半ばで断念をした父親の死後も、アブラムは妻と甥と共にハランの町で暮らしていました。そのアブラムに、ある日、神さまは呼びかけられたのです。

 

 1節から4節にかけて記されている神さまからの呼びかけは、元の文によれば「行きなさい」という言葉から始まります。どこから行くのか、「生まれ故郷、父の家を離れて」と続きます。聖書協会共同訳は「生まれた地と親族、父の家を離れて」と訳しています。アブラムの生まれ故郷はウルですが、「生まれた地」とは、アブラムが根差してきた土地全体を表し、「親族」は、アブラムがつながって来た人々を指すのでしょう。当時の人々にとって、特に遊牧生活をする人々にとって、親族は大切な存在です。家畜のえさや水の場所を確保し、人間や家畜の安全を守るために、親族の助けは心強いものでありました。その後に続く「父の家」は、より血縁関係が近い一族を指します。その人の人生観や価値観がその中で養われ、その中で守られてきたようなところです。「行きなさい」という神さまの言葉は、ただある場所からの出発ではなく、それまでのアブラムやアブラムの生活が培われてきた居場所や交わり、保護からの出発です。土地、親族、一族と、アブラムが出で行くところが徐々に範囲を狭めるように挙げられていきます。視点が狭まっていくと共に、そこから出発することの難しさが一層浮き彫りになってくるような表現です。アブラムのハランでの生活は、財産を蓄え、家に人が加わったと、豊かなものであったことがうかがえます。父親を送った後もそこで暮らし続けてきたハランの土地と人々に、アブラムは深い結びつきを持っていたことでしょう。アブラムにとって大切な様々な存在がこの土地にあることを神さまはご存知です。神さまはそれらの上に立つ方であることを受け入れ、神さまに従うように呼び掛けられます。慣れ親しんできた全てのつながりから出発し、親族、一族の保護の外へと出て行き、アブラムの人生に、そしてアブラム夫婦の歩みに、神さまが新たな出来事を起こそうとされている、そのみ心にお応えすることを求められるのです。

 

 アブラムは、妻と甥を連れ、蓄えた財産もハランで加えた人々も連れて出発します。試しに出発してみて、うまくいきそうになかったら戻ってくるつもりの出発ではありません。自分も自分の家族も、全てを神さまに委ねて、慣れ親しんだ大切な多くのものを後にしたのです。

 

 その出発は、たった一言、「旅立った」あるいは「出かけて行った」と述べられ、アブラムの言葉は何も記されていない、アブラムの決断が揺るぎないものであることが伝わって来る出発です。アブラムの中に人生を変えたいと言う思いがあったかもしれません。強い向上心やチャレンジ精神があったかもしれません。父親が成し遂げられなかった志を自分が引き継ぐのだという思いがあったかもしれません。それでもそれまでは動こうとしなかったアブラムです。そこから踏み出したのは、アブラムの内側で燃えていた思い、抱いてきた志も含めたアブラムの存在全体に、主の言葉が響いたからです。アブラムがアブラムの主なのではなく、「わたしが」「わたしは」とアブラムに繰り返される神さまが主です。新たな人生を指し示すのも、その先に約束を与えられるのも、その約束を実現されるのも、神さまです。吟味せずに未知の世界に突き進むような齢ではもはやないアブラムが、どこに行くのか具体的な情報が無い神さまの呼びかけに、全てを委ねて従う決断をした、その重みがこの出発から伝わってきます。

 

 バベルの人々に現れていたように、人には「地に満ちよ」と告げられた神さまの言葉よりも、自分に居心地の良いところから動かされまいとする思いに従うところがあります。そのような者たちに救いをもたらすために、神さまはアブラムに「行きなさい」と呼び掛けられ、アブラムは従う決断をしました。神さまはアブラムに、具体的な目的地の情報ではなく、ゴールそのものを告げられました。アブラムの名を高めると約束されたのです。バベルの人々のように、自分たちの力と才覚によって自分の名を高め、自分たちの未来を守ろうとするのではなく、神さまによって高められる人生へと導こうとされます。バベルの人々の姿は、その後のイスラエルの民にも、私たちにも通じるものがあります。イスラエルの人々は、小さな民でしかない自分たちの未来を託せるのは預言者が告げる神さまの言葉よりも大国の力だと、その時代に力を誇るものと結びつこうと画策しました。しかし神さまは、私たちが惹かれて止まない力を誇る様々なものよりも高みにおられる方です。神さまだけが、アブラムの名を、私たちの名を、高めることができます。自分で自分の名を高めようとする虚しい願いと虚しい努力から人を解き放ってくださるのです。

 

 神さまはアブラムに、多くの子孫を与え、大いなる民とするとも約束されます。大いなる民に至るその始まりに、子どもを望むことのできない夫婦を立てられたのです。アブラムの側からは決して望み見ることのできないゴールです。神さまが人々にもたらそうとされている救いは、人の側の状態や条件によって決まるのではなく、ただ神さまのみ業によってもたらされるものであります。神さまはアブラムを祝福するとも言われます。祝福とは、神さまから命と存在を与えられた人間が、その命と存在を輝かせて生きていくようにと願われるみ心です。暮らしに困ることは無くても、心から自分の状態を喜べず、未来に希望を持つことが難しいアブラムに、何も差し引かれていない祝福を真っ直ぐに告げることができるのは、神さまだけです。神さまはこのような祝福でアブラムを祝福されるだけでなく、アブラムを祝福の源、祝福の基として、他の人々も祝福されます。アブラムに与えられる祝福を喜ぶ人がいれば、その人も祝福されると、しかしアブラハムに与えられる祝福を呪い、祝福を与えられる神さまに背を向ける人に対しては、裁きの言葉を述べられます。それでも裁きよりも祝福を重ねて告げられ、神さまが人々にもたらすことを何よりも願っておられるのは祝福であることを示されます。祝福の源、あるいは基として神さまが選び立てられたのは、子どもに恵まれ、命が次世代に受け継がれていく喜びに今与っている若い夫婦ではなく、神さまが出来事を起こしてくださらなければ祝福の源に決してなれないアブラムです。アブラムから溢れ出す祝福の源は、ただ神さまお一人であるのです。

 

 ハランを出発したアブラムに神さまが示された地は、カナンでした。その地に入って行ったアブラムは、そこは自分の思い通りになるような所ではないことを知ります。その頃、その地にはカナン人が住んでいました。ハランの地では安定した豊かな生活を送っていたアブラムは、誰も知り合いのいない、親族の保護の無い土地で、寄る辺ない身となりました。ただ神さまに依り頼んで進み行くアブラムに、神さまは再び現れてくださり、アブラムの子孫にこの地を与えると告げられます。神さまはカナンの地においても共にいてくださり、呼びかけてくださることをアブラムは知ります。その言葉は一人の子どもすら自分たちでは望むことのできないアブラムに、大勢の子孫が与えられ、今既にカナン人が暮らしているこの土地が、その子孫たちに与えられるという約束です。アブラムの側には約束を実現する根拠が何もないこの約束を、アブラムは信頼しました。寄留者であるアブラムが今歩んでいる旅路が、アブラムの生涯の先に成し遂げられる約束へとつながっていき、アブラムにはつなげることのできない祝福の歴史を、神さまがこの地でつなげていってくださるのだと信頼したアブラムは、神さまがいつか子孫に与えられると言われたその場所に祭壇を築き、神さまを礼拝しました。その先のベテルの東の山でも祭壇を築き、主のみ名を呼んで礼拝をしたのです。

 

 神さまの祝福の約束に信頼し、従うアブラムの歩みは、キリストの弟子たちの歩みへと繋がっていきました。やる気は人一倍ありながら主イエスに従い通せない弱さをさらしてしまい、主イエスの弟子であることを三度も否定してしまったペトロ、そして仲間のヨハネは、聖霊のお力を受けると大胆に人々にキリストを証しする者となりました。彼らはエルサレムの神殿で人々に、彼らがアブラハムの信仰につながる者であることを思い起こさせます。「あなたがたは、神があなたがたの先祖と結ばれた契約の子です」と、神さまがアブラムに、地上のすべての氏族はアブラムの子孫によって祝福されると約束されたのだと、あなたがたはそのアブラムの子孫ではないかと語ります。だから神さまはあなたがたが十字架にかけて殺したキリストを死者の中から復活させてくださり、あなたがたのもとに遣わしてくださったのだと、それは、キリストがあなたがたを祝福するためだったのだと語ります。私たちが救われるべき名は、この方の名しか人間に与えられていない。この方による以外に救いは無いと告げます。アブラムがカナンの地で祭壇を築いて礼拝を捧げたことを、創世記は「主のみ名を呼んだ」と表現していました。「主のみ名を呼ぶ」とは、命の与え手であるただお一人の方に、自分の全身を向ける在り方を表す言葉です。ペトロとヨハネも真っ直ぐに、ただお一人の主に向かい、その方を人々に指し示します。主イエスを十字架の死へと追いやることで自分たちの正当性を守ろうとした者たち、自分の力で自分の名を高めようと画策する私たちの名を再び引き上げ、祝福の中へと導き入れるために、神さまは、み子をよみがえらせ、私たちのもとへと遣わしてくださったのだと。

 

 

 私たちも皆、神さまに呼び掛けられ、祝福の中へと招かれています。破れや欠けを抱えた私たちの歩みは、前進しているのか自分でも分からなくなるようなものであります。神さまの祝福に心を開き、神さまの約束に信頼して歩み続けるよりも、神さまでは無いものに未来を託すことに惹かれてしまう私たちであります。アブラムとは、自分の限界を越えて、自分の思いを越えて、大きなみ業が為されることを知った人であります。自分が味わってきた欠けや破れから、神さまの憐れみが溢れ出すことを知った人であります。このアブラムの確信が、私たちの信仰の歩みを力づけます。自分の力の小ささ、不確かさに不安を抱え、力の大きさを誇る世の様々なものにつながることで確信を得ようとしてしまう私たちが、ただお一人の神さまのみ名を呼び、神さまからの呼びかけにお応えし、勇気を持って見えない先へと踏み出すことができるのは、それがキリストと共に出で行く出発だからです。神さまは私たちの今のこの所での信仰を、信仰から発する言葉や行動を、神さまの祝福で地を満たすために用いてくださることに信頼するからです。私たちはそれぞれの場にあって、神さまの祝福を証しする者となれるのです。