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霊の風が吹く

「霊の風が吹く」創世記1119、使徒2112

202265日(美竹教会ペンテコステ礼拝)左近深恵子

 

 今日はペンテコステ、聖霊降臨の記念の礼拝です。今から約2,000年前、五旬祭、あるいはペンテコステと呼ばれる祭りの日に、エルサレムの片隅で弟子たちが集まって祈りをしていたところに、神さまの霊が注がれて、そこから神の教会の歴史が始まった出来事をお祝いしています。教会とされたのは、他の人々に優るような特別な力は何も持っていない人々でした。寧ろ周囲の人々の目に彼らは、主イエスと言う教師を処刑によって失ってしまった、無力な人々に映っていたことあったでしょう。その人々が最初の教会とされ、新しい言葉を人々に語り始めました。周りの人々が驚き、何が起きているのか見ようと大勢集まってくるほど、その働きは力に溢れていました。教会とされた人々が特別に優れた力を持っていたからではなく、ただ、神さまの霊が彼らに注がれたことに拠ったのでした。このペンテコステの出来事を理解し、受け留めるのは容易なことではありません。ペンテコステの出来事を深く理解するために、そしてこの出来事を共にお祝いするために、バベルの塔の物語が私たちの助けとなります。

 

 神さまが人々の言葉を乱されて、町と天にまで届く塔の建設ができなくなったという、多くの人に知られているこの物語を創世記から聞きました。人々が力を結集して目指したことの規模の大きさ、それを覆される神さまのみ業が印象的な物語です。しかし意外にも物語の始まりは穏やかです。11章が語るのは、誰もが同じ言語を使っている世界です。言語が同じということは、その言語の語彙や語り方に現れる、言葉の背後にある文化や思想、価値観も共にしているということです。違う言語を習得することの難しさは、新しい言葉を覚えるために多くの努力が必要なだけでなく、その言語の背後にあるものの理解が一朝一夕には為せないことにあるのではないでしょうか。11章は、言語もその言語の背後にあるものも皆が共有し、人々が翻訳を介さずに互いに言葉の微妙なニュアンスも含めて通じ合い、思いを共有することができる世界であったことを、そのことについて良いも悪いも述べずに伝えます。

 

けれど人間はその共通した言語という恵まれた状況を誤った方向に利用するようになります。人々は町が建てられるような広い平地を見つけ、移住し、町と塔を造り始めます。「バベルの塔」という名前で知られているこの物語には塔の印象が強いのですが、人々が造ろうとしていたのは高い塔を持つ町であり、聖書はその動機に焦点を当てています。町と塔の建設は、「全地に散らされること」が無いようにするためでした。世界で最も高い塔を造るのは、それを建てた自分たちの力を証明し、「名を上げ」て、自分たちが散らされる可能性を潰すためでした。レンガを焼いて強度を増し、石が手に入りにくい場所であっても建てることができる技術や、漆喰の代わりにアスファルトで接着、防水する技術など、様々な新しい技術を手に入れています。その技術の発展も、秀でたものを造ることで名声を得たい、優位に立ちたいという思いを強めます。自分たちの未来は自分たちの力で確実にして行ける、何よりも信頼できるのは自分たちの力だという思いは、この物語の人間たちに限られたものでは無いことを思わされます。誰の中にもある傾向だからこそ、容易く思いが通じ合う恵まれた状況で、人々は弱さを見せて散らされてはならないという思いで一つになったのでしょう。

 

「散らされたくない」という動機は、世界をお造りになった神さまのご意志に逆行するものを含んでいることを、これまで創世記で語られてきたことが示しています。天地創造の物語で神さまは、ご自分にかたどって造られた人間たちに、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」と言われました。これは祝福の言葉です。神さまから命と存在を与えられた人間たちが、その命と存在を輝かせて生きていくようにと願われる言葉、神さまがお造りくださり、人の住まいとしてくださった壮大で美しい大地を、祝福された命と存在で満たすことを願われる言葉です。そして人に、この世界を、造られた神さまのみ心を反映し続けるものであるように管理することを求められて「地を従わせよ」と命じられ、地に仕え、地を耕し、守る使命を与えられました。人の悪が大地にはびこっていることに心を痛められ、人をお造りになったことを悔いて起こされた洪水の後でも、神さまは「産めよ、増えよ、地に満ちよ」と、天地創造の時と同じ祝福の言葉を、ノアとその家族、そして洪水以降の人々に与えられます。創造された他の生き物たちのことも、なおも人間に委ねてくださいます。人の悪と罪はなおも変わらず人間を捉えていることを神さまは見つめておられながら、人間が、新たにされた大地に広がり大地を祝福された命で満たすことを願って、人間の再出発を祝福されます。

 

けれど人間には、不安を抱えながら前へと踏み出し、未知の現実に立ち向かうことよりも、自分が把握できる範囲を自分の世界とし、その内側で自分が王でいたい思い、そのような在り方に誰にも介入されたくない、邪魔されたくない思いがあります。そうして11章で人間は良い土地を自分たちだけのものとし、自分たち以外の存在も力も締め出し、目に見えるものによって自分たちの力を誇示することで未来を確実にしようとし、神さまに並び立とうとまでします。他の土地のことも、他の土地に生きるものたちのことも顧みず、神さまの祝福も、自分たちに委ねてくださった他者に仕える使命も蔑ろにします。それは、創造主を自分の世界から締め出し、創造主から自分を引き離すことであります。この人間たちの姿は、神さまとの間に自分にとって都合の良い距離を保ち、神さまに感謝はしても従うことはせず、自分が自分の王であろうとするあらゆる人間の企てと重なるように思います。

 

この人間たちのところに、神さまの方から降ってくださいました。エデンの園で、神さまの言葉に背いた結果、身を隠すしかなかった二人を「どこにいるのか」と探されたように、神さまの方から人間のところへと近づいてくださいます。人間は頂が天に届く塔を建てるのだと息巻いていましたが、その技術を結集して築いている塔は、神さまが降られなければ見ることができないものと語られているのです。

 

神さまは人間の企てをご覧になって、「彼らが何を企てても、妨げることはできない」と言われます。与えられている恵みを誤った方向に注いでしまっている自分たちの企てを、もはや自分たちで止めることができない、自分たちでみ心に立ち帰ることも、本来の自分たちの在り方へと、本来の他者との関わり方へと立ち帰ることができない人間の姿を見つめて、嘆かれます。神さまは、人々の企てを可能にしていた共通の言語を混乱させ、互いの言語が理解できないようにされ、全地の面に散らされます。それは人間が最も恐れていたことでありました。自分たちの力によって自分たちの名を上げることを求めていた町の名前も、彼らが望んでいたような彼らの功績を証しする名とは全く異なる、「混乱」を示す「バベル」という名前で呼ばれることになり、人間たちが求めていたのとは別の意味でこの町の名は有名になります。

 

一つであった言葉を混乱させ、全地に散らされたみ業は、人間に対する神さまの裁きと言えるでしょう。けれど神さまはこのみ業によって、本来人間が進むべきであった道のスタート地点に再び人間を立たせました。神さまからの祝福にも、祝福を与えてくださる神さまにも信頼せずに自分の力に頼り、天に辿り着けない道を突き進むしかなくなってしまう人間に、道を与えてくださいました。自分を自分で守ることしか考えられない人間に、祝福の内に神さまとの結びつきを見出し、その結びつきにおいて他者を見る道を示してくださいました。人間を通して大地の全てのものが神さまに祝される道へと、背中を押してくださいました。

 

 ペンテコステの日にエルサレムの片隅で集まって祈っていた主イエスの弟子たちは、主が告げられた約束を待ち続けていました。彼らの思いを一つにしていたのはイエス・キリストが天に挙げられる前に告げられた、「エルサレムを離れず、私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい・・・あなた方は間もなく聖霊による洗礼を授けられる」という約束であり、また「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」という約束でありました。キリストが天に挙げられたその日から、弟子たちは集まって祈っていました。バベルの町の人々は神さまから自分たちを引き離し、神さまに並び立つために集まっていましたが、弟子たちは主の約束に信頼して集まり、主を仰ぎ、主に従うために祈っていました。彼らの中に時折、“主は約束をいつ叶えてくださるのだろうか、叶えられる日は本当に来るのだろうか、主が約束されたものはこの嵐のような現実の中で力となるのだろうか”、そのような疑問が湧き上がったとしてもおかしくない厳しい状況の中で、心を合わせて、ひたすら祈り、待ち続けました。その人々に聖霊が注がれ、最初の教会が生まれました。教会は、キリストはどんなことがあっても約束を実現されること、神さまはご自分の民を、どんなことがあっても忘れず、見捨てられないことのしるしです。予期せぬ出来事に揉まれるこの現代において、私たちの方が神さまを見失うことがあっても、神さまが私たちを見失うことはありません。この神さまの霊が注がれて、ペンテコステの日以降、教会の歴史が紡がれてきました。

 

この日、ペトロは共に聖霊を受けた他の弟子たちと共に立ち、彼らの先頭に立って人々の方へと踏み出し、語りました。ペトロはかつて大祭司の庭で、召し使いの女性から「あなたもあのイエスと一緒にいた」と言われて、三度もそんな人は知らないと、呪いの言葉まで口にして、主イエスとの関わりを否定しました。主イエスの愛を誰よりも近くでいただいてきた自分が、その主イエスの愛を裏切ってしまった、その日の出来事がペトロの記憶から消えることは無かったでしょう。そのペトロが、堂々とキリストの弟子であることを明らかにして人々の前に立ち、驚き、訝しげにしている人々に向かってキリストを証しします。他の弟子たちも、同じようにそれぞれに主イエスを裏切った消えない過去を抱えた彼らが、それぞれ人々に向かって語ります。神さまの霊が一人一人に留まり、共におられたからです。彼らが語ったのは、彼らの関心や願望ではなく、十字架の言葉であったから、天から降って来られ、人となられた命の言なるキリストのことであり、裏切ってしまった自分たちの罪をも背負って十字架にお架かりになり、自分たちを罪と死から救い出してくださったキリストを証しする言葉であったからです。

 

あらゆる国から来た人々が、自分の故郷の言葉でガリラヤ出身の弟子たちが福音を語るのを聞いたと言われます。あらゆる言語があちらこちらで語られています。発音やアクセントといった語り方の調子も、語彙もバラバラな言語が混在するその状況は、混乱と呼べるものかもしれません。不協和音が渦巻いていたかもしれません。けれどそれぞれの言語とその背後にある様々な違いを保ちながら、全ての人を罪と死から救う喜びの知らせが告げられ、誰もがその言葉を理解することができている情景は、何と祝福に満ちたものかと思います。神さまの祝福は言語の違い、言語に反映されているそれぞれの違いを越えて、伝わります。そうして弟子たちは人々に福音を伝え続け、天に挙げられる前に主が弟子たちに約束されたように、エルサレムの外へと散って行き、福音と神さまの祝福は全地へと広がっていったのです。

 

 

誰の目にも無力な者たちであった弟子たちが、聖霊によって力を受け、命の言葉を世に宣べ伝える教会とされました。この美竹教会も、神さまの霊が注がれて立ち、今も立ち続けています。世界中に広がっている他の教会と同じように、私たちの特別な力ではなく、ただ主の熱意によって教会とされ、ただ神さまから受ける力によって、神がみ子の血によってご自分のものとしてくださった神の教会であることを、証しし続けています。教会は神さまへの感謝に溢れています。しかしまた、福音を語るふさわしさを持っていないことを知る者であり、主の愛を裏切ってしまったと悔い改めなければならないことをそれぞれ抱えている私たちです。それでも主イエスの恵みを誰かに語ることができるのは、神さまが霊を注いでくださるから、霊において主イエスが共にいてくださるからです。キリストが宣べ伝えよと託された言葉は、様々な違いを持つ私たちがそこにおいてのみ一つとなれる、祝福の言葉であるのです。