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助け手が与えられる

「助け手が与えられる」創世記2:1825、Ⅰヨハネ137

2022515日(左近深恵子)

 

 人の、そして人を取り囲む世界の出発点を神さまはどのようなものとされたのか、そもそも人や世界はどのようなものなのか、み言葉によって私たちの根源にあるものが照らされることを願い、私たちの今とその先の歩みが主の光の内に在ることを願って、創世記に聴いています。

 

創世記1章の創造物語が24節前半で締めくくられたと思ったら、そこからまた創造の物語が始まります。1章の創造物語の内容と違うところもあります。二つの創造物語が創世記にあるのは、それぞれ異なる時代の異なる人々に向かって語られたものだからです。一つ目の創造物語が語りかけたのは、捕囚の民でした。神さまの聖なる都であるエルサレムが、そして信仰と生活の中心であった神殿が破壊され、王国が滅亡し、支配国バビロンの地に強制的に連行されてきたイスラエルの人々は、混沌と闇に覆い尽くされていたと語られる原初の状態に、自分たちが呑み込まれている歴史の淀んだ深い渦を重ねながら、深淵の面を神さまの霊が自由に動かれて始まる創造のみ業に耳を傾けたことでしょう。天から地へ、更に人間へと、徐々にカメラが人間へと迫ってゆくように創造は語られます。神さまは混沌の中に新たな秩序を与えては「良し」とされ、生き物をお造りになっては「良し」とされます。濁流のような力が圧倒的な支配者であるように見えたとしても、世界を成り立たせているのは混沌ではないのだと、歴史に揉まれ、押し流されそうになっていても、人は神さまによって命と存在を与えられた者なのだと、神さまがご自分にかたどって創造された者なのだと、深く聴いたことでしょう。

 

 二つ目の創造物語が語られた時代や状況については、はっきりしていません。おそらく一つ目の創造物語よりもかなり前の時代であっただろうと考えられています。語られた時代は違っても、二つ目の創造物語が最初に描くのも危機的な状況です。大地は乾燥しきって、命あるものが生きて活動することができない砂漠のような情景です。

 

神さまのみ業は、その荒れ地の面すべてを潤されます。砂漠は、命あるものの活動の場へと変えられていきます。そして神さまは人を造られます。人のために、エデンの園と言う住むところを与えられます。川が大地を潤し、人が糧を得られるあらゆる木々が大地を覆っています。一つ目の創造物語でもそうでありましたが、二つ目の創造物語も、神さまは良しとされるものを世にもたらしてくださる方であることを明らかにします。それも、人が生命を維持するために必要低限なものというより、与えられた命の日々を、選択し、決断しながら豊かに生きることができるように与えてくださる方です。エデンの園の植物は、糧を得られるだけではなく、「見るからに好まし」い、目も心も楽しませてくれるものであります。「あらゆる木を地に生えいでさせ」と、多種多様な木々から選ぶことができます。そして人はただ恵みを受けているだけでなく、神さまの創造のみ業に参与する喜びも与えられます。神さまは「人をエデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされ」ました。一つ目の創造物語においてもそうであったように、この創造物語でも、人は神さまから特別に重要な使命を与えられています。自分の働きが、神さまが望んでおられる、神さまに喜ばれるものであると知ることができるのは、人にとってどんなに幸いなことでしょうか。

 

創造物語を最初に聞いた人々も私たちも、潤いの無い、荒涼たる現実がどんどん周りを侵食してゆくような情景に、揺さぶられる者であります。しばしば生きることに疲弊してしまう私たちに、創世記は、人をお造りになり、命を与えてくださった神さまのみ心に立ち帰り、神さまの恵みを知ることへと招きます。 

 

 安全で豊かな住まいと、神さまに望まれている使命を与えられた人ですが、これで人の創造は終わりとなりません。神さまはこれでは「良くない」と言われます。「良し」とされたという言葉が繰り返されてきた創造物語の中で、この「良くない」という言葉が重く響きます。人の側から、この状態は良くないと主張したのではありません。外敵のような危機が存在せず、糧に困ることもなく、為すべきことをはっきりと知らされている人は、自ら自分が良くない状態にあることに気づくことは無いかもしれません。人を真に理解しているのは、人自身よりも神さまです。人は自分に本当に必要なものを知ることも、それを造り出すこともできません。私たちに先立って神さまが私たちの良くない状態にみ心を痛めてくださり、必要なものを求めてくださり、創造のみ業を推し進めてくださいます。

 

 神さまは「人が独りでいるのは良くない」と言われます。人は常に誰かと居なければいけないと言うことではありません。「彼に合う助ける者を造ろう」と言われます。「ふさわしい助け手を造ろう」とも訳されています。神さまが人のために、関わり合う相手、人に合う助ける者、人にふさわしい助け手を、望んでくださいます。

 

創造物語はこの時まで、「人」は、性別を前提とせずに語られてきました。女の人が創造されたことで初めて、人が男と女とに創造されたことが示されます。この創造物語で最初に「人」のことが述べられた時、人は土(アダマ)の塵で形づくられたことに焦点を当てる仕方でアダムと呼ばれています。土を表す言葉で呼ばれる人という者は、もろい存在です。乾ききった大地の土は、そのままでは強風に散らされていきます。そのような土の塵は、神さまが潤してくださり、神さまが形づくってくださらなければ、形を取ることができません。男であろうと女であろうと、どの人であろうと、人はそのような者であります。

 

この創造物語は、動物も神さまが土で形づくられたものだと語ります。人も動物も、やがて塵に帰って行きます。外側は変化し、形も機能も弱っていきます。それは土の塵から造られた者にとって自然な、当然のことであります。しかし人間についてだけ、神さまはその鼻に命の息を吹き入れられたことを語ります。人は、形だけ整えられた人形のようなものではなく、生物学的な生命を維持するだけのものでもなく、神さまが命の息を吹き入れてくださることによって生きるようになる者です。自分の命を自分の所有であると思いたがり、人の価値をやがて塵に帰ってゆくものに依って測ろうとする私たちです。しかしまるで神さまが屈みこみ、み顔を近づけ、そっと息を吹き込み、内側を神さまの命で、神さまの霊で満たしてくださるようなみ心とみ業によって、私たちは命あるものとされたと、創世記は語ります。変化し、弱り、衰えていく形あるものが人の価値を決めるのではなく、人を生かすのでもなく、それらがどんなに変化し弱っていっても、変えられない、弱らされない神さまの命の息が、人を生きることへと力づけ、より満たされることへと導くのだと、私たちは造られた出発のところから示されるのです。

 

神さまの息を深く吸い、神さまの息を呼吸するように生きていく人間には、その息遣いを互いに感じることができる相手が必要です。神さまは人に「合う」相手、「ふさわしい」相手を造ろうと言われます。「合う」「ふさわしい」と訳された言葉は、「向き合う」、「相対する」といったこと、対等に向き合う関係を意味します。「助ける者」「助け手」と訳された言葉にも、立場の上下を表す意味は何も含まれていません。「助ける」という言葉も、具体的な援助の一つ一つを指すと言うより助けそのものを指しており、この言葉は詩編やイザヤ書でしばしば、神さまの救済を指して用いられています。先ほど交読しました詩編121編にも、「私の助けは来る。天地を造られた主のもとから」とありました。山道を行く旅が今以上に危険を伴った時代に、前方にそびえたつ山々を見上げ、そこで待ち受けているかもしれない困難を思ったように、命の旅路の先に潜む、避け難い苦難を人は不安と共に思います。しかし足がよろめいても、創造主なる神はこの旅を守ってくださると、助けはただ神さまからもたらされると、信頼を歌っています。人に必要な神さまからの助けは、誰かを通してもたらされます。神さまの命を呼吸するように生かされている人間こそが、神さまから自分がいただいた助けを、相手に渡すことができます。向き合う者、相対する者とは、相手の背後にいるのでも、上にいるのでも無く、真正面にいます。真っすぐに向き合う、対等な交わりの中で、神さまから来る助けを渡すために、手を差し伸べ合うことができます。神さまがお造りになるのは、「補助者」と「助けられる人」の関係にある者たちではなく、お互いに相対し、助け合う関係にある者たちです。

 

神さまは人のパートナーを造られますが、その前に様々な動物を造られ、人のところへ連れて来られます。人は神さまがお造りになったそれら生き物たちの素晴らしさに感嘆しながら、神さまの権威の下、一つ一つに名前を付ける喜びも与えられます。名前を呼ぶということは、生き物たちを認識し、これから関りを持っていこうとしていることを表します。しかしどんなに素晴らしくても、愛らしくても、動物は人の名前を呼ぶことも、意味のある言葉を返すこともありません。対等な関係を築くことができません。多くの生き物に囲まれていても、人は孤独なままです。動物の中に自分の助け手がいないことを見出した人を、神さまは深い眠りに落とされ、そのあばら骨の一部から相手を造り上げたとあります。死んだように深い眠りに落とされていたこの人は、もう一人の人の創造に全く関わっていません。自分の創造に自分が関わることができないように、他者の創造も、ただ神さまからの恵みです。土の塵から造られた者である人の、その一部から造られたこの人も、やはり土の塵から成り、塵に帰る者です。しかしまた、あばら骨は、人の最も大切な臓器守る骨です。心がそこにあると考えられていた胸を守る骨から造られたと言うことは、互いにその人の心、その人の本質に最も近い存在として、造られたと言えるのかもしれません。こうして神さまがもう一人の人をお造りになったことで、二人には同時に互いの存在が与えられました。女の人の創造によって、それまで全ての人間の代表のような存在であった人は、男の人として存在する者となりました。男の人は神さまが連れてきてくださった相手こそ、自分のパートナーだと、喜びを露わにします。動物に名前を黙々とつけていた時の静かな様子とは一転して、嬉しさに溢れ、神さまの創造のみ業の最高傑作だと、喜びの声を挙げます。創造主によって自分自身のことを、自分も相手も創り出す力を持たない者であり、荒涼たる現実を潤すこともできない者であると知り、相手も自分のように限界のある者であることを知り、その相手が神さまから与えられたことに信頼し、神さまを通して相手を受け入れる、喜びの歌を歌います。女の人の言葉は記されていませんが、女の人も相手を同じように神さまを通して知り、受け入れたということなのでしょう。互いに相手を神さまからの助け手であると受け入れる者たちは、一体となるのだと、最初の夫婦の出発が語られます。当時の父系社会における結婚は、女の人が自分の家を離れて男の人の家に入ることと考えられていましたが、聖書は敢えて男の人が父母を離れると語ります。それぞれが自分のそれまでの世界の全てであったものから踏み出し、パートナーを与えてくださった神さまへの信頼を土台に、一つとなる道を共に歩み出します。人と人との関りは、踏み出せば自動的に一つに成れるような容易いものではありません。真に一つとなることを求めて、神さまが与えてくださった土台に立ち返ることを繰り返しながら、一つとなって、互いに神さまの助けを差し出し合い、支え合うことが、結婚の目指すものであるのです。

 

ここで語られているのは、最初の夫婦です。しかし人が他者と関りを築いていくことにもつながるのだと、多くの人が受け止めてきました。人とのつながりは、友情によるものもあり、そのつながりが三人、四人と増えれば、それはパートナーの集団であり、聖書的に言えば共同体となります。人は誰でも助け手の存在を必要としている者であり、誰かの助け手となり得ることを神さまは望んでおられ、一人一人にそのような助け手を与えたいと願っておられます。人は本来、自分と同様に神さまから存在と命を与えられた他の人々と、神さまから与えられた命を支え合い、恵みを分かち合い、使命を共に担い合う在り方の中で、喜びに満たされる者として造られていることを創世記は語ります。

 

 

互いに対等に向き合い、助け手となり合うことができる者として造られながら、私たちは罪によってそのような関係を築くことができず、互いが抱える闇によって関係を歪ませてしまう者であることを、否定できる人はいません。神さまが私たちのために与えてくださったみ子イエス・キリストが、十字架を通して私たちを一つの身体として神さまと和解させてくださり、一つとなれない者同士をご自分において交わりを築くことができる者としてくださいました。「私たちの交わりは、御父とみ子イエス・キリストとの交わりです。」とヨハネの手紙も述べています。「神は光であり、神には闇が全くない・・・神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、み子イエスの血によってあらゆる罪から清められます」と言われます。私たちが真に神さまの命の息を呼吸することができるように、人と人との交わりにおいてこそ輝いて生きることができる私たちが、輝いて生きることができるように、十字架にお架かりになったみ子によって、一つとなることを求めていきたいと思います。そして、私たちが支えたいと願いながらその人を支えきれない時にも、私たちがその人の傍らに居られない時にも、神さまが共にいてくださることに信頼し、助けを祈り求めてまいりたいと思います。