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立ち止まり、恵み味わう日

「立ち止まり、恵み味わう日」創世記2:1~3、マタイによる福音書11:28~30

左近 豊

 

安息日のことを英語圏などでは「Sabbath」ということがあります。サバティカル(7年に一度の休暇年)という言葉も、そこから来ています。この「Sabbath」は旧約聖書のヘブライ語「シャッバート」に由来する言葉です。「休む」という意味もありますが、もう一つ大事な意味に「止(や)める」という意味を含む言葉です。一週間何であれ続けてきた日常を、この日に限っては断つ、普段成り行きで続けているルーティーンを一旦止める。日常という軛につながれて自分でも止めたいけれど止められないハビットや習慣の渦に巻き込まれて、追い立てられる“時”の奴隷にならないために。天地を創造された神は7日目を、「止(や)める」日を、「休む」日をあえて造られた、疲れたから休まれたというのではないのです。神様はお疲れになる方ではありません。むしろ、自然の流れを断固として断ち切って、楔を打つようにして、特別な日「Sabbath」をあえて創造された。それが天地創造の7日目なのです。

天地創造の完成に、「安息」の日が据えられている。「止(や)める」日、「休む」日が定められている。この創世記第一章の言葉を最も深く、慰めの言葉として聞いたのは異教の国バビロンに強制的に連行された人たち(捕囚の民)でした。大きな歴史の渦に巻き込まれ、抗いようのない力にねじ伏せられた人たちにとって、意に沿わない日常が、存在の耐え難い軽さを事あるごとに突き付けられて砂をはむような日々が、決して永遠に回帰し続けるのではない。必ず一週間に一度Sabbathによって断ち切られるものなのだ、と魂に刻む日。そして、だれも奪うことのできない自由の内に人は造られていることを確認する日を、神は天地創造の秩序の頂点に備えていてくださった。だから安息日は、喜びの日であり、慰めの日であり、生きなおす日であり、救いの日、連鎖を断つ日でありました。

 安息日と聞くと、何もしてはならないことに全神経を集中する緊張を強いられる日のようなストイックなイメージで受け取られることがあるかもしれません。けれども、実際には、大いに喜び、存分に、本来あるべき自由を謳歌する日として守られてきました。あるユダヤ教の方たちの安息日の過ごし方について書いたものを読んだのですが、安息日には、確かにエレベーターのボタンも押さない、火を扱う家事をすることも避ける、あらゆる労働につながることは回避するのは確かなのですが、家族や友人、信仰の友と一緒に礼拝と聖書の学びをし、集まって共においしいワインを楽しみ、前日用意しておいた豊かな糧を囲んで、歌い、物語を語りあかして過ごす、喜びはじける日だということでした。

それはキリスト教にも受け継がれていることを、ふと留学時代に訪ねたいくつかのアフリカ系アメリカ人の方々が集う教会の日曜日の記憶とともに思い出したのです。大人も子どもも老いも若きも、着飾って誇らしさと喜びあふれてゴスペルの讃美が会堂全体に震えるほどに響いていました。心の奥底から注ぎだされた祈りをささげ、韻を踏みながらリズミカルで笑いあり涙ありの牧師のメッセージ。いただいたみ言葉に応えるようにして、聖歌隊や楽団の讃美がこだまして、いつ終わるとも知れない礼拝に時を忘れて過ごし、実にパウロがいうように「今や恵みの日、今こそ救いの日」(IIコリント62)であることを満喫しておられる礼拝者の姿を昨日のように思い起こしました。その教会があるアメリカ南部では、未だに、いわれのない差別や肌の色だけで見下される偏見の中を一週間歩まざるを得ない現実が横たわっています。生きづらい日常を余儀なくされている。けれども安息日に礼拝で、神の前にあって「神のかたち」に造られた、尊いものとして創造された、何人も奪うことのできない尊厳と自由を与えられているのだ、ということを、噛みしめ、神のお造りになった本来の我に返って恵みの日、救いの日を満喫する喜びに包まれるのが、安息日であることを味わいました。神様は主の日に、この喜びの中に招いていてくださる。

「安息日」は、ただ何もしない日ではなくて、普段していることを止めて、集まって心を高く上げる日です。魂の原点に目を留めるために、一旦ルーティンに追われる生活をリセットして、放っておけば、つい流されてしまう自然の流れに楔を打ち、断ち切って、神の「かたち」として造られた人であることの尊さをみ言葉を聞いて思い起こす。何によって生き、また死ぬのかを立ち止まって顧みて正気を取り戻す日です。さらに神がその独り子を賜るほどに愛された世に生きる者として、本当にそれにふさわしく互いを重んじる社会に生きているかどうかを吟味する、そうでないならばそうあるように、生命と自由、平等と正義を回復するために、本当に人間らしい生活を誰もが送ることができるように心を傾けて、生きなおす、御国を来たらせたまえとの祈りを新たにされる日、それが本来の安息日と言えるでしょう。

 十戒の安息日に関する教えは、出エジプト記20章と申命記5章のそれぞれの真ん中に出てきますが、安息日を覚え、あるいは安息日を守り、これを聖別しなさい、他の6日とは区別して重んじなさい、6日間働いて、なすべき働きを精一杯しなさい。しかし7日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしない。それは家族も奴隷も牛やロバなどの家畜も町の中にいる寄留者(故郷を失ってたどり着いた難民や債務を抱えて破綻して家を失った人たちに至るまで)例外なく適用されるのだ、と。そして出エジプト記の十戒の方では、今日の創世記を引き合いに出しながら、主は安息され、その日を祝福し、聖別されたから、安息日を覚えるのだ、と理由を述べるのです。ところが、それに対して申命記の十戒の方は、天地創造が理由ではなくて、出エジプトの出来事が引き合いに出されます。安息日を守ることで、奴隷たちもあなたたちと同じように休息できることになる。あなたがエジプトの地で奴隷であったのを、あなたの神、主が、力強い手と伸ばした腕で、あなたをそこから導き出したことを思い出すためだ、と。そのために主は安息日を守るようにと命じられた、と述べているのです。安息日は、信仰の家族や仲間などにとどまらない、様々な背景をもって共同体に連なっている寄留者まで含めて、救いの出来事を追体験しながら、信仰共同体の礎にある決定的な出来事、救いの出来事を思い起こす日なのだ、と。

主の日に、私たちは何を思い起こすのか。私たちの救いの出来事は何か。

昨年度、一年間礼拝で聞き続けてきたマルコ福音書は、主イエスが「安息日の主である」ことを証しし、明らかにしてきました。安息日を巡っては、3章冒頭で主イエスが、手の萎えた人を癒されたことから、主イエスをなきものにしようという相談が始まり、十字架へと至ることになります。

受難週のクライマックスの金曜日にイエスキリストは十字架につけられ、死んで葬られ、安息日であった土曜日に主イエスは陰府に降られました。神の御業がなされることもなく、神を賛美することもない、とされていた陰府にまで、主イエスは、安息日の土曜日に降られて、そこをも神共にいますところとされて、週の初めの日である日曜日に復活をさせられたことで、究極の救いの御業がなされたことを聖書は証しします。死と陰府という深い河の向こうに、闇を裂いて3日目の朝日の光の中に、新しい命の約束を成し遂げられた御業。そしてその御業に生かされ、受けたことを伝える新しい共同体である教会は、主の復活の日曜日を安息日として「心に留め」「守る」ものとされたのです。 

 

毎週日曜日の朝行われる礼拝は、「安息日の主」であるイエス・キリストの復活(イースター)を思い起こし、喜ぶ時として、2000有余年、世界中の教会で守り続けられてきました。「すべて重荷を負って苦労している者は、私の元に来なさい、あなた方を休ませてあげよう」とおっしゃる方が、真の安息へと招いてくださっている。わたしたちの負うべき軛を代わりに負ってくださる主を知ることへと招き入れられている。一週の初めに、イエス・キリストの十字架と復活によって、的はずれな生き方(罪)の縄目から救い出され、死に至る空しさから新しい命を仰ぎ見る望みを新たにされて、一週間を踏み出すものとされています。週の初めに、胸いっぱい爽やかな空気を吸って身も心もリフレッシュするように、主日礼拝に、神の息吹を魂に満たして人生の歩みを整えてゆくものとされている幸いを感謝しながら、新しい週へと押し出されてまいりましょう。