マルコ16:9~18「すべての造られた者に福音を」
2022年4月17日(左近深恵子)
感染症の影響下、先の見通せない日々が続いています。加えて、理不尽な仕方で、大切な人々や自分の故郷、生活、健康、尊厳、命を奪われる人々が日を追うごとに増えていくことに、やりきれない思いが募ります。教会の暦でレント(受難節)と呼ばれる期間を、主イエスの苦しみと死を思いながら過ごしてきました。自分の罪を全て償うことができない、自分の罪の重みをしっかりと認識することもできない、たとえ認識できても前の状態へと完全に回復させることができない私たちに代わって、主は、私たちの罪の責任を死に至るまで負ってくださった、私たちの罪に対する裁きの死を死んでくださった、この十字架の救いは私たちの現実に直結しているのだと、これまで以上に考えさせられることの多かったレントでありました。
主イエスの後に従ってきた人々は、主が十字架で死なれた後、まさか本当に死んでしまうとはと、打ちのめされる思いであったことでしょう。それも十字架という最も不名誉な処刑法でやすやすと殺されてしまうなんて、そんな思いであったかもしれません。その主を自分たちが見捨てたことも、彼らを打ちのめしていたかもしれません。彼らが主に従うようになったのは、この主イエスという方は先の見通せない人生への不安や、理不尽な出来事に苦しみ悲しむ現実を退けてくださる方だと、このイエスと言う方は神さまが遣わされた方であり、神の国をもたらし、王となってくださる方だと信頼したからです。自分にとって大切な人との死別は、その人と関わって来た自分のこれまでも奪われるような痛みを引き起こします。まして主イエスに従うために、それまでの人生の全てを捨てて主に従った者も少なくない弟子たちです。この方になら自分の人生の残りを丸ごと委ねられる、そう神さまと主イエスに信頼したからでしょう。死は主イエスと共にこの先続くはずだった人生も奪ってしまったと、主イエスの命が十字架で潰えた時に、主イエスへの信頼も期待も潰えてしまった、虚しさや悔しさに襲われていたかもしれません。
ガリラヤからエルサレムまで主イエスに従ってきたマグダラのマリアを始めとする婦人の弟子たちも、主イエスの死によって、人生が行き止まりにぶつかってしまった者たちであったでしょう。しかしこの婦人たちは、行き止まりにぶつかってしまったそのところで、自分たちに対処できることを探し出し、行動を起こすことで、主イエスの死と渡り合おうとします。生きておられる主にはもう手が届きません。しかし、彼女たちにとって主の命の名残りのようなその遺体にならまだ手が届く、遺体をもっと丁寧に葬ろうと、安息日が明けた日曜日の朝、香料を手に、連れ立って主の身体が納められたお墓へと急いだのでした。
マタイによる福音書は、かつて主イエスの弟子の一人のペトロが、主イエスが「メシア、生ける神の子」であると、言い表すことができた時、主はペトロとそこにいた弟子たちに向かって主が言われた言葉をこのように記しています。「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」(マタイ16:17~18)。「陰府の力」を新しい翻訳である聖書協会共同訳は「陰府の門」と訳しています。聖書において陰府とは、死者が集められる場所と考えられています。大切な人が死んで陰府の門の向こう側に行ってしまったら、残された者たちにはどうすることもできません。陰府の門をこじ開けて取り返すことができない私たちは、死の力の前で本当に無力です。けれど主イエスは弟子たちに、陰府の力、陰府の門も、ご自分の教会には対抗できない、打ち勝つことはできないと、主がその門を開いてくださり、そのお力をご自分の教会に委ねてくださると約束してくださいました。十字架で死なれた日から数えて三日目の日曜日の朝、神さまは陰府の門を開き、お墓の入り口を塞いでいた大きな石をどかされ、主イエスをよみがえらせてくださいました。復活された主イエスは先ずマリアにご自身を現されました。陰府の力に打ち勝つ神さまのお力を、復活の主はマリアに、そしてその他の弟子たちに、示してくださったのです。
先ほど共にお聞きしましたマルコによる福音書の16章9節以降は、括弧の中に入っています。この括弧は、それまでのマルコによる福音書が書かれた時代よりも後の時代に書かれたと考えられていることを示しています。8節の終わりの部分が、書かれた当時このような終わり方であったのか、それともその後に続いていたものが失われてしまってこのように唐突な終わり方になっているのか、学者たちの考えは一つではありませんが、9節以降が後から書き加えられたということでは一致しています。9節以降の内容は、その時代に知られるようになっていた他の福音書の記述も含めながらまとめられたように見えます。主が最初に現れてくださったマグダラのマリアが、以前主イエスに7つの悪霊を追い出していただいた人であると言われていることは、ヨハネによる福音書の記述と重なります。二人の弟子が田舎の方へ歩いて行く途中、主が現れてくださった出来事は、ルカによる福音書の「エマオ」と呼ばれる場所に向かう途中の出来事を示しているようであり、11人の弟子たちが食事をしている時に現れてくださった出来事は、ヨハネによる福音書とルカによる福音書に記されている出来事と重なっているようです。これらの出来事が起きる流れも、ルカによる福音書と呼応しています。既に教会に伝えられていた、復活の主が現れてくださった出来事をいくつかを、後の教会が簡潔にまとめたのでしょう。しかしそれは切り貼りをして福音書の終わりにふさわしく体裁を整えた、ということではありません。それまでマルコによる福音書が証してきたことをここでも大切に受け継ぎながら、8節までに語られた主イエスの復活を、より明らかに語ろうとしています。同じ時代に、同じ書き手によって書かれたものではなくても、復活を何とかして証しようとする姿勢は、9節以降も変わらないのです。
8節までと9節以降を通してこの福音書が重ねて語るのは、主の復活を伝えられても、受け止められない弟子たちの姿です。お墓でマリアたちは、他の福音書では天使と呼ばれ、この福音書では白い衣を着た若者と表現される者から、主イエスが復活されたことを聞きます。けれどマリアたちは怖がるばかりです。天使から他の弟子たちに、主イエスが先にガリラヤに行かれるからそこで会うことができると伝えなさいと言われても、何も言えないままです。そのマリアが、9節以降で復活の主にお会いすると、他の弟子たちのところに行ってそのことを伝える者となります。けれど伝えられた弟子たちは、マリアから聞いたことを「信じなかった」とあります。その弟子たちの内の二人が、復活の主にお会いします。すると今度は彼らが残りの弟子たちに復活を伝える者となります。しかしこの残りの弟子たちは、「二人の言うことも信じなかった」とあります。信じなかった、という言葉が繰り返されています。信じない弟子たちの只中に現れてくださった主イエスは、彼らの不信仰と頑なな心をお咎めになります。「復活されたイエスを見た人々の言うことを信じなかったからである」と、お咎めになった理由が述べられます。
この言葉から主イエスは、ご自分の復活を直ぐに信じないことを嘆いておられるのではないことに気づかされます。弟子たちはかつて主イエスから、エルサレムに向かう旅の途中、三度もご自分の受難と死と復活を告げられてきていました。それなのに空の墓を見てもその意味が分からないのかと、主はマリアたちを咎めてはおられません。空の墓で何が起きたのか天使から告げられても恐れるばかりで、示されたように行動することができないからと、マリアたちを咎めてもおられません。人が復活の使信に触れることと、それを受け入れることの間に、厚い壁が立ちはだかっていることを、主はご存知であるのでしょう。しかし、復活の主に出会った者たちから重ねて主が復活されたという福音を聴きながら、その度にその福音を退ける弟子たちに対しては、咎めておられます。自分と同じように主イエスに従って来た仲間たちが、勇気を出して主が復活したと語る、復活の主が自分に現われてくださったと言う、その証言をマリアからも二人の弟子からも聞く、それでも証言に耳を傾けようとしない弟子たちの心の頑なさを嘆かれます。証言を退けることは、かつて主が彼らに告げられた三度の受難と復活の予告を退けることでありました。そして、主イエスが語って来られたその他の福音を、真実の言葉として聞くことを、しないということでした。自分から大切なものが取り去られ、自分の中には宛てになるものが何も残っていない、自分が持っているものは自分を救うほどの力では無かった、そう気づかされる危機においてこそ、主の言葉を真実の言葉として聞いているかどうか、私たちは問われます。厚い壁に阻まれている主の復活でありますが、私たちと同じように壁に阻まれながら信じることへと導かれた人々の、キリストとの出会い、キリストの導きを語る証言が、一つ一つ聞く人の内側に層を重ねていく、そうして復活の福音は伝えられていく、そのようなキリストのみ業と人の証言の積み重ねを頑なさで退けてはならないと、主は教えてくださったのではないでしょうか。
驚くことに主は、この弟子たちに、「全世界に行って、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」と言われます。主から不信仰を嘆かれ、その心の頑なさを咎められたばかりの、まだ復活を信じたとも、主の復活を喜んだとも言われていない弟子たちに、告げられたのです。復活の使信を阻む壁がどれほど厚いものなのか、良く知る者たちに、主イエスは不信よりも、頑なな心よりも、主のみ業にお応えして、主のみ業と層を成すように重ねられていく人々の証しがもたらす実りの方が勝ると、人間のあらゆる抗いに増して神さまのみ業が行われると、だから福音を宣べ伝えなさいと教えられます。パウロがテモテに記した手紙の中で述べているように、「私たちが真実でなくても、この方(キリスト)は常に真実であられ」(ⅡテモテⅡ:13)るのです。
陰府に降られた主イエスを死者の中から甦らせた神さまのお力を宣べ伝える弟子たちの、そして教会の業は、人々を信じて洗礼を受けることへと導く神さまのみ業に加わるものとなるのだと、主は福音を宣べ伝える働きにもたらされる喜びを示してくださいます。教会はその初めから、私たちと同じように不信や頑なな心をしばしば抱えてしまう一人一人が、同じ復活の主を仰ぎながら、主の恵みと導きにお応えしつつ紡ぐ言葉と業によって、福音を宣べ伝え、今に至り、今日のこのイースター礼拝に、世界中で今日捧げられるイースターの礼拝に、至っています。十字架の死において、私たちの代わりに罪の値を支払ってくださったキリストが復活された、キリストの復活は遠い過去のことではなく、生けるキリストが今、私たちと共におられ、キリストに従う私たちの歩みも、キリストに寄せる信頼も、期待も、キリストによって抱く目標も、私たちの死によって潰えない、この福音は、全ての造られた者に伝えられるべき、喜びの知らせです。復活によって生けるキリストが私たちと共にいてくださるようになりました。そのキリストに、礼拝において、特に聖餐の食卓において、私たちはお会いすることができるのです。