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キリストは誰がために

マルコ152132「キリストは誰がために」

202243日(レントⅤ、左近深恵子)

 

 良い兆しが見えてこない社会の情勢に胸が締め付けられるような日々が続いています。人々のごくありふれた生活を一変させてしまう、家族も時間も健やかさも奪ってしまうものが、人間の中にあることの悲しさ、そのようなものから自由になれずに、そのような流れを押しとどめることができずにきたことのやりきれなさを思います。今、目にしてはいなくても、報じることさえされず、多くの人に認識さえされていない現実が、世界の他の地域にも、私たちのこの社会にも厳然とあることを受け止めるようにと背中を押されます。人間の中にある、他の人々のことも、自分自身も、悲惨さに引きずり込んでしまう闇を思いながら、レントを歩んでいます。

 

イエス・キリストの苦しみを辿るレントは、人間とはこのようなものなのかと知る時間でもあります。自分のことさえよく分からない、見つめきれない私たちです。まして他者の心の奥底は理解しきれません。主は、人間の奥底のその闇に包まれたところまで見つめ続け、その人間のために苦しみを担ってくださったことを思わずにはいられない今年のレントです。今日と受難週の来週、いよいよ十字架の出来事を聖書から聞きます。私たち人間にどのような恵みが与えられているのか、共に聞いてまいります。

 

主イエスはローマ帝国のユダヤ総督ピラトの下で死刑の判決を受け、処刑の場であるゴルゴタに行くため、外へと引き出されたところから今日の箇所は始まっています。主イエスの弟子の一人が裏切り、かねてから主イエスを殺す策を練っていた祭司長や律法学者に主イエスを引き渡しました。祭司長や律法学者たちは、自分たちを支配するローマ帝国の権威によって主イエスを死に至らせるために、ピラトに引き渡しました。ピラトは主イエスに何の罪も見いだせないのに保身のために主イエスを十字架につけるために引き渡しました。十字架刑を実際に執行する兵士たちに主イエスを託し、彼らに処刑を任せたのでした。

 

ピラトの兵士たちは、主イエスが、自分の弟子や自分の民の指導者たちから彼らの王であることを否定され、見捨てられ、ピラトにも見捨てられた結果、自分たちに託されたことを知っています。16節から27節まで、兵士たちが主イエスに対して為した行為が、兵士たちを主語に続いています。このように記されています。「兵士たちは・・・主イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集め、主イエスに・・・紫の服を着せ、いばらの冠をかぶらせ、『ユダヤ人の王、万歳』と敬礼し始め、頭をたたき、唾を吐き掛け、跪いて拝み、侮辱し、元の服を着せ、外に引き出し、十字架を無理に担がせ、ゴルゴタに連れて行き、ぶどう酒を飲ませようとし、十字架につけ、主イエスの服を分け合い、主イエスと一緒に二人の強盗も十字架につけた」と。それらの中に、死刑の執行とは関係の無い、主イエスに対する侮辱も繰り返されています。王であることを否定され続けて自分たちの下に送られてきた主イエスを、敢えて王のように扱うことで、王であることを更に否定する行為です。紫の服や茨の冠を身につけさせ、「ユダヤ人の王、万歳」と呼び、嘲りに満ちた敬礼と拝礼をし、再び衣装をはぎ取って元の服を着せる。ゴルゴタで主イエスを十字架につけると、来ていた服をくじ引きで分け合う。罪状書きを「ユダヤ人の王」として、主イエスのみならず、ローマ帝国からの独立を夢見るユダヤの民のことも軽蔑して楽しみます。これまで主イエスを否定し、見捨てた弟子たち、民の指導者たち、ピラトと続いてきた列にまるで当然であるかのように兵士たちも加わっています。任務以外で彼ら自身が考え、行ったことの大半は、主を侮辱する行為です。ピラトの官邸からゴルゴタまで、主イエスを囲んでいたのはこのような兵士たちでありました。

 

主イエスを見捨て、死へと追いやる流れの中に一人の人が巻き込まれた出来事も、聖書は伝えています。兵士たちは、たまたまそこを通りかかった、北アフリカキレネの出身であるシモンという人に、主イエスの十字架を無理に担がせます。夜通し尋問され、暴行と暴言、嘲笑を浴びてきた主イエスにはもはや十字架を担う体力が残っていないと、このままでは自分たちに課された刑の執行という務めを果たすことができないと彼らは考えたのかもしれません。シモンについて聖書は、アレクサンドロとルフォスの父であったと、二人の息子の名前も伝えます。この福音書が記された当時、二人の名前が知られていたのでしょう。二人共に教会の中で知られるような人物になった、この二人の信仰を辿っていくと、主イエスの十字架への歩みに強制的に父親が引きずり込まれた出来事があったのだと聖書は示しているようです。シモンは、溜まっていた不満や怒りを、身内にもローマ帝国にも見捨てられた主イエスにぶつけ、軽蔑して楽しむ兵士たちの卑しい行いに巻き込まれました。シモンにとって、死刑囚の十字架を担がされるのは迷惑なことだったでしょう。自分の願いや計画に全く無かった処刑場への道を歩むことになったシモンは、主イエスの十字架の重みをその身に味わい、死の場所に向かって進まれる主イエスの最後の歩みを共にした者となりました。兵士たちの流れに巻き込まれたシモンから、二人の息子へとキリストの後に従う信仰の流れが始まること、主イエスを否定し、見捨てる流れの中からも、主イエスを真の王、救い主と信じる信仰の流れが生み出されたことを、思わされます。

 

当時の十字架の高さは、人の身長を少し超える程度であったと言われています。服をはぎ取られ、二人の罪人と共に死刑に処せられるほどの重罪人として十字架に架けられている主イエスの姿は、近くの人々によく見えたことでしょう。そうやってさらされている主イエスを、通りかかった人々が眺め、頭をふりながら罵って言います、「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」と。兵士がしたことが短い文で次々と述べられる、そこで現れる、人の口から続けて発せられたこれらの言葉は、強いインパクトを与えます。神殿について主が語られた言葉は、ご自分の十字架と復活によって、神さまを礼拝する新しい道がもたらされることを指していたのでしょう。しかしその言葉を理解できず、人々は、“神殿を打ち倒し、三日で建てるなどと、神殿を、神を冒涜するような言葉を発しておきながら、十字架から降りて自分を救えないでいるではないか。そこから降りて自分を救ってみろ”と罵ります。

 

この人々は、エルサレムで過ぎ越しの祭りを祝うためにやってきていたのでしょう。神さまが預言者を通して告げてくださってきた救い主の到来を、待ち望んでいたはずの人々です。人々の中には数日前に、ロバの子の背に乗ってエルサレムに入られるこの主イエスこそ救い主ではないかと期待し、自分の服や葉の付いた枝を道に敷いて、「ホサナ」と叫びながら迎えた人もいたかもしれません。けれどもはやこの人々は主イエスを救い主と思っていません。救い主とは、自分を救うことができる者、手足を釘で打ち付けられた十字架から降りることができるような特別な力を持っており、それを危機から脱するために発揮することができる者だと思っています。救い主とはそのような者だと思っているのはこの人々だけではないでしょう。そのような救い主を期待する思いが誰にでもあります。人々にとって処刑は危機でしかありません。弟子たちに見捨てられ、民にも指導者にも世の権力者たちにも見捨てられ、一人死んでゆく者が救い主であるなど、ありえないと思っています。主イエスに抱いていた期待が裏切られたと、失望がののしる言葉となったのかもしれません。こんな死は何にもならない。救い主なら超人的な力を見せてみろと嘲ります。十字架の傍に来たのはこのような罵りや嘲りの言葉をぶつけずにいられない人々でありました。

 

祭司長や律法学者たちもいます。彼らも嘲ります。人々とほぼ同じ言葉をぶつけます。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがよい。それを見たら、信じてやろう」。指導者たちは、他の人々よりも救い主、メシアがどのような方であるのか、旧約聖書の言葉を通して知っているはずです。その指導者たちの口から出た饒舌な嘲りに、底知れぬ闇を感じます。“自分は救えない”、“今すぐ十字架から降りるがよい”と、先の人々と同様の言葉で嘲ります。こんな死には何の意味も無いと思うから、嘲るのです。自分を救えていなければ他人を救うことができないという考え方、自分が守られてから他人のことだというこの指導者たちのものの見方も、彼らだけのものではありません。自分の賜物を捧げ、時間とエネルギーを捧げ、他者のために尽くす人々の貢献を、歴史の中でも、今この世界でも、私たちは見聞きしてきています。他の人々にほとんど知られることが無くても、親子や親族、友人同士の小さな関りの中で、他者のために多くを捧げる営みが日々積み重ねられていることも知っています。そうであるのに、祭司長や律法学者のような見方をなかなか退けられないところが誰にでもあります。今私たちのすぐ傍で発せられてもおかしくないような生々しい指導者たちの言葉が、十字架上の救い主にぶつけられています。

 

そして、主イエスと共に十字架につけられている二人までもが、主イエスを罵ったことを聖書は伝えます。主イエスは罪びとの一人とされ、二人の死刑囚と並んで十字架に架けられましたが、その二人の死刑囚の方は主イエスを否定します。自分たちの死が迫っていても、人々の罪を担って苦しまれる主イエスを罵ってしまう人間の姿があります。このようなすべての罵り、侮辱を浴びながら、主はそれらの人間の罪を、黙々と負ってくださったのです。

 

今日の箇所で、主は何も言葉を発しておられません。自ら何かをなさることもありません。聖書が語るのは人々の口から出る醜い言葉、人々が為す残酷な行為ばかりです。私たちはどこか物足りない思いを抱くかもしれません。主の肉体が、そのみ心が、どれほど痛めつけられたのか、苦しめられたのか、そのことを聞きたい思いが、私たちの中にあります。けれど聖書は私たちの感情を掻き立てることよりも、キリストにその苦しみ、痛みを負わせた人間の姿を伝えることに重きを置いているのです。主イエスが壮絶な痛みや苦しみを受けられたことは福音書の記述から明らかです。更にその詳細を述べることよりも、主はそれらの痛み苦しみを一つ一つ、黙々と引き受けてくださったことを伝えます。主の受難と死は何によっているのか、何のために苦しみ通されたのか、誰のためなのか、示そうとしています。

 

今日の箇所で唯一、主の行動が述べられているのは、差し出された没薬を混ぜたぶどう酒をお受けにならなかったことだけです。全身の重みが手足の傷口にかかる壮絶な苦しみを、麻痺させる働きがあると考えられているこの飲み物を退けられます。様々な仕方で罪に対する心を麻痺させることで自分を守ろうとする、自分を守ることが人生の最大の目標になってしまう人間の罪の重みを、最後まで、隅々まで引き受けるために、主はこれを飲むことを退けられたのではないでしょうか。

 

教会は、主の十字架の出来事を、旧約聖書の光の下で受け止めてきました。特に本日交読詩編で読み交わした詩編22編は大きな役割を果たしてきました。今日の箇所でも、人々が頭をふって嘲笑い、「自分を救ってみろ」と罵ったことは、89節と重なり、主の服が兵士たちによって分配されたことは、1819と重なります。「わたしの神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」との言葉で始まる詩編22編の詩人の苦しみを、主イエスほど味わった方はいないと、教会は十字架の主を仰ぎ続けてきたのでしょう。残忍な嘲りとして記された罪状書きもまた、その意図を越えてここで起きている出来事の真理を表し、雄弁に主イエスが真に王であることを表明していたのだと、知ったことでしょう。

 

 

神さまの救いの道と人の思いは、これほど乖離してしまうのだと、キリストの周りにいる人々、キリストから離れてしまった人々の姿は私たちに教えてくれます。そして聖書は、この人々の只中においてこそ、預言者や詩編の詩人を通して伝えられてきた神さまのご意志が実現されたことを証しします。見捨てられた死において、神さまの約束が成し遂げられたのだと。主イエスは真に王であると、十字架においてこそ、示されるのです。闇の中で何度も道を見失ってしまう私たちです。私たちの道は、神さまに至る道は、人の罪の闇が最も深まったその時間を苦しみ通され、罪びとの一人として死なれたキリストによって、もたらされているのです。