聖霊に満たされ(21年6月号巻頭エッセー)

 「聖霊に満たされ」                    左近深恵子

 

 今年の春、去年は桜をゆっくり見ることも無かったと思いながら、桜を見上げました。僅かな人数で守った去年のイースター礼拝を思い出しながら、イースターの礼拝を捧げました。先日のペンテコステ礼拝も、一年前を思いながら、この間ずっとお会いすることが叶わないあの方、この方を思いながら捧げました。これから、熱中症に気をつけながらマスクをする季節が再びやって来ます。節目の度に、新型コロナウイルス影響下でのこれまでの日々を思います。二年目になれば良い意味で慣れたところもあります。けれど困難の中で頑張り続けてきた疲れや、先が見えない不安、大切な誰かを失った痛みや悔いを抱えたままの心には、二度目の季節であることが重く感じられる時があります。自分の弱さ、他者の弱さ、自分の限界、他者の限界が、私たちを揺さぶります。

 

 弱さや限界を神のみ前で知るならば、私たちは幸いです。教会を通して宣べ伝えられてきた福音の真理が、私たちの力であると知るからです。教会の力として与えられている聖霊が、福音の真理に生きる力と知恵を私たちに与えてくださることを、知るからです。教会は初めから、聖霊のお働き無くしてあり得ませんでした。最初の教会を起こしたのは、熱意に溢れた人物でも、その集団でもなく、聖霊のお力だったのです。

 

 この日一つ所に集まっていた弟子たちは、かつては事ある毎に誰がこの中で一番偉いかと言い争っていた者たちでした。主イエスが逮捕されると狼狽え、主イエスを裏切り、無様に逃げ出し、主イエスが復活されたと知らせる仲間の言葉を信じ切れず、互いの溝を深める一方でありました。しかし復活の主が彼らに現れてくださり、聖霊が降られることを約束してくださったことで、バラバラであった弟子たちは、一つ所に集い、心を合わせ、祈りを合わせ、聖霊の到来に備える群れへと変わりました。そしてペンテコステの日に聖霊が降られ、一同は聖霊に満たされました。弟子たちが自分で自分を満たしたのではなく、聖霊で満たされました。それは弟子たちの業ではなく、神のみ業でした。そのみ業に弟子たちが、自分たちを開け放したのでした。弱く不完全な自分を、底に疲れや不安や痛みや悔いが澱んでいる自分をさらけ出し、その奥深くまで聖霊で満たされた弟子たちは、聖霊の促しを受けてキリストの福音を宣べ伝え始めたのでした。

 

 聖霊なる神は、弱い私たちを助けてくださいます(ローマ826)。自分や他者の弱さに途方に暮れ、どう祈るべきか分からなくなってしまう私たちですが、私たちの弱さを知り抜いておられる聖霊が、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださいます(ローマ8:27)。聖霊は、私たちがひどい苦しみの中にあっても、喜びをもってみ言葉を受け入れ、キリストに倣う者として、歩み続けることができるようにしてくださいます(Ⅰテサロニケ16)。聖霊で満たされることを心から願います。