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希望の旅

「希望の旅」マタイ2112

202212日(左近深恵子)

 主イエスはベツレヘムでお生まれになりました。ルカによる福音書は、その日町の外で羊の世話をしていた羊飼いたちが、み使いが伝える救い主誕生の報せを聞いて、連れ立って飼い葉桶に眠る主イエスを探してやってきたことを伝えています。キリストの側に羊を伴った羊飼いたちがいる、大切なクリスマスの情景です。

 

 もう一つ、私たちがクリスマスで思い浮かべる大切な情景が、先ほどマタイによる福音書から聞いた占星術の学者たちの到来です。アドヴェントからこれまで教会の玄関で私たちを迎えてくれてきた人形のセットもその情景を描いています。教会の人形それぞれの腕には贈り物があり、その内の一体は跪いています。特別な星がまたたくその夜、お生まれになった方に、黄金、乳香、没薬という大切な宝物を捧げ、跪く、私たちがクリスマスを思う時に欠くことのできない情景です。

 

 主イエスとの出会いが自分の人生に起こることを願ってやって来た羊飼いと学者たちの姿に、人は、救い主を与えてくださった神さまのみ心にこのように応えることができるのだと、喜びと力を与えられます。彼らが自分たちが暮らしてきた場所から立ち上がったこと、主イエスと自分たちの間にある様々なものを超えながら、飼い葉桶の側へとやって来たことも思わされます。ルカによる福音書では、その晩同じベツレヘムの町に居ながら、出産間近の夫婦のために泊まる場所を空けてあげることなく、自分たちの町で起きていることに気づかぬまま、夜の闇の中で床についた多くの人々が居たことを思わせます。マタイによる福音書にはより明らかな仕方で、飼い葉桶の側に居ない人々の思いや行動が伝えられています。

 

 マタイによる福音書はその初めに、アブラハムから主イエスに至る系図を掲げました。そうして、神さまが約束されたメシア(救い主)の到来が、主イエスの誕生において実現したことを示しました。神さまはアブラハムを救いの歴史の基として立ててくださいました。あらゆる民にもたらされる祝福の源とされた神の民イスラエルでしたが、王も民もみ心にお応えして生きることから離れてしまうこと、度々でした。そのような時も神さまは人々を導かれ、そのような民に対して、いつか真に人々を救う王がお生まれになると、預言者たちを通して約束されました。系図は預言の言葉通り、ダビデ王の血筋に主イエスがお生まれになったことを示します。系図に続いて福音書は、主イエスの誕生が人の力ではなく聖霊のお力によって、ダビデ王の都ベツレヘムで起きたことを伝えます。

 

 マタイは続く今日の箇所で再び主イエスの誕生を語り直し、神さまが約束をどのように実現されたか語ります。主イエスは預言者が告げたようにユダヤのベツレヘムでお生まれになりましたが、そこは見えないバリアで周りを守られ、神さまの約束にはふさわしくない、み心に対立するような要素は締め出した、無風の温室のような状況ではなく、「ヘロデ王の時代」であったことを語ります。至る所で王たちが覇権を争い、保身のために手を組んだり敵対したりしている世界にあって、ダビデの都ベツレヘムや他のユダヤの地域は、神さまのみ心よりも王としての地位を守ることを求めているヘロデに支配されていました。「時代」と訳された言葉は、「日々」という意味の言葉です。ユダヤの地域に暮らす神の民の日々は、昨日も今日も、ヘロデと、ヘロデがこの地域の領主であることを認めるローマ帝国の支配下にあります。今日の箇所には「王」という言葉が何度も登場します。その最初が1節の「ヘロデ王」です。当時最強の大国ローマの後ろ盾を得たヘロデが君臨する現実の中に、主はお生まれになったのです。

 

 ヘロデはある日、東の方からやって来た占星術の学者たちの訪問を受けます。「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおられますか」と、学者たちは尋ねます。これまで天使以外の者が言葉を発してこなかったこの福音書で、最初に記されているのがこの、神の民の王が誕生したとの言葉です。それをもたらしたのは、旧約聖書で神に背く忌むべき行為とされている星占いに従事する異邦の人々、神の民からは、いかがわしい者たちと見られていたであろう人々でありました。学者たちは自分たちの国で星を観測し続けている内に、特別な変化に気づき、神さまがユダヤの王の誕生を示しておられるのだと受け止め、旅をしてきました。ユダヤ人の王が誕生するならそれは都の王宮であろうと考えたのでしょう、都エルサレムのヘロデ王を訪ねました。ヘロデは学者たちの話を聞いて「不安を抱いた」とあります。驚く、動揺する、狼狽するといった意味の言葉です。ヘロデが、学者たちが探している王を「メシア」と理解していたことは、招集した全ての祭司長や律法学者に「メシアはどこに生まれることになっているか」と問うていることから明らかです。これら専門家たちが告げる預言者たちの言葉から更に、メシアは神の民をとこしえに導く牧者であることを学んでいます。しかしヘロデは王の誕生を、自分の民にもたらされた朗報とは取りません。その子を自分の地位を脅かす存在と捉え、動揺し、狼狽し、早いうちに芽を摘んでおこうと、生まれた場所と時期を特定するのです。

 

 マタイによる福音書は、この時不安を抱いたのはヘロデだけでは無かったことを告げます。エルサレムの人々も皆、同様であったと、待ち望んでいた王の到来を喜ぶのではなく、不安を抱き、動揺し、狼狽したのだと語ります。人々は本当に待ち望んでいたのでしょうか。神さまのみ心よりもローマ帝国の力に仕える、神の民にふさわしくない王の支配を決して喜んでいたわけではなかった民です。しかしヘロデのような王たちとローマ帝国の支配の下で生活を営む年月が長く続いてきました。旧約の時代のように預言者が神さまの言葉を伝えてくれることは少なくなり、神さまの救いのみ業に圧倒されるようなことがあまり無い日々を生きてきました。昨日もその前もそうであったように、今日も明日もその先もこのような日々が続くのだと、そのように先を見ていたのではないでしょうか。自分の人生の中に、神さまのみ業が起きることを本当はさほど願っていなかったのではと、神さまのみ業のために自分たちの中に場所を空け、自分たちの暮らしから、人生から、最も大切なものを神さまにささげ、どうぞここでみ業をなさってくださいと跪く備えはできていなかったのではないかと、思わされます。自分の計画や自分の営みで自分の日々を埋め尽くそうとしているこころは、王なる救い主のご支配が自分の人生の中へと入ってきて、自分の人生が変えられてしまうこと、今自分がこの先に見ているようには未来が進まなくなってしまうことに不安を抱いたのではないでしょうか。「同様であった」という言葉でヘロデと民は結びついています。彼らは同じ道を行きます。ヘロデの行動の狡猾さとその裏で企んでいる残酷な殺害計画が際立つ箇所ですが、真の王が自分の人生において生きて働かれることを望んでいない、救いのみ業を押し進めておられる神さまに従う人生を求めていないことにおいて同様である、こころの底にある罪の部分で一致していたヘロデと民は、同じ道を行くのです。

 

 このことは、福音書の終わりにおいて一層明らかになります。主イエスを自分たちの王と認めない、み子において父なる神が働いておられることを受け入れたくない指導者たちと人々は、主イエスをユダヤ人の王という罪状書きの下で十字架に架けて殺すことへと、同じ道を突き進みます。今日の箇所ではそこまで露わになっていない祭司長や律法学者と言った指導者たちと人々の、イエス・キリストを拒む姿が露わになります。こうして主イエスの誕生から死までを、この方を拒む人の罪ががっちりと囲い込みます。けれどその壁を突き破るかのように、クリスマスの出来事において異邦の国から占星術の学者たちが、真の王を求めて神の都へとやって来ました。そして福音書の終わりにおいて復活の主が弟子たちに、「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」と、「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」と、命じられます。イエス・キリストの福音が、神の民から全ての民へともたらされることを主イエスが求められます。福音を携えて行く弟子たちに主が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われます。福音を運ぶ者は、罪において互いに結びつく者たちと共に行くのではなく、キリストと共に行く者とされるのです。

 

 救い主を拒む罪を突き抜けて、学者たちが救い主の元へとやって来ました。彼らの故郷はおそらくユダヤの国よりも大きな国であり、彼らは自国で力を持つ立場にあったことでしょう。その彼らが他国の生まれたばかりの赤ちゃんに会うために遠路やって来たのは、その赤ちゃんが王であり、その支配はユダヤの人々だけでなく自分たちにも及ぶものであると信じたからでしょう。彼らは自分たちの観測に基づく予測通りに王が生まれているかどうかを確認するためではなく、その王を拝むため、礼拝するために、やって来ました。自分たちに星を通してこのことを示してくださったのは神さまであると信じたから、その真実に辿り着きたいと願ったから、旅をしてきました。神さまのご支配が自分たちの人生に及ぶことが、彼らにとって希望となりました。自分たちの理想や都合や利益に希望を見ているのではなく、神さまがご支配を実現してくださることに希望を見ているから、自分たちの予想とは異なりエルサレムの王宮にその方がおられなくても、その方の到来を待ち望んでいるはずのヘロデもその民も実際にはその方を求めていなくても、彼らが旅を諦めることはありません。希望は自分たちの中にではなく、神さまから与えられるものだから、ようやく探し出したその方が、王のイメージからかけ離れた、最低限の支度さえ叶わない状況の中でお生まれになっていても、その方が真の王であるという彼らの確信は揺らぐことなく、彼らは主イエスの側へと進み出て跪き、彼らにとって最も大切な宝を喜んで捧げたのです。

 

 神さまが自分たちの王となってくださることを願い、ただそのことを求めて進み続ける彼らの原動力は、希望です。希望とは、慰められたいことが慰められる、与えられたいものが与えられる、そのようなものではありません。彼らは星によって、希望を抱くことへと導かれました。けれど星だけでは彼らをキリストにまで導くことはできません。祭司長や律法学者、ヘロデを通して彼らにもたらされた預言者の言葉が、彼らに王がお生まれになる場所と、その方がどのような王であるのかを示し、導きました。祭司長や律法学者、ヘロデがみ言葉を知りながら、今起きつつあることと受け止めることをしなかった、その言葉を、学者たちは信頼し、受け入れます。預言者の言葉に従って学者たちが道を踏み出した途端、再び星が彼らに先立って道案内を始めていることも、み言葉無くして希望が成り立たないことを示しているかのようです。

 

 

更に神さまは夢においても学者たちに「ヘロデのところへ帰るな」と語り掛けられました。学者たちは「その子が見つかったら知らせてくれ」と言ったヘロデの言葉よりもこの神さまの言葉に信頼し、別の道を通ることを決断し、結果としてヘロデの企みからキリストを守りました。自分たちの国へと帰った彼らが、自分たちがどんなに大きな役割を果たしたのか知っていたかどうかは定かではありません。しかし私たちはこの福音書において最初に救い主到来の報せを人々にもたらし、キリストを礼拝し、キリストの命を守った異邦の民の旅をクリスマス毎に思い起こし、その後に続いて旅する者でありたいとの希望を新たにします。信仰の旅路は想定通りに行かないこと、賛同や共感を得られない困難にもしばしば見舞われることを、私たちも知っています。コロナ以降、王なるキリストに自分の最も大切なものをささげる生き方を実行することに、より大きな困難を感じるようになったと思う人が多いのではないでしょうか。不安を覚えることに疲れ、弱り、諦めに囚われがちな私たちの歩みを支え、健やかさを支えるのは、神さまから与えられ、み言葉によって強められ、日々新たにされる希望です。見えているものが全てではありません。占星術の学者たちが真の王の元へと旅を続けていることを、エルサレムの神の民が誰も気づいていなかったように、私たちがまだ見ていない、私たちの視野の外で今この時も推し進められている神さまのみ業があり、誰かが希望によって歩んでいます。教会のクリスマスを祝う期間は、この異邦の人々にもキリストが示された出来事を覚える今週の木曜日の公現日で一区切りとなりますが、クリスマスの出来事によって与えられた希望に生きる日々はこの先も続きます。新しい年の日々、私たちも主の希望において歩んでまいりたいと願います。