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飼い葉桶のキリスト

「飼い葉桶のキリスト」

20211219日(クリスマス礼拝)左近深恵子

 

 クリスマスを迎えました。今年も降誕の場面に耳を傾けながら、クリスマスの礼拝を捧げています。アドヴェントに入ってからこれまで、私たちはこの降誕の出来事を聖書から聞くために、備えてきました。クリスマスの恵みをお祝いすることを心待ちにしてきました。会いたい人に会いづらい、行きたい所に行きづらい、肉体の健康はなんとか保たれても内側の健やかさが揺さぶられる、それが日常となってしまっているこの時代だからこそ、礼拝の場に集いたいと願う、主が与えてくださっている健やかなこころが、私たちを支えてきました。ただお一人の主を礼拝するために集えば、離れていた長い時間を超えてあったと言う真に一つとなれる、そのような礼拝の場に来ることがなかなか叶わない方が多い状況にあって、一層互いのことを思い祈り合いながら、クリスマスの時を目指して、アドヴェントの日々を過ごしてきました。聖書が伝える降誕の出来事を共に聞くこの時を目指して、歩んできました。

 

ルカによる福音書の降誕の場面を聞きました。この福音書はその初めから主イエスの誕生を語ることはしていません。ここまで、後に洗礼者と呼ばれるヨハネの誕生にまつわる出来事を語り、ヨハネがその先駆けとなる救い主の到来を伝えてきました。様々な出来事が語られました。先ず神殿で祭司の務めを担っていたザカリアに、妻エリサベトがヨハネをみごもることがみ使いによって告げられます。これまで子を与えられず既に高齢となっているのにとザカリアはみ言葉を信じられずに抗います。そのため言葉を発することができなくされたザカリアと、神殿の外で待っていた民衆とのやり取りがあります。そしてザカリアに告げられた通り、エリサベトは身ごもります。マリアにもみ使いが現れ、主イエスを身ごもることを告げ、「偉大な人となり、いと高き方の子」と呼ばれるその子に、神さまは「父ダビデの王座をくださる」と、「その支配は終わることがない」との約束を伝えます。驚き、困惑しつつ、神さまの言葉と向き合い、受け入れるマリアは、急ぎエリサベトを訪ね、主のみ業が自分たちに出来事となっていることを喜び合います。しばらくしてエリサベトは出産し、お祝いのために集まっていた親類たちがその子に慣習に従った仕方で命名しようとするのを退けて、ザカリアは神さまに告げられた通りにヨハネと名付けます。老夫婦にもたらされた神さまのみ業は、ユダヤの山里中に広まります。ヨハネの誕生は、夫婦、親族を超えて、その一帯の人々にとっての驚きとなりました。

 

ヨハネの誕生と救い主の誕生に向かう出来事が、折り重なるように語られてきました。その中で、人々の驚きや困惑や喜びが語られてきました。人々の思いは声となり、言葉となり、行動となって発せられてきました。言葉を語ることができない間のザカリアでさえ、身振りで起きていることを必死に伝えようとしています。主のみ業を受け止める者は聖霊に満たされて賛美の歌を歌い、預言を語り、行動を起こします。これまでの流れには、人々の言葉や誰かに向けた感情や勢いある行動が溢れていました。救い主到来に向けて進められる神さまのみ業の力強さが、溢れているようでした。

 

それでは、とうとう救い主がお生まれになる降誕は、きっとこれまでの流れも勢いも超えるようなものなのだろうと待ち受ける私たちに、今日の箇所は思いがけないものではないでしょうか。そこで先ず語られるのは、主イエスのことでもマリアやヨセフのことでもなく皇帝のこと、皇帝が発した命令のことです。これまでは、エリサベトが身ごもることも、マリアが身ごもることも、神さまがみ使いを遣わされたことから語り始められていました。マリアがエリサベトのもとに行ったのも、天使がエリサベトの妊娠を告げたからでした。ヨハネの誕生も、月が満ちたと、主のみ業が必要な時を経たと述べることで語り始められました。しかし主イエスの誕生は、ローマ帝国の皇帝の、支配下にあるすべての者から漏れなく税金を徴収するための命令によって動き始めています。全領土の住民がそれに従い、登録するために自分たちの町へ旅立ちます。住民であるヨセフも、従わないわけにはいきません。時の支配者の命令と時代の流れに否応なく振り回されるのは、この時代あらゆる所で起きていたことであり、いつの時代にも起き得ること、今も起きていることです。命令も時代の流れもはねのけられるような特別な力を持っていないヨセフは、ダビデ王の血筋であったので、普段暮らすガリラヤの町ナザレからダビデの町ベツレヘムへと、身重のマリアを連れて上っていきました。しかしヨセフには、この町で自分たちを迎え入れてくれる親戚や知人は無かったようです。登録のためにベツレヘムに来ていた人々でどこもいっぱいであったと思われる町で、宿泊できる部屋を確保する力も無かったようです。ダビデの血筋ではあっても、旅人の一人に過ぎないのが実態でした。そのような中、マリアは月が満ちて初めての子を産みました。「月が満ちて」と、神さまがその時を満たされたことが述べられます。神さまがこの時と、救いの歴史を大きく進められたその時とは、これまでの福音書の流れから私たちが期待するものから、かけ離れているのではないでしょうか。

 

マリアの出産も、ダビデの王座に神さまが与えられる永遠の王の誕生として私たちが予想するものから、かけ離れています。マリアは不安だらけの初産を、経験や知識が豊富な助け手が誰もいない状況で迎えました。マリアとヨセフはそれまで、他の親たちのように、安全で安心な出産を願って、備えてきたことでしょう。けれど想定通りの時と場所で陣痛が始まるわけではありません。願っても、整った環境での出産を誰もが手に入れられるわけではありません。病や突然の体調の変化によって、紛争によって、災害や事故によって、社会の歪みによって、今も誰かが不安だらけの出産に直面しています。王の中の王は、適した場所も助けても無い孤立した状況で、マリアにとっても生まれたばかりのみ子にとっても厳しい環境で、その時を迎えられたのです。

 

降誕の場面を語るこの福音書の語り方も、私たちの意表を突くものです。これまでの出来事よりも降誕の場面は、言葉少なに語られます。その内最初の半分近くは、皇帝の命令と従う人々についてです。中頃でヨセフとマリアがようやく登場しますが、主イエスの誕生そのものは、僅か2節分ほどで語られます。この後に続く羊飼いたちの方が遥かに大きな出来事に見えます。夜、羊の群れの番をしていた羊飼いたちは主の栄光に照らされ、大きな喜びを告げられ、彼らの上に天使の大群の賛美が響きます。天使の言葉に促されて羊飼いたちは直ぐに行動に移ります。お生まれになった救い主を探し出し、人々に自分たちに起きたことを告げ知らせ、神をあがめ、賛美しながら帰って行きます。羊飼いたちの出来事は、これまでこの福音書が語って来た出来事と同様、特別さに満ちています。神さまからの言葉とみ業に対する人々の驚きや喜びが響き合い、大きな流れとなっていきます。その壮大な流れの中で、主イエスの誕生が短く、静かに語られるのです。

 

今日の箇所には、賛美の歌も雄弁に語られる預言もありません。誰の言葉も記されていません。ヨセフは宿屋と宿泊の交渉をしたことでしょう。マリアとヨセフは言葉を交わし励まし合いながら陣痛と出産を二人で乗り越えたことでしょう。それでも福音書は誰の言葉も記さないまま、二人の行動だけを記します。寡黙な描写であっても、マリアだけでなくヨセフも、マリアの胎に王の中の王を与えると告げられた神さまの言葉を受け入れていることが伝わってきます。神さまのみ言葉が実際にどのように成し遂げられてゆくのか、二人には分からなかったでしょう。分からないながらも、二人は皇帝の命令の前に、既に神さまの言葉に従って共に生き始めました。そして神さまは皇帝の命令をも用いて、旧約の預言の言葉通り、ダビデの町で真の王を誕生させたことを、福音書は示すのです。

 

福音書がマリアについて伝える中で浮かび上がるのは、「産んだ」「布で包んだ」「寝かせた」と、動詞を重ねながら綴られてゆくマリアの動きです。「初めての彼女の子を産んだ」「その子を布で包んだ」「その子を飼い葉桶の中に寝かせた」と、そのすべての動きが主イエスのために為されています。親類の人々も集まって盛大なお祝いとなったヨハネの誕生の際、そのような生まれた子に対する動作の記述はありませんでした。ヨハネの誕生よりもはるかに抑制された、短い語りの中で、み子のために為されていくマリアの一つ一つのが、聞く者の心に残ってゆきます。出産をし、出産直後に赤ちゃんの世話をする、母親の命を懸けるような大変な営みが、言葉少なに述べられてゆくその向こう側に、「お言葉通り、この身になりますように」と主に応えたマリアの決意と神さまへの信頼が見えるようであります。欠けばかりの状況で、為しうることを大切に行ってゆくしかないマリアとヨセフの下で、救い主は与えられるものを受けるしかないか弱い赤ちゃんとしてお生まれになりました。宿屋や親族の客間でも王宮のベッドでもなく、マリアによって横たえられた飼い葉桶を、地上のご生涯の最初の場所とされたのです。

 

そしてここを神さまはみ使いを通して、羊飼いたちに、彼らのために救い主がお生まれになったしるしだと告げられました。「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう、これがあなたがたへのしるしである」(212)と。私たちのために神さまが与えてくださった救い主は、どこにでもありそうな暮らしの中に、誰にでも起こりそうな状況の中に、お生まれになりました。主イエスがこのように祈りなさいと教えてくださり、私たちが毎週礼拝でささげる主の祈りに、「み国が来ますように。み心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ610)という祈りがあります。主イエスが世にお生まれになり、私たちの罪を担って十字架にお架かりになったことで、み国を、神さまのご支配を、私たちの暮らしの中にもたらしてくださいました。主イエスがみ心を地の上に実現してくださいました。その地の上の出発点を、ダビデ王の都ベツレヘムの、飼い葉桶の中としてくださいました。産着にくるまれて飼い葉桶に横たえられた主が、十字架から降ろされ亜麻布に包まれてお墓の中に横たえられるまで、私たちの暮らしの中で、私たちの状況の中で、私たちを担い通してくださいました。私たちのために救い主が到来された、私たちの喜びの源は、私たちの中に、私たちと隣人の間に、ひっそりと静かに、けれど時の支配者の権力までも呑み込んで推し進められる神さまのお力によって、もたらされているのです。

 

本日、お一人の方が信仰を告白し、洗礼を受けて、この美竹教会の群れに加えられます。受洗準備会で、また受洗志願者試問会で、受洗を決意する大きな要因があったわけではないと、けれど振り返って見るとこのようなキリスト教との出会いがあったと、お話しくださいました。ご自分の側に大きな要因があったわけではないという言葉が、響きました。それは、この特別な出来事があったから主イエスが救い主だと分かった、と言うことではなく、振り返れば特別な出会いもあったかもしれないけれど、日常の暮らしの中で、傍らにおられるキリストの恵みを受け止めてこられたということだと、これまでもこれから先もキリストが共におられることを受け止めておられるのだと、キリストの導きの年月を思わされました。

 

 

救い主は、世の王たちの力も、時代の流れも、自分たちを取り囲む状況も、はねのけることができる特別な力は、自らの内に持ち合わせていないヨセフ一家に、そして多くの同じように翻弄されている人々の間に、私たちの傍らにお生まれになりました。私たちの喜びの核にある、飼い葉桶の中で眠るキリストの傍らを、私たちも自分たちの場と定めて、キリストの恵みに日々新たに養われて、生きていきたいと願います。