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恐れるな、ヨセフ

マタイ11825「恐れるな、ヨセフ」

20211212日(アドヴェントⅢ)左近深恵子

 

 クリスマスの出来事を先週はルカによる福音書から、マリアを中心に聞きました。神さまは天使を通して、神のみ子を身ごもることをマリアに告げられました。婚約者ヨセフと一緒になる前で、身に覚えが無いのに妊娠を告げられ、マリアは非常に戸惑い、考え込み、恐れ、「どうしてそのようなことがありえましょうか」と困惑しながらも、み言葉に向き合おうとします。そのマリアに天使も語り掛けを続け、やがてマリアは「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と、み言葉が自分に身と人生において出来事となることを願うまでに至りました。

 

マリアはみ言葉通り、身ごもりました。今日のマタイによる福音書にも、「母マリアは・・・聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」とあります。「明らかになった」とは、そのことを見出した、そのことが分かった、獲得した、わがものとした、ということです。そのこととは、妊娠をしているということ、そしてその妊娠が、聖霊のお力に拠るものであるということを、マリアは悟った、我がこととしたのです。

 

 しかしヨセフについては「明らかになった」と記されていません。マリアが身ごもっていることをヨセフも知るようになっています。おそらくマリアから天使の言葉を聞いたのでしょう。マリアの身体の変化にも気づいたかもしません。しかしその妊娠が何に拠るのかは、ヨセフには分かりません。妊娠がわが身に起こっているマリアとは異なり、起きていることをその身で知ることができません。どんなにマリアが言葉で妊娠が聖霊に拠るものであると説明しても、我がものとはならない。自分たち婚約者同士の間に起きていることなのに、マリアには明らかであっても、ヨセフにはそうではありません。二人の間には深刻な隔たりがあるのです。

 

 ヨセフがどれほど悩んだのか、相手を信じきれない思いにどれほど苦しめられたのか、聖書は述べていません。ただヨセフが出した結論を述べるだけです。いくら考えても真実を解明できるわけではない、しかし出産の日は否応なく近づいてくる、追いつめられた状況で、「正しい」者として離縁を決断します。その正しさは律法の規定を守ることにおける正しさだと思われます。当時法的には結婚と等しい重みを持っていた婚約をしていながら、婚約者の子ではない子を宿しているマリアのことを表ざたにして訴えれば、律法の規定に従って死刑となる可能性もある。しかし婚約も結婚もしていなければマリアは裁かれずに済む。だから密かに離縁することで、命の危機に陥っているマリアを救おうと。

 

 ヨセフにはどうしても、神さまのお言葉と聖霊のお力に拠るのだというマリアの言葉が我がものとならないから、この結論に至ったのでしょう。離縁によってマリアの命を救いたいと言う気持ちは重いものです。マリアを大切に思うからこそ、命を救いたかったのでしょう。しかしそれだけではないかもしれない、その決断に至る背後に、混沌とした状態から抜け出したいという思いもあったのではないかと、ヨセフの苦悩を思えば思うほど、考えてしまいます。神さまのみ業なのだと言うマリアの言葉を信じきれず、納得のいかない思いはどうしても内側にくすぶり続け、そのような思いを抱く自分に嫌悪感を抱き、自分とマリアの関係をこのような思いもよらない苦しいものに変えてしまった神さまのみ心が分からないという思いが心の中に繰り返し沸き起こり、渦巻く。ヨセフがこのような混沌とした状態にあったとして、それは当たり前のことではないでしょうか。このような状態でマリアのお腹の子を我が子として受け入れる自信がどうしても持てない、このような状態をこの先の人生もずっと送っていく自信が無い、自分の命がこの苦しみの中で消耗していく道から離れたいという思いが、ヨセフを追いつめていったのではないでしょうか。マリアのことも、自分のことも、神さまのことも、生まれ来る命のことも、自分が願うようなものでなくなってしまう。これまで自分が大切にしてきたものが壊れてゆく、そのことを恐れ、疲弊し弱ったこころで下した結論が、離縁であったのかもしれません。

 

 恐れ続ける日々に幕を下ろそうとしたヨセフに、その晩神さまは夢の中で、み使いを通して「恐れるな」と呼び掛けます。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったことを告げます。み使いの言葉によってヨセフは、マリアが語っていたことが真実であることを見出します。どうしても受け入れることができなかった言葉が、ヨセフに語り掛けられた神さまのみ言葉によって、沁み込んでゆきます。天使はヨセフに、マリアを迎え入れ、生まれてくる子をイエスと名付けるようにと命じます。眠りから覚めたヨセフは、その言葉通りに早速行動を起こすのです。

 

 クリスマスの度に、マリアとヨセフを、み言葉を受け入れ、み言葉に従った人物として、大切に思い起こします。しかしその従順さは、ただ言われるがままに機械的に応じるようなものではありません。マリアは困惑しながらも、み心を尋ね求め、み言葉と向き合い続け、そうして従う者となり、そのことを言葉によって明らかにしました。ヨセフは言葉にすることもできない恐れの中で苦悩しながら正しい道を求め続け、天からのみ言葉によって自分の小さな正しさが砕かれ、み言葉もマリアの言葉も受け入れ、そうしてそのことを、み言葉に従う行動によって明らかにしました。二人はそれぞれに一人っきりでクリスマスの出来事とみ言葉に向き合う苦闘を経て、従う者となり、その信仰を言葉と行動によって表したのです。

 

クリスマスの出来事がもし、私たちが生み出せるもの、私たちの力で手に入れられる程度のものならば、マリアやヨセフのように困惑することも恐れることも無く、悔い改めることも無いでしょう。けれどクリスマスの出来事は私たちが生み出すことも、私たちの力で手に入れることもできない神さまのみ業であり、神さまのみ業です。私たちのこころや他者との関係や、神さまとの関りを揺さぶるほどの、とてつもないものであります。

 

そのとてつもなさを、マタイによる福音書は系図から語ります。今日の箇所の前に、アブラハムから主イエスに至る系図が記されています。この系図は参考資料として付けられているわけではありません。この福音書がクリスマスの出来事を語り始めるのは、18節からというわけではありません。1節の「系図」と訳された言葉には、「成り立ちの書」「出自の書」という意味があります。“これはアブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの出自の書である”と冒頭で述べていることになります。この福音書全体をもって、イエス・キリストの出来事が世に生じた成り立ちを証しすると、その書をこれから記し始めるのだと、この言葉で示し、それから系図によって、神さまがアブラハムからダビデ、ダビデから捕囚の出来事を経て更に推し進めてこられた救いの歴史を述べ、それがイエス・キリストにおいて実現されたことを述べているのです。

 

この系図が示していることの一つに、主イエスがアブラハムの子孫であるということがあります。神さまが神の民イスラエルの歴史の始まりに選び立てられたアブラハムの子孫であると、つまりイスラエルの長い信仰の歴史の中にお生まれになった神の民のお一人であることを示しています。また系図は、その信仰の歴史の中にイスラエルの神に信頼し、神さまに従って生きた異邦人も含まれていることも示しています。そして系図は、この信仰の歴史に滲み出る人の罪も示します。その出生に人の命も尊厳も踏みにじる罪があったことが知られている名前があり、神さまよりも他の神々や大国の力にすがった罪に対する裁きであると受け止めてきたバビロン捕囚があります。

 

そして系図は、主イエスがダビデの血筋に連なる方であること、つまりイスラエルの希望がその方において成し遂げられるメシアが、いつかその家から出ると言われてきた、ダビデ王の血筋に連なる方であることを示します。ダビデの子孫ヨセフの息子となった主イエスは、神さまがご自分の民に約束された救い主メシアであり、真の王であることを示します。系図はその始まりで、イスラエルの民をご自分の民とされた神さまの恵みの大きさをアブラハムの名によって示し、その恵みにもかかわらずご自分に背く人々に対する神さまの嘆きの深さを14代ごとに示し、バビロン捕囚の14代後に、すべての人をその罪深さから贖うためにメシア、キリストと呼ばれる主イエスが、ヨセフの妻マリアからお生まれになったことを述べます。そして今日の箇所へと移っていきます。今日の箇所で先ずマリアの婚約者がヨセフであることが再び述べられます。そして天使はヨセフの名前を呼びます。天使が呼び掛けているのは、婚約者のお腹の子のことで苦しむ一人の男性であるだけでなく、「ダビデの子ヨセフ」であることをはっきりと告げます。そして天使はマリアの胎の「子は自分の民を罪から救う」のだと、だから「主は救い」を意味する「イエス」と名付けなさいと言って、その子がどのような方であるのか告げます。ダビデの子ヨセフと、あなたの家の血筋に現れることが預言者たちを通して約束され、その到来が待ち望まれてきた救い主はこの方なのだと告げたのです。

 

ヨセフは天使に呼び掛けられる前から、自分がダビデ家の者であることを知っていました。婚約者のマリアにも、自分の血筋を伝えていたことでしょう。ヨセフの家はいつか到来するメシアを待ち望みながら、ダビデ家の血筋であることを代々大切に語り伝えてきたことでしょう。それでもまさか自分の代に、まさかこのような世の王の誕生からかけ離れた仕方で、メシアがお生まれになるとは思ってもみなかったでしょう。けれど、受け継いできた約束はヨセフの中にありました。自分でも自分の中にあることをしばしば忘れてしまっていた神さまの約束が、み使いから語り掛けられた時、み言葉と結びつき、意味を持ち始め、希望に輝き始めたのではないでしょうか。マリアが語ってくれていた言葉もみ言葉と結びつき、受け継いできた約束が幼子の命と共に輝き始めたのではないでしょうか。マリアの胎に神さまが与えてくださった救い主の存在が、恐れに押しつぶされそうな苦しみからヨセフを解き放ちました。大切な相手を疑い、神さまのみ心が見えない、出口の無い暗いトンネルのような道の先に、罪からの救いが見え始めたのです。

 

この福音書は主イエスの誕生を、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」という預言者イザヤの預言の成就であると受け止め、インマヌエルとは、「神は我々と共におられる」と意味を説きました。マリアには既に、神さまが与えてくださった救い主が自分と共におられることが我がこととなっていました。そしてヨセフにも今、救い主がマリアと共におられることが我がこととなり始めています。マリアと自分の間にあるのはもはや深刻な隔たりではなく、神であることを知ったことでしょう。今やヨセフとマリアは声を合わせて、「神は私たちと共におられる」と言うことができるようになったのです。

 

 

クリスマスの恵みは、私たちの罪に深く根差した恐れから私たちを救い出す神さまのみ業です。私たちの常識や予定や正しさの枠に納まりきらない、受け止めきれない大きなものであり、私たちのどのような苦しみや疑いや頑なさによっても押しつぶされることの無い堅固な恵みです。主が約束された救い主が到来したとの福音を信じる者と神さまをつなげてくださり、信じる者同士をつなげてくださるのは、私たちの苦しみも罪の悲惨さもすべて背負ってご自分の命をもって贖ってくださる真の救い主です。私たちを揺さぶるあらゆる力に勝る真の王です。私たちの隣人との関わりが、クリスマスの恵みで満たされるように、独り子を天から地へと降らせて、私たちに与えてくださった神さまを、誰かと心から賛美することができるように、キリストに従う旅路を、信仰の先達の後に続き、歩む旅路を、またここから始めたいと思います。