· 

主を迎えるマリア

ルカ12638「主を迎えるマリア」

2021125日(アドヴェントⅡ)左近深恵子

 

 アドヴェントの二週目を迎えました。準備の時であることを表す紫色と、永遠の命を表す常緑の葉で美しく整えられたクランツのキャンドルも、二本目が灯されました。「到来」を意味するアドヴェントは、キリストが世に来られた降誕の出来事をお祝いするために、準備をする時です。そしてキリストが再び世に来られ、救いのみ業を完成されることを覚えて、備える時でもあります。聖書の時代の人々がメシア、キリストの到来を待ち望んだように、教会はイエス・キリストの再臨を待ち望んでいます。アドヴェントはそのことを特に覚えるために教会が毎年設けてきた特別な期間です。

 

 ルカによる福音書は、ある日、ガリラヤ地方の、ナザレと言う小さな町に暮らしていたマリアに天使が現れたことを伝えます。「天使」という言葉には、「使いの者、神から派遣されてそのみ言葉を伝える者」といった意味があります。福音書で天使が登場するのは、主イエスがお生まれになるクリスマスの出来事と、主イエスが復活される場面です。主イエスのご生涯には驚くような出来事が数多くありますが、誕生と復活はとりわけ世の常識も私たちの力も超えた、天からもたらされた出来事であったと、天の父なる神が世の只中で為してくださった出来事であり、神さまが為してくださらなければ起きなかった出来事であったと、み使いの登場によって私たちは知ります。天使が現れて神さまのみ心を伝えたのだとしか言いようのない出来事が、キリストの誕生と復活において起きたのだと、福音書は証しているのでしょう。

 

ルカによる福音書では特に、主イエスの誕生を人に伝えるのはいつも天使です。1章の前半で、天使が祭司ザカリアに主の先駆者となる洗礼者ヨハネの誕生を告げます。続いて、その主なる方の誕生が、天使によってマリアに告げられます。祭司ザカリアとマリアの親族エリサベトにおいて神さまが始められたみ業が、マリアへと繋がっていきます。

 

「天使は、彼女のところに来て」と28節にあります。「来て」と訳されている言葉は、「入って行く」という意味の言葉です。天の神さまのご意志が地上へともたらされ、ナザレと言う町で、いつものように日常生活を営んでいたマリアの人生へと入って行った、そのような出来事です。マリアは突然、全く思いもよらない事態に、たった一人で呑み込まれてしまったような思いであったことでしょう。

 

 天使はマリアに、「おめでとう」と言います。文字通りに訳すと「喜びなさい」と命じる言葉です。そしてマリアを「恵まれた方」と呼び、「主があなたと共におられる」と言います。この挨拶の言葉にマリアはとても困惑し、考え込みます。自分がどう恵まれているのか、主が自分と共におられるとはどういうことなのか、自分は何を喜ぶのか分かりません。分かった振りをして喜ぶのではなく、また分からないからと言って拒絶するのではなく、マリアは考えます。

 

 天使は考え込むマリアに男の子を身ごもると告げ、その子がどのような方であり、どのような立場を占められるのか言葉を重ねます。しかしその子の先のことよりも何よりも、マリアには身ごもることがあり得ないのです。まだヨセフと同居を始めていないからです。マリアはこの時もただ表面的に受け入れるのではなく、分からないからと言って拒絶するのでもなく、神さまの使いに向かって、そんなことがどうしてあり得ましょうかと、私には分かりませんと、率直に思いを注ぎ出すのです。

 

 困惑し、混乱しながらも神さまの言葉に必死に向き合おうとするマリアに、神さまによって聖なる方とされる子どもの誕生を実現させるのは、聖霊であると、その子は神の子と呼ばれると告げます。そしてこれまで不妊の女と言われ既に高齢のエリサベトが子を宿していることを知らせ、神にできないことは何一つないと告げるのです。

 

 ヨセフと一緒になっていないマリアが子を宿すというのは、起こり得ない、尋常ならざる出来事です。その上、婚約が法的に結婚と同じ意味を持つ当時の社会で、婚約者との間の子ではない子を身ごもったと訴えられれば死刑の可能性もある深刻な事態です。それまでマリアが思い描いていたであろう、ささやかではあっても穏やかな幸せには手が届かなくなるかもしれません。この後主イエスがお生まれになると、幼子をマリアとヨセフは神殿に連れて行きます。その時シメオンはマリアにこう告げました、「この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」(ルカ23435)。そして確かにこの先のマリアの人生に待ち受けるのは、最も近い弟子たちからも裏切られ、人々からも退けられ、死を望まれ、指導者たちの間を引き回され、嘲られ、犯罪人として最も重い刑で処刑される我が子の道行きを見つめるしかない日々であります。それでもこの日天使はマリアに「おめでとう、恵まれた方」と呼びかけました。マリアや私たちが思うめでたさ、幸い、恵みと重なり切らない、マリア個人、マリアとヨセフの家庭に留まらない、大きな喜びが告げられています。マリアが身ごもる男の子は、偉大な人となり、いと高き方の子と言われ、神が父ダビデの王座をくださり、その支配は終わることがない方であるからです。

 

喜びの大きさは、ダビデの名が今日の箇所で二度も言及されていることにも表れています。マリアの婚約者ヨセフがダビデ家の人であることが述べられ、天使はマリアに神が父ダビデの王座をその子にくださると告げます。ヨセフは、その子孫の内から永遠の王座に就く真の王が出ると、預言者ナタンを通して告げられた約束を担う、ダビデ王の血筋の者です。マリアが身ごもる男の子は、イスラエルの民と世を永遠に統べ治める王となられる方であるのです。

 

 実際のヨセフのは、ダビデの町エルサレムで暮らしているのでも、支配的な地位にも就いているのでもなく、その生活は王家の繁栄からはかけ離れていました。それでもヨセフの家は自分たちがダビデの血筋であることを知っていました。王家の血筋らしからぬ現実が約束から遠く見えても、神さまの約束は決して虚しく消えてしまうことはないと、ヨセフの家は自分たちの血筋を代々語り伝えてきたのでしょう。マリアもヨセフの血筋を聞かされていたのでしょう。偉大な王を望むどころか、強大なローマ帝国に支配されている一属国の、さらにナザレと言う地方の小さな町で、ダビデの血筋に連なろうとしているマリアに、神さまがなさった約束がいよいよ実現することが告げられたのでした。

 

 マリアは最後に「お言葉通り、この身になりますように」とはっきりと答えます。その答えを私たちは毎年のようにアドヴェントの時期に聞きます。その度に、人間の力や思い、限界や不信を越える神さまのみ心と御業に心を開き、み言葉を受け入れ、自ら進んで神さまが共におられる未来へと、自分の心と体と人生をささげるマリアから、おそらくはまだ非常に若かったであろうマリアから、多くを教えられます。

 

しかし私たちは、自分がマリアのように神さまにお応えする者であるのかという問いとは、なかなか正面から向き合うことができないところがあります。神さまから救い主、真の王の母として選ばれた、私たちとは決して重ならないマリアの特別さを理由に、この出来事に距離を置き、離れたところからぼんやりとした憧れをもって眺めて終わらせてしまうところがあります。

 

 私たちは自分たちの力という枠の中で、神さまの御業までも捉えようとしがちです。私たちの力によって、神のみ子である救い主、永遠の真の王を生み出すことなどできないのに、です。私たちは自分の思いの強さ、広さ、というキャンバスの範囲内で、神さまのみ心までも捉えようとしがちです。私たちの意志の力や正しさを見据える力は頼りなく、私たちは常に内側に、それが露わになれば救い主までも殺してしまう罪を抱えているのに、です。

 

罪から自分を救うことも、他の人を救うこともできない私たちを、罪に支配されているところから救い出し、真の王の支配の中へと入れるために、神さまは救いのご計画を推し進めてくださいました。地上の王たちのような強大な権力や武力によってではなく、ご自分の命によって人々の罪を贖う真の王を与えてくださると、告げてくださいました。この救いがどのようになされるのか、マリアにはなおも理解しきれません。み言葉を受け入れられない理由は、自分の中に山のようにあったでしょう。受け入れることができる確かな根拠は、自分の中になかったでしょう。ただ神さまのみ言葉に信頼し、聖霊のお力に信頼し、神さまの救いの御業が自分の身において、自分の人生において出来事となり始めることを信頼する者となったのです。

 

マリアがみ言葉を受け入れ、主イエスをお迎えする者となったことによって、私たちにも罪の赦しが与えられるようになりました。主イエスは私たちのためにも、お生まれになりました。私たちを罪から救い出すために、旧約の時代から貫いてこられた救いの御業を世の民すべてにもたらすために、神さまはその全能のお力をクリスマスの出来事に注いでくださった、地方の小さな町に暮らす一人の女性に注いでくださった、それほどに神さまは私たちを救いたいと願っておられることを私たちは知るから、私たちも神さまの言葉は虚しくならないと、聖霊が救いのみ業をこの時代も推し進めてくださると、信じることができます。

 

 

神さまは、理解できず、非常に困惑し、恐れるマリアに天使を通して語り掛け、言葉を重ねてくださいました。その中には、聖書の他の人々にも語られたものが多くあることに気づかされます。「主があなたと共におられる」「恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」「神である主の支配は永遠」「その支配は終わることがない」「聖霊が降り、いと高き方の力があなたを包む」「神にできないことは何一つない」。細かなところに違いはあっても、聖書の中で繰り返される言葉であります。神さまの救いのみ業を担うためにマリアにはマリアだけの特別な使命が神さまから与えられています。他の人々にも、私たちにも、それぞれに特別なキリストに従う歩みが与えられています。そして私たちにも主なる神は、「あなたと共にいる」「恐れることはない。あなたに私の恵みを注いでいる」「私の支配は永遠であり、終わることがない」「聖霊が降り、わたしの力があなたを包む」「私にできないことは何一つない」と語り掛けてくださいます。アドヴェントは、主の到来と再臨を待ち望む時でありますが、それは言い換えれば、主が私たちを待っておられることを思う時であります。ご自分のもとへと立ち返り、み言葉と聖餐の恵みで養われて、クリスマスの恵みに満たされることを、主が待ち望んでくださっています。この身とこの人生に、クリスマスの恵みを迎えてこの週も歩みたいと願います。