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子どものように

「子どものように」マルコ101316

20211031日(左近深恵子)

 

 先ほど共にお聞きしました箇所は短いけれど、これまで無数の人の心を揺り動かしてきた箇所でしょう。他の二つの福音書にも記されており、聖書が大切に伝えてきた出来事です。教会学校で育った人にとっては、幼い時から親しんできた箇所ではないでしょうか。子どもも聖書に登場するのだと、子どももイエスさまの傍へと招かれている、自分もそうなのだと聖書から知る嬉しさは、多くの子どもを力づけてきたことでしょう。そして大人たちは、この箇所の主イエスの言葉を聞く度に、もはや子どもではない自分は主が求めておられるところから離れてしまっているのではと、自分に向き合うことを促されてきたのではないでしょうか。

 

 コロナ以降、私たちが思う大人らしさは縮んでしまったような気がします。感染の拡大を防ぐために私たちは行動を制限してきました。行動の範囲が狭まり、縮こまるような日々が続きました。これまで、行動することによって獲得できていたものが、物質的にだけでなく、内面においてもこんなにあったのだと、身体ごと移動し、身体ごと集まるから分かち合うことができていたのだと、また行動することで取り除けていたものが物質的にも内面においても、こんなにあったのだと、行動できなくなって知りました。最近は感染状況が改善し、以前よりも行動できるようになったことは本当に嬉しいことです。しかしまだまだ多くを控えています。コロナの前はもっと活発に仕事や学びのために、家族や友人のために、外へと出てゆきました。外出しない日も、外出できない日というより、外出と外出の間の休息の時であったり、家ですることがある日でした。いつも明日や来週や来月の予定を前提に過ごし、未来のために今日という時間を有効活用しようとしていました。それを実現できるのが、私たちが思う大人らしさでした。大人だから一人で出かけて行くことができます。行きたいところに行き、会いたい人に会えます。自分一人で出かけるのが難しくても、大人だから手段を探し、それを得ることができます。大人だから自分で要らないものを取り除く手段も探したり、手に入れたりできます。一日を生きていく、その先につながる今日を生きていくことができる、その大人らしさの対極にいるのが子どもであると。けれどコロナによって大人らしさは縮んでしまいました。何かをすることができること、手に入れることも、取り除くこともできることに誇りを持って過ごしていた以前に比べ、自分が小さくなってしまったような辛さを私たちは覚えたのではないでしょうか。

 

 主イエスに触れていただくために子どもたちを連れてきた人々を叱った弟子たちも、自分たち大人と子どもの間の差を、何がどれだけできるのかに見ていたことでしょう。

 

  聖書の時代の人々にとって、子どもは神さまからの賜物でした。子だくさんであることは、神さまからたくさんの賜物をいただいている幸せなことでした。賜物でありましたが、子どもは大人と同じような者ではありません。大人から学び、言葉と習慣を身に着けることによっていずれ一人前になる者、大人のようにならなければ一人前として認められない者でした。神の民である人々にとって、律法を理解し、律法に従って神さまが示しておられるような生活をすることが一人前でした。そのために律法の学びを積み重ね、知識を獲得し、正しい行いを生み出す備えができてはじめて、神の民として一人前の大人とみなされました。

 

 弟子たちは、理解も正しい行動も未熟な子どもたちは、主イエスのおそばに来るにはまだふさわしくない者だと思っていました。そのような子どもたちを主イエスのところに連れてきた人々のことを、不快に思いました。この人々が親であったのかどうか述べられていませんが、親か子どもたちと親しい人々であったことでしょう。今と同様、当時も親たちは子どもの将来に対して不安を覚えました。今とは違う不安材料も多かったことでしょう。親たちは高名なラビや祭司会に会う機会があれば、子どもに手で触れてくれるようにとしばしば頼んだそうです。聖書に詳しい教師や、祭儀を執り行う祭司に触れていただくことで、子どもに明るい未来がもたらされるのではないかと期待したようです。この日、子どもたちを連れてきた人々は、既に主イエスの評判を耳にしていたことでしょう。神さまのことを他の人々がこれまでしたことがないような仕方で話し、誰も癒せなかった病を癒してきた先生が自分たちの町に来ているなら、是非祝福していただこうと、子どもたちを連れてきたのでしょう。

 

弟子たちは人々の行動を、主イエスのお働きを妨げるものと捉えました。一人前ではない子どもたちに祝福を与えるようなことのために、エルサレムでの受難と死と復活を予告され、ガリラヤ地方を去って、南へと旅を始められた主イエスの歩みを止める必要は無いと、そのようなことをすれば主イエスの大切な時間と労力を奪い、主を煩わすことになると考えたのでしょう。

 

弟子たちの行為は熱心さから来るものです。それは何に対する熱心さだったのでしょう。自分の子どものこと、自分たちのことしか見えていない人々の行動に妨げられ、足が止まってはならないとする彼らの行動には、子どもを一人前と見ていないことだけでなく、子どもを連れてくる人々の信仰を自分たちの信仰よりも軽く捉えている思いが透けて見えます。弟子たちは、主イエスに従う熱心さから人々を叱ったと言うよりも、主イエスの旅から余計なものを取り除こうとする熱心さから叱ったように思えます。それは主イエスのためのようでいて、彼ら自身のためです。既に死と復活を予告しておられる主は、どのような仕方によってかは分からないけれどこれからエルサレムで重大な局面を迎え、栄光を受けるはずであり、自分たちはその弟子である。重要な立場にいる自分たちの重要な道行きに、子どもたちと関わりあう時間は要らないと、しっかり主イエスの働きを守っていこうと、そのような思いであったでしょう。

 

 主イエスは、人々を叱って追い返そうとした弟子たちに憤られ、子どもたちがご自分のところに来ることを妨げてはならないと言われました。主イエスに手を置いて祝福していただけば子どもの未来が守られると期待する親の行動は正しいから、妨げてはならないと言われたわけではありません。子どもたちがご自分のところに来ることを妨げてはならないからだと言われます。更に、神の国はこの子どもたちのような者たちのものであると、子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決して神の国に入ることはできないと言われました。主イエスの傍に居られるのは熱心な立派な信仰を持っている大人だけ、子どもはだめ、そのようなことも分からない、信仰者としては大人になりきれていない者もだめ、そのように考える弟子たちに、主は彼らが退けた子どもに倣うことを教えます。“子どものように神の国を受け入れなさい”と、“あなたがたにはっきり言っておく”と、大人を自負する弟子たちに厳しく語られたのです。

 

神の国、つまり神さまのご支配の到来は、主イエスがこれまで宣べ伝えてこられたことでした。ご自分によって神さまのご支配が到来し、人々の間へともたらされつつあると、言葉によって教えられ、癒しや驚くような出来事を通して、神さまのご支配がどのようなものであるのか示してこられました。世に神さまのご支配が到来したら、自動的に人々がその中へと組み入れられるわけではなく、到来したご支配を人々が見出し、理解し、受け入れることが求められます。もたらされているご支配を受け入れる人でなければ、そこに入ることはできません。それが最もできるのが子どものような人であると言われます。子どもは神の国を受け入れる人を映し出す鏡のようであります。子どもには、一人で必要なところに行き、必要なものを手に入れ、必要でないものを取り除く力がありません。自分の力で生きていけず、親の守りと養いが無ければ生きていけない者です。子ども自身がそのことを完全に理解しているわけではないけれど、自分で生きていると思っている大人よりは分かっています。主イエスから祝福をいただこうと自分から求められるわけではなく、自分で主イエスのところに来ることもできないような幼い子どもたちが、この日、親や親しい周りの人々の願いによって主イエスのもとに連れてこられ、主イエスに抱き上げられ、主から手を置いて祝福されます。祝福など要らないと抗うのではなく、祝福されるにふさわしいものが自分の中にあるから祝福を受け入れるというのでもなく、祝福されるがままに祝福を受ける。神さまのご支配に入るとはこういうことなのだと、ただただ受けるしかない者が、神さまから受け入れられること、祝福に満たされることなのだと、主は子どもたちを実際に抱き上げながら教えてくださいました。「抱き上げる」と訳された言葉は、「腕の内に置く」という意味の言葉です。親や人々の関係の中だけにあるのでなく、救い主のみ手の中に抱かれている者とされます。誰と一緒にいても、誰とも一緒に居なくても、主の腕の中に抱かれている者として生きていく、そのことをただ恵みとして受け入れることができるのは、自分がこれまで積み上げてきたものや、他者より僅か優っていることにしがみ付く者ではなく、最も小さく弱い者、子どものような者であるのです。

 

主イエスは、子どもたちを連れてきた人々を叱った弟子たちに、憤られました。「憤る」という言葉は強い表現です。子どもたちをつれてきた人々よりも自分たちを正しい者とし、人々を叱って、子どもたちと主イエスの間に立ちはだかったからでした。

 

これまでマルコによる福音書は、ここと同じ「叱る」という言葉で、主イエスが叱ってこられたことを主に伝えてきました。安息日にカファルナウムの会堂で一人の人にとりついていた汚れた霊を、「黙れ、この人から出ていけ」とお叱りになりました(125)。湖で起こった激しい突風を叱り、湖に「黙れ、静まれ」と言われて、突風を鎮められました(439)。少年にとりついて、所かまわず地面に引き倒し、ものも言わせず、耳も聞こえさせない汚れた霊にお叱りになり、少年を救われました(925)。これらの力ある言葉によって主イエスはご自分が全く神さまの側におられる方であることを、人々に示してこられました。

 

それなのに弟子のペトロは同じ「叱る」という言葉で、死と復活を予告される主をわきへと引っ張っていき、自分の方が正しい者であるかのように主を諫めました。そのペトロを主イエスが「サタン、引き下がれ、あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」と、同じ「叱る」と言う言葉でお叱りになりました。まるで汚れた霊に取りつかれている人から霊を追い出されるようにペトロをお叱りになり、ペトロの中のサタンを退けてくださいました。そのことによってペトロは改めて主イエスの後に従うようになりました。しかし今日の箇所でまた、今度はペトロ一人だけでなく弟子たちが、悪しき力に流されて、子どもたちを主イエスのもとに連れてこようとする人々を叱ります。自分たちこそが神の国に入る資格のある者であるかのように、相応しさに劣る者たちを退けようとします。その弟子たちに主は憤り、天の国はまさに、弟子たちが退けようとした子どものような人々のものであることを教えられました。そのことによって弟子たちは再び主の後に従うようになり、主は旅を続けられました。人々から自分たちの生き方に邪魔になると排斥され、殺されるエルサレムへと、人々に神の民として、神の子らとして生きる命を与えるための旅を進めてくださったのでした。

 

この一週間、神さまに喜んでいただけることをこんなに沢山してきましたと、自分の充実した生活を誇りにしながら、礼拝で神さまのみ前に出ることができない、それどころか要らないものを一層溜め込んでしまい、弱り、力萎えた自分のままでみ前に出るしかないような時があります。自分の持っているもので自分を救えると思い、キリストではなく、キリストに熱心につながっている自分を誇ろうとしてしまう時もあります。弱っている時も、自分を誇る時も、神の国を見る内なる目が霞んでしまう私たちに神さまの国を示すために、キリストは子どもを一人一人抱き上げては、祝福してくださいました。私たちに神さまの祝福の中を生きる命を与えるため、十字架によって私たちの罪を担ってくださいました。十字架の傷跡が残るその腕の中に抱かれている私たちにどれほど豊かな恵みが注がれているのか、見つめる者でありたいと思います。