· 

恐れが安らぎに

マルコ64552「恐れが安らぎに」

2021829日(左近深恵子)

 

 深夜、湖の真ん中で逆風に漕ぎ悩む弟子たちの姿があります。漕いでも、漕いでも、舟は前に進めず、疲れて漕ぐのを止めると望まない方へと流されてしまいます。横波を受けて転覆するかもしれません。漕ぎ続けているのに成果が見えず、闇の中で向かい風と波に翻弄される彼らの姿は、いつの時代にも、聖書に聞く者の困難な状況と重なって聞こえてきたことでしょう。感染症によって日常が損なわれ、苦しみ悲しむ人が増え、私たちや社会がそれ以前から抱えていたひずみが深まり、教会で共に礼拝を守ることに幾つもの壁が立ちはだかる今、私たちも弟子たちと共になかなか進まない舟の中で漕ぎ続けているような思いがします。

 

 弟子たちが乗る舟は、湖の真ん中に出ていたと記されています。主イエスの福音を宣べ伝えるお働きの前半は、ガリラヤ湖周辺でなされています。今日の箇所で言われる湖もガリラヤ湖です。しかしここで湖と訳されている言葉は聖書の中で、ガリラヤ湖だけでなく、海をも指します。地中海を指すことも、紅海を指すこともあります。特定の海ではなく、海一般も指します。「海と陸」という組み合わせに天を加えて、神さまが天地創造のみ業をなさった領域である世界全体を表すこともある言葉です。

 

 航海や治水の技術が進歩している現代にあっても、海や波といった大水のエネルギーは大きな脅威です。聖書の時代にはなおのこと、海や嵐の持つ破壊的なエネルギーは、得体の知れない、圧倒的な力でした。自分たちの命や暮らしを滅ぼす大水の力の背後に、人々は神さまの創造の秩序に抗う力、悪しき力を見ました。しかしまた聖書を通して人々は、神さまが大水の力を押し留めて人や動植物が生きることのできる乾いた地をお造りになったと語る天地創造の物語を聞いてきました。出エジプト記は、神の民から自由を奪い、奴隷にして支配してきた最強のファラオの軍勢が、海の力に呑み込まれたと語ります。詩編は、神さまが高い天から御手を遣わして私たちを捉え、大水の中から引き上げてくださる(1871)と、神さまの慈しみに生きる人には、大水が溢れ流れる時にも、その人に及ぶことはない(326)と歌います。敵意や憎しみが渦巻く大水や泥沼の只中にあっても、人が自分の弱さ、無力さを突きつけられところでも、神さまが主であることを語ります。このような数々の信仰の証言に連なるようにして、福音書は湖の只中の弟子たちを語ります。

 

 弟子たちがここにいるのは、主イエスが彼らを舟に乗せ、向こう岸へと向かわせたからでした。主イエスはというと、残って、群衆を解散させておられました。群衆とは、主イエスを求め、人里離れたその場所にまで追ってきた人々です。主はそのようなところまでご自分を負ってきた人々の有様を深く憐れみ、人々に長い時間、教えを語られました。そして人々の空腹を、人々の中から差し出された5つのパンと2匹の魚によって満たしてくださいました。パンを取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては配らせ、魚も分配されると、皆が満腹したとあります。青草の上に腰を下ろした大勢の人が、大きな一つの家族のように、その家族の主であるイエスさまの祈りによって整えられた食事を楽しみ、主イエスが分け与えてくださった糧で養われ、休息の時を持ったのです。

 

 弟子たちを舟に乗せて送り出し、群衆も解散させてそれぞれ家に帰らせると、主イエスは祈るために山へと行かれました。その日の主イエスは、福音を宣べ伝えるために遣わした弟子たちが戻ってきて報告するのを聞き、その間も多くの人が出入りして食事をする暇も無いので弟子たちを休ませるために人里離れたところに来られ、人々が追ってきたので長い時間教えを語られ、ようやく主ご自身も人々と共に食事をされ、弟子たちを送り出し、群衆を送り出されました。忙しいと言う言葉では言い表しきれないような一日を過ごしてこられた主が、祈るための場所を求めて山に行かれます。ここにも祈ることを重んじ、祈るために時間を作り、祈るために行動される主の姿があります。祈りによる父なる神との交わりが、主のお働きに常に伴います。主のみ言葉に耳を傾け、主のご意志にお応えする歩みをしたいと願う私たちは、主イエスほど祈ることを求めているだろうか、祈りが無くてはならないものであることを受け止めているだろうかと考えさせられます。

 

舟をこぎだした弟子たちは夕方には湖の真ん中まで来ましたが、そこから進めなくなります。その日の湖は、主イエスに従い進む者たちの行く手を阻む、荒々しいエネルギーの塊でした。弟子たちは前にもガリラヤ湖を舟で漕ぎ進んでいた時、突然嵐に襲われ、溺れるのではないかと恐怖に陥ったことがありました。その時は主イエスが舟に一緒に乗っておられ、主が嵐を鎮めてくださいました。その時と違うのは、この日、主イエスは舟に乗っておられないということです。しかしこの舟は、主イエスのみ言葉に従って進む舟です。主イエスがこの舟に弟子たちを乗せ、主イエスが向こう岸へと向かわせているこの舟は、主イエスの舟です。岸から最も遠く離れた闇の中で強風に振り回されている弟子たちに主イエスの姿は見えなくても、主イエスは弟子たちの困難を見ておられたと福音書は語ります。主イエスの眼差しの中に弟子たちは居るのです。私たちも今、主イエスの姿を見ることができません。しかし主が全てをご存知であることを知っています。ご自分の言葉に従おうと舟を漕ぐ私たちも、主の眼差しの中にあることを思わされます。

 

夕方から夜になり、夜が深まり、朝が近づいても、弟子たちは、湖の真ん中から先に進むことができずにいます。ガリラヤ湖は、気象条件が悪くても6時間から8時間くらいあれば横断できると言われています。強風に漕ぎ悩む弟子たちはいつもの倍以上の時間がかかっても向こう岸に近づけない中、自分たちを、自分たちだけで向こう岸へと向かわせた主イエスに対して、心の内で幾度も“なぜなのですか”と叫んでいたのではないでしょうか。

 

その弟子たちの困難を見ながら、主は山で弟子たちのためにも祈っておられたことでしょう。弟子たちが先の嵐の出来事を思い出し、主イエスが大水の力も鎮める方であることを思い起こしてくれるようにと、祈られたかもしれません。数時間前に人々と囲んだ食事を思い出すようにとも、祈られたことでしょう。主イエスが、飼う者のいない羊のような神の民を養ってくださる真の羊飼いであることを、神さまからの恵みで人々も弟子たちも満たされたことを、主から受けたパンと魚を人々に配り、彼らが思ってもいなかった主イエスのお働きに参与させていただいたことを、主が彼らを見捨てておられないことを受け留めるようにと、弟子たちのために祈っておられたのではないでしょうか。

 

祈りの後、夜明け前に、主は湖を渡って弟子たちの方へと向かわれました。主イエスに従い進む者たちの行く手を阻む荒々しいエネルギーの波を、主イエスは足の下に踏んで進まれます。強風と大水は弟子たちを翻弄できても、湖を渡る主イエスは、押し返すことも呑み込むこともできません。弟子たちの近くまでこられた主は、通り過ぎようとされたとあります。なぜ通り過ぎようとされたのか、様々な捉え方がありますが、ここには旧約聖書が神さまの臨在を語る時の表現が反映されていると言われています。神さまと面と向かって相対することは、罪深い人間にとって死を意味したので、主なる神は人に現れてくださるとき、通り過ぎることをもってご自身が人々と共におられることを示されたと考えられます。旧約聖書が証ししてきたこのような神さまの臨在の仕方によって、主イエスもご自分がどのような方であるのか弟子たちに示されたのかもしれません。

 

弟子たちは一晩中、主が今舟に一緒にいてくださったならと主を求め続けていたことでしょう。しかし湖を渡ってこられた主イエスを、幽霊だと勘違いします。自分たちと舟に乗っておられず、自分たちから見ることができない主は、自分たちと共にいないのだと、自分たちのことを見てもいないし、自分たちの危機を知りもしない、自分たちから遠く離れているのだと思っていたのでしょう。主イエスに似た姿を見ても、主イエスはここに居ないのだから見えているものは実態の無いものだと思ってしまいます。主イエスの言葉に従って向こう岸を目指す自分たちを、逆風だけでなく、幽霊のようなものまで加わって振り回し、惑わすのかと、激しい恐怖にとらわれ、大声で叫びました。

 

すると主イエスは弟子たちに「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われます。「わたしだ」と訳された言葉は、「わたしはある」と訳すこともできる言葉です。出エジプト記でモーセが神様に、人々からあなたの名を問われたら何と答えるべきでしょうかと尋ねると、燃えるしばの中から神さまが「わたしはある」とお応えになったように、「わたしはある」とは神さまがご自身を表される表現です。「恐れるな」という呼びかけも、聖書の中でしばしば神さまが人に対して告げられる言葉です。“弟子たちよ、恐れることはない。あなたがたが私のことを居ると思おうと、居ないと不満を抱こうと、実態の無いものだと勘違いしようと、あなたがたのそのような不確かな捉え方を超えて、わたしはある”と、主は、現臨される神としてご自分を示され、舟に乗りこまれ、風は静まりました。

 

弟子たちの驚きは大きなものでした。先が全く見通せない強風に揺らぐことなく、深みで何が起きているのか見えない得体の知れない大水を足元に踏みしめる主イエスは、全ての力の上に立つ方であると、その方が自分たちの主であり、自分たちを救う方であると、驚いたことでしょう。しかし既に嵐を鎮めていただいたことがあり、半日ほど前にはパンと魚で満たしていただいたのに、主が風も波も鎮められたと、ただ驚く彼らです。彼らが、主イエスがどのような方であるのかしっかりと受け止めるようになるのは、先のことでありました。

 

 キリストが示された道を進もうとするキリスト者は、教会と言うキリストの舟に乗って旅路を進みます。なぜキリストが示された道を進もうとしているのに、願う通りに進むことができないのかと、迷いや疑問が幾度も湧き起こります。コロナの対策に力を合わせることができないほど混乱し、悲しみと苦しみが日々人々の間に広がっているこの時代です。漕いでも、漕いでも、進まない、漕ぐ力を削ぐ向かい風に阻まれているようです。漕いでいることが徒労に終わるのではないかという焦りや不安が、私たちを祈ること、み言葉に聞き従うことから、空しさの底へと引きずり込もうとする、そのような私たちを翻弄する悪しき力に対してもキリストは主であると、福音書は教えてくれます。主の言葉に従う者の働きは、逆風の中で行われるのだと、順風に乗って進めないから御心ではないなどと決めつけることはできないのだと、気づかせてくれます。神さまのご意志から引き離そうとする全ての力の只中でもキリストが主であることは、十字架、復活、昇天の出来事によって最も明らかになります。そのような力に囚われ、流されてしまう者たちの罪のために、キリストが十字架にお架かりになって死んでくださったこと、神さまがこのキリストを死者の中から甦らされ、天へと引き上げてくださり、聖霊によってご自分の民と共にいてくださるようにされたからです。

 

 キリストの後に従い、キリストから委ねられた働きを為そうとし、逆風の中で苦闘する、その場に主イエスは近づいてくださり、共におられることを示してくださいます。逆風に阻まれるのは悲しいことです。阻み続ける逆風の中でもがくのは辛いことです。けれどその場でこそ、み心に従おうと苦闘する者の傍らに近づいてくださる主を知ることができます。その場でこそ、私たちには鎮めることができない強風を鎮め、私たちには踏みつけることのできない荒波を足元に進まれる主によって、私たちが乗る教会と言う舟は、主イエスの舟であることを知ることができます。そして主は、嵐の先に続く道を示してくださいます。主イエスの舟に乗る私たちの前には、阻まれているこの所で終わってしまうのではない、主が共におられると喜んで終わるのでもない、キリストがご自身の命を捧げて切り拓いてくださった天に至る道があります。この道を主イエスは、理解が不十分な弟子たちを伴い、指導者たちがご自分に向ける敵意が強まる一方の地上の旅路を十字架へと進んでくださいました。弟子たちのように、み言葉を受け止めること、理解することの不十分さが、逆風に漕ぎ悩む中で露呈してしまう私たちです。しかしそのような時こそ共にいてくださり、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と聖書を通し、呼び掛けてくださる主イエスのみ言葉を受け止め、かたくなさを砕かれ、主の導きを心から祈り求めることができる幸いを覚えます。