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主のみ前へと

「主のみ前へと」マルコ524b~34

202181日(左近深恵子)

 

 主イエスは、ガリラヤ湖の向こう岸から戻ってこられました。向こう岸に舟で渡った際には、これまで弟子たちが経験したことのないような激しい嵐に襲われましたが、主は風と湖を鎮められました。向こう側に着くと、汚れた霊に支配されていた一人の人を救われました。それから再び舟で湖を渡り、ガリラヤ地方に戻ってこられると、大勢の人が主イエスを求めて集まってきました。そこに、会堂長のヤイロという人も現れ、娘が病で死に瀕しているから、娘の所にきて手を置いてやってください、そうすれば娘は助かると、主に懇願しました。主はその願いを聞いて、ヤイロの家へと向かいます。主イエスの周りにいた群衆も、主イエスがこれからなさることを見逃すまいと、主イエスの後を、主イエスに押し迫りながら付いていきました。

 

 この群衆の中に紛れ込み、後ろから主イエスに近づき、主イエスの服に触れた人がいました。長い間出血のために苦しんできた人でした。この人が12年間を背負い続けてきた苦しみを伝える聖書の言葉に、聞く私たちもこころが重くなります。自分の苦しい経験と重ねて聞く人もあるのではないでしょうか。以前いた教会で、ここは自分にとって特別な箇所なのですと話してくださった婦人がいました。聖書のこの女性は出血が止まらない病であったとあります。おそらく婦人科系の病気であったと考えられます。話してくださった方も同じ位の年月、婦人科系の病を抱えておられたそうです。言葉少なに、本当に大変でしたと言われた、その言葉にならない苦しみを思いました。聖書のこの女性の身体に病がもたらした辛さ、しんどさを思います。症状を抱えながらの日常に伴う煩わしさを思います。望み見ていたもの、当たり前のように思っていたものを、いくつも諦めてきたことと思います。悪化していく体調が、この先どこまでひどくなるのかと、不安を感じない日は無かったことでしょう。

 

 病による苦しみだけではなく、適切なサポートを得られないことも、この人を苦しめてきました。「多くの医者にかかった結果、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった」とあります。聖書はこの人を苦しめたのは病の重さだけではないことを明らかにしています。医者にかかった結果、苦しめられたと述べています。直訳すると、「多くの医者から多くの苦しみを受けた」となります。新しい聖書の翻訳では「多くの医者からひどい目にあわされた」となっています。医者の病に対する限界があります。他者の苦しみを慮るこころの無さや、貪欲さもあったかもしれません。医者にかかる度に苦しみを受け、期待は失望に終わり、こころの傷が深まってゆく。残されていた肉体の健康が損なわれ、乏しい財産を更に失い生活が苦しくなる。この状況はまた、この人に親身になって支えようとする人が周りに誰もおらず、そのことがこの人の苦難を一層深くしていたことを思わせます。

 

 そして、この人が神の民であるユダヤの社会の中に生きていたからこそ、負ってきた苦しみにも、こころを向けなければなりません。神の民が守るべき決まりである律法は、聖なる神さまの聖さに仕えるように備えることを人々に教えています。レビ記15章は、きよさについて教える中で、男女それぞれの、けがれているとされる漏出について記しています。漏出がある期間用いた寝床や腰掛けもけがれているとされ、その期間他者に触れることも、触れられることも禁じられています。女性の場合は、生理中や不正出血している間について述べられています。だから出血中の女性は、他の人に触れるような交わりや活動を避けました。そうして、けがれているとされる期間が終わり、他の人との交わりに加わり、神さまのみ前に出る祭儀に加われる日を待ちました。しかし12年間出血が続いていたこの人は、他者との交わりも、礼拝で神さまとの交わりに与かることも、12年間できずにいたことでしょう。信仰共同体の礼拝からも、隣人、社会との交わりからも遠ざかるしかなかったこの人が置かれてきたのは、病と貧しさと孤独の中でした。

 

 しかしこの人はこの日、これまで神の国の到来を宣べ伝えながら、多くの人を癒してこられた主イエスが、この町に来られたことを聞きました。人と触れてしまうことを避け続けてきたこの人でしたが、この日意を決して群集の中に紛れ込み、主イエスへと近づき、衣に触れました。群衆がひしめき合い、主イエスに押し迫り、中には勢いで、あるいは敬意を込めて、主に触れる人も多かったことでしょう。しかしそこに居た誰もこの人が触れたことに気づかないような、それはひそかな行為でした。神さまの聖さに対して自分が汚れ多い存在であることを痛いほど知っているから、自分の存在を隠したまま、主イエスにも見つからないように触れて、主イエスの癒しの力に与ろうとしました。聖書は、この人が衣の端に触れると、主イエスの内から力が出ていって、この人は癒されたと伝えています。

 

 主はこれまで、ご自分の意思で相手を癒してこられました。そうして、宣べ伝えておられる神の国とは、神さまのご支配とは、どのようなものであるのか示してこられました。ではなぜこの人は主イエスが決断される前に癒されたのか、このことについて、父なる神が、主イエスにおいて働いてきた力をこの人にも与えようと決められ、為さったことだと説く人もいます。主イエスが触れたのはどのような者かご存じであって、力を与えられたのだと受け止める人もいます。いずれにしても聖書は、癒しの力が主イエスからこの人へと出て行ったことをはっきりと伝えます。この人の行為が物理的に主イエスから力を引っ張り出したのではなく、盗み取ったのでもなく、また主イエスが身につけておられるものは服であろうと主イエスと同じように特別な力を帯びているということでもありません。神さまのお力がこの人に働き、癒しました。そして聖書は、癒しがここで終わりではないことを証しします。この人の方は、ここで終わりだと思ったかもしれません。12年間自分を苦しめてきた病から解放されたのだから、自分が切に求めてきた救いを手に入れられたと、思ったかもしれません。しかし、主イエスはここで終わりにはされませんでした。

 

 主は振り返られ、触れた人を探し始めます。弟子たちは、群集が押し迫り、誰が触れてもおかしくないこの状況で、ですかと、半ばあきれたように主イエスを止めようとします。死に瀕している娘がいる、父親が必死に頼んでいる、その緊急事態で、衣に触れた人を特定している場合ですか、そのことにどれだけの意味があるのですか、それほど緊急のことなのですかと、主イエスを再び前へ向かせようとする、主イエスにとって前とはヤイロの家の方だと、そちらへと進ませようとする弟子たちと、ここにいたほとんどの人が、そして私たちは、同じ思いを抱くのではないでしょうか。触れた人を探すために中断などせず、今すぐヤイロの娘のところに向かうことが正しいことだと。

 

 それでも主イエスは、触れた人を探し続け、その人が名乗り出てくるのを待ち続けられます。弟子たちの言葉も、なぜヤイロの家に行かないのかと焦りや不満が募る空気も退けて探し続ける主イエスを人々の陰から見ていた、病癒されたこの人は、自分の身に起こったことを知って、恐ろしくなったとあります。自分の身に起こったこととは、主のお力が自分の病に対して働いたということだけではありません。このイエスという方が、無名の自分とは異なり皆から尊敬されている会堂長ヤイロの娘を助けに行くことを中断してくださってまで、この自分と交わりを持つために自分を探してくださっている、その交わりの中に自分が招かれているということではないでしょうか。この程度で十分だという人間の期待も、自分が得られるのはこの程度だ、あの人が得ることができるのはこの程度だ、という常識も超えた主イエスとの交わりの中に、この自分が招かれていると、その招きは癒しから始まっていたのだと、知ったのではないでしょうか。そして恐ろしくなりました。初めて主におそれをいだきました。この「おそれ」は、湖の上で、主イエスが嵐も鎮める方であることを知った弟子たちが初めて主に抱いた「おそれ」を表していた言葉と、同じ言葉です。それまで主イエスのことを、自分が望むものを手に入れるのに力となってくださるかもしれない方、自分の人生を充実させてくださると期待することができる方、そのような捉え方をしてきた者が、主イエスの圧倒的な偉大さと、自分自身の小ささ、弱さを知った時に抱くおそれを、抱いたのです。

 

主イエスをおそれる者となったこの人は、おそれおののきながらも主のみ前へと進み出ます。正面から近づきお願いすることができずに背後から主イエスの衣に触れてしまったやましさよりも、そのことを主に咎められることから逃れたい思いよりも、ヤイロの娘のところに向かう主イエスの歩みを止めてしまっている自分に人々が向ける厳しい視線よりも、主イエスをおそれたのです。ひれ伏し、ありのままを話します。すると主は「娘よ」と呼び掛けてくださいます。初対面の、やつれ切っていただろうこの人に掛けられたこの言葉は、「神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」(335)と言われた主の言葉を思い起こさせます。背後からこっそり近づいたこの人の行為を非難するよりも、十分ではなくてもこの人の行いは神のみ心にかなうものであったと、この人は大切な神の家族なのだと、群集や弟子たちの前で認めてくださったのです。

 

そして主は、「あなたの信仰があなたを救った」と言われました。主イエスの衣に触れさえすれば病が治ると思うだけであったこの人の信仰は、なお不十分なものです。主イエスがどのような方であるのか、主イエスのどのようなみ業によって、どのような救いがもたらされるのか、理解しきれていません。それでも、肉体的にも経済的にも精神的にも苦しく、隣人との関わりも神様を礼拝することも妨げられてきて、神さまなどおられないと、神さまは私のことなどどうなっても構わないのだと、嵐の中で弟子たちが抱いたような思いに自分の存在すべてが吞み込まれてしまっても不思議ではなかった絶望と孤独の中で、この人は主イエスに希望を見出しました。神さまが主イエスと共におられる、この方なら救ってくださると信じ、行動を起こし、主へと近づき、手を伸ばしたことに、主はこの人の信仰を見てくださいました。

 

「あなたの信仰があなたを救った」と言われた主の、「救った」という言葉、これと同じ言葉が28節でこの人が「いやしていただける」と思った箇所でも用いられていました。28節では「いやしていただける」と訳されているこの言葉は、「救い」を表す言葉であって、通常身体の癒しを指す時には用いられません。苦しみからの救い、罪の支配からの救い、キリストによる救いを指します。この人が「服にでも触れればいやしていただける」と思ったとき、どのような救いを願っていたのかは分かりません。しかしイエスというこの方のお力によって、どんな医者にもできなかったいやしが、神さまのいやしが与えられると思ったのでしょう。その後出血が止まり、病気が癒されたことを体に感じたと記されている29節の箇所で「いやし」と訳されている言葉は、「救う」を表す言葉ではなく、通常の身体のいやしを表す言葉です。主の衣に触れて身体のいやしが与えられたことが示されています。主イエスをおそれる者となり、み前にひれ伏し、ありのままを話した後に初めて、主イエスから「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」と、救いのいやしが宣言されているのです。

 

 

この人は、神さまだけが与えることのできる救いを求めて、不十分な理解であっても、ただその希望に支えられて手を伸ばしました。この人を主イエスは、その人に命と存在を与え、祝福の内に生きることへと招き出してくださった創造主なる神さまの交わりの中へと導いてくださいました。ご自分との人格的な交わりによって、この人が自分自身を取り戻し、神さまと隣人と、正しい関係に生きることができる者とされました。「安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」と、祝福を告げてくださいます。自分の命と存在と主との交わりが神さまに喜ばれている、その喜びの中を生き始める者とされました。「安心して行きなさい」とは、文字通りに訳せば「平和の内に行きなさい」となります。主に癒され、健やかに歩むということは、主へのおそれと真の喜びを抱き、主の平和の内に歩むことです。そのために主はご自分の背後で、人の群れの中に紛れていた一人の人へと向きを変え、探し、み前に招いてくださいました。会堂長の娘の救いと同じように、この人の救いを重んじておられることを、人々に、私たちに、示してくださいました。私たちが主を求める時、不完全で不十分であっても、祈りをこめて手を伸ばす私たち一人一人を、主はみ前へと、主との交わりへとその関りを正し、深くいやしてくださいます。私たちは身体に苦しみや痛みを抱え続けるかもしれません。しかし主によって与えられる深いいやしは、私たちをすこやかに歩むものとしてくださいます。礼拝でみ言葉と聖餐の糧によって、私たちを本当の深みから力づけ、養ってくださいます。キリストがご自分の命をささげてもたらしてくださった健やかさに生きていきたいと、心から願います。