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神の言葉が蒔かれて

マルコ419「神の言葉が蒔かれて」

202174日(左近深恵子)

 

 ガリラヤの地域で福音を宣べ伝えられた主のお働きの核にあるのは、「神の国は近づいた」というメッセージでした。神の国とは、神さまが支配されるところです。神さまが王であるという信仰です。

 

「神さまが王である、王となられる」「主なる神が統べ治められる」という信仰は、旧約聖書から信仰の根本にありました。例えば出エジプトの出来事において、イスラエルの民を再び自分の奴隷にしようと追ってきたファラオの軍勢から神さまが民を救い出してくださった時に、モーセとイスラエルの民が歌った「海の歌」は、「主は代々限りなく統べ治められる」と締めくくられています(出1518)。預言者イザヤは「私は主、あなたたちの聖なる神・・・あなたたちの王」との神さまの言葉を告げ(イザヤ4315)、詩編の詩人は「わたしの王、神よ、あなたを崇め、世々限りなくみ名を讃えます」(詩1451)と歌います。今はまだ神さまの支配は完全には現れていないけれど、いつの時か神さまが人々を贖うためにご自分の民の所にきてくださる、そう神の民は待ち望んできました。

 

しかし、「神さまが王となられる」、「神さまが王である」、この信仰に立ち続けようとしながら、人はこの世に対する恐れに揺らぐこと多い者です。思いもかけない出来事や世の力によって、信仰の歩みが妨げられることも多々あります。自分の奥底に淀んでいる、神さまでは無いものを神としてしまう思いに更に揺さぶられます。「神さまが王となられる」、「神さまが王である」との信仰に立ち続けることが難しい人々の只中で、主イエスは「神の国は近づいた」と、神さまのご支配が、今まさに世にもたらされつつあるのだと、語られたのです。

 

 「神の国は近づいた」というメッセージが主イエスの宣教の核にあることは主のお働きの冒頭で示されていますが、具体的に何を語られたのか、その内容はこれまで伝えられていませんでした。今日の箇所で初めて、主イエスは具体的に神さまのご支配を、譬えを用いて語られています。この教えは、途中で譬えによって語る理由を挟みながら20節まで続いています。そしてその後に幾つかの譬えが34節まで続きます。これらの譬えは、主イエスが宣べ伝えてこられた神さまの国とはどのようなものであるのか、描き出します。

 

 この日主イエスは、ガリラヤ湖のほとりで語られました。主イエスは安息日の会堂で捧げられる礼拝を中心に、その他の場所でも、屋内でも屋外でも、教えを語られました。多くの人が主イエスを求めて集まってきました。主を求める人が増えれば増えるほど、会堂や神殿で民の信仰生活を指導する人々の、主イエスに対する警戒も強まってゆきました。3章の冒頭では、安息日の会堂で手の萎えた人を主が癒されると、訴える手掛かりを探しに来ていた指導者たちがとうとう主イエスを殺す計画を相談し始めます。3章の後半ではガリラヤ周辺のみならずエルサレムからも指導者たちが主イエスの働きの場にやってきて、悪評を立てて、お働きを妨害しようとしています。人々は指導者たちの主イエスに対する敵意が強まっていることを感じていたことでしょう。それでも主が教えを語り始められると、多くの人が集まってきます。今日の箇所に「夥しい群衆が、(主の)そばに集まってきた」とあります。指導者たちが主イエスを悪霊の頭呼ばわりしても、人々の病んだ魂を癒やし、人々の内なる渇きを満たすために心を砕いて語られる主のみ言葉は、大勢の人の心に届き、もっと聞きたいと人々が願ったのでしょう。湖畔には使徒として選ばれた12弟子や主に従う他の弟子たち、漁師や農夫、病を負った人、悪の力の大きさに苦しんできた人、罪人であることが他の人の目にも明らかな人、様々な人がいました。この全ての人に主は語られました。

 

 あまりに大勢の人が岸辺に集まってきたので、主は舟に乗り、腰を下ろして、湖の上から人々に語り始めます。主は「よく聞きなさい」と先ず言われます。そして譬え話を語り終えた時も「聞く耳のある者は聞きなさい」と命じられます。聞く耳を持たなければ聞き取ることができない神さまの真理を告げる言葉です。聞き取ろうとする耳を持つことを人々に強く求められます。

 

よく聞きなさい、と人々に聞く備えをさせてから主は、世に突入しつつある神さまの国を、人々がよく知る種蒔きの光景に譬えて語り始められます。種を蒔く人が蒔いた種の内、ある種は道端に落ち、ある種は石だらけで土の少ない所に落ち、ある種は茨の中に落ち、他の種は良い土地に落ちます。なぜ無駄が出るような蒔き方をするのかと、良い土地だけに蒔けば良いのにと私たちは思いますが、この譬えのような仕方で、当時、種蒔きがされていたのだと考えられています。穀物畑に先ず種をばらまき、その後にそれを土にすき込むのです。道端に落ちてしまっても、後で畑の土の中にすき込むことができれば育つでしょう。しかし譬え話の種は、道端に落ちた途端に空の鳥に見つかり、食べられてしまいます。13節以下で主イエスはこの譬えの説明をされていますが、そこで種は神さまの言葉であると、種を蒔く人は、み言葉を蒔くのだと教えておられます。種が落ちる土地はみ言葉が蒔かれる人です。道端とは、み言葉を聞いても、直ぐに神さまに抗おうとする力にみ言葉を奪われてしまう人であると言われます。

 

 ばらまかれた種が地表のすぐ下に石がごろごろしている所に落ちると、最初は順調に芽吹きますが、根を深く張っていないので、日が昇るとぐったりと萎れて枯れてしまいます。それはみ言葉を浅く聞いているために、み言葉に生きようとする歩みが何かに妨げられ、苦しいものとなると、こんなはずではなかったと、自分に喜びを与える言葉だと思ったのに違ったと、力を失いへなへなと頽(くずお)れてしまう人であると言われます。

 

 ばらまかれた種が茨の中に種が落ちても、農夫は茨を取り除いたりすき込んだりして、種が成長できるように整えることができるかもしれません。しかし主は種から芽吹いた作物の成長よりも、再び伸び始める茨の成長の方が早く、水分も養分も日光も奪われて実を結ばないと語られ、それはこの世のことでの思い煩いや貪欲な思いで心が覆われ、聞いたみ言葉も覆われてしまう人であると教えておられます。

 

 そして最後に、良い土地に落ちた種は農作の常識をはるかに超える実りをもたらすと言われます。それはみ言葉を聞いて受け入れる人であると主は教えられます。

 

 主イエスは譬えの中で四つの土地を挙げられましたが、そのうち三つが実を結ばずに終わっています。譬えの多くの部分が残念な経緯を辿り、悲しい結果に至っていることに、私たちは自分の実態が言い表されているように感じるのではないでしょうか。み言葉を聞くことは、容易いことではありません。もしもみ言葉が、私たちの内側を抗う思いを抱かせることも、揺さぶることも無い、ただただ心地よい言葉であったら、聞くのは容易いことでしょう。しかしみ言葉は、自分の都合やプライドや不安にではなく、神さまの御心に従うことを求めます。み言葉の中から聞きやすい部分だけを抜き出したり、自分を正当化するために利用したくなる思いにひきずられそうになる私たちにとって、み言葉を神さまの葉として聞くこと、真の恐れをもって聞くことは、容易いことではありません。三つの土地についての譬えは、神さまに敵対するものにみ言葉を消費されてしまったり、み言葉を聞くことに浅かったり、思い煩いや貪欲な思いの中でみ言葉を聴き続けられなくなってしまったりする私たちのこころを、一つ一つ明らかにしてゆくようです。実を結ばないまま枯れてゆく作物のように、萎れてゆくような思いでこの譬えを聞くかもしれません。

 

 けれど主イエスはこの譬えを、三つの土地に種蒔いて終わりとはされていません。良い土地に蒔かれた種は、常識も期待も超える実りを結びます。み言葉とはそのようなものです。み言葉を灯に歩む日々には、思いもよらない仕方で、自分の力を超える実りがもたらされることがあるということを、信仰者は知っているのではないでしょうか。この世を支配している様々な力に不安を抱いたり、悲惨な現実に思い煩うこと多い私たちでありながら、神さまの国がみ子イエス・キリストによってもたらされていることに支えと希望を与えられています。み子の命の値によって、その国の民の一人とされていることに喜びを与えられ、キリストが招いてくださる聖餐の食卓に全ての神の国の民と共に連なり、キリストに養われる恵みを与えられています。もし真理を伝えるみ言葉に出会わなかったら、そう思うと、30倍、60倍、100倍の実りは、誇張した非現実的な表現とは言えなくなるのではないでしょうか。私たちにもたらされてきた恵みは、私たちの常識も期待も超えていたのではないでしょうか。

 

 

 キリストは、この何十倍にも実るみ言葉の種蒔きに加わることを、目の前の岸辺にいる人々に求められ、そして今、キリストのみ前に集う私たち一人一人に求めておられます。み言葉を蒔くことは、み言葉を聞くことから始まります。聞き続けることが、蒔き続けることへと繋がります。私たちの思いや知恵や力によってではなく、何よりも、蒔いてくださり、私たちが思いもよらない仕方で育ててくださっている主のみ業が、私たちの種蒔きの源です。キリストは、土地の状態や環境を比較して、良い土地だけに種を蒔かれるのではなく、ひたすらあらゆる人に実りを願って種を蒔きました。食する暇も打ち忘れて、病んだ魂、乾いたこころにみ言葉の種を蒔き続けられました。そのために、世に降られたのです。譬えは「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」との言葉で始まっています。ただ「ある人が種を蒔いた」と言っているのではありません。種を蒔く人が、種蒔きをするためにと、種を蒔くことが重ねて述べられます。そのために家を出て、種を蒔く場所まで歩いて行ったのだと、種を蒔く前から既に起こされていた行動にも目を向けさせます。天から世に降られ、人となられて、町や村を巡って、み言葉の種を蒔いてくださる方が、「聞く耳のある者は聞きなさい」と命じておられます。神さまが王であることを否定しようとする力にも茨も滅ぼすことのできない、必ず私たちに豊作をもたらす真理の種を、今も聖書を通して、聖霊のお働きによって蒔き続けておられる方が、私たちを種蒔きへと招いておられるのです。