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命名されたものの使命

 

「命名されたものの使命」イザヤ42:1~4、マルコ3:13~19

2021年6月20日 左近 豊

 

4月からマルコによる福音書を読み進めています。登場人物を辿ってゆきますと、演劇の舞台を思い浮かべながら聞くこともできます。スタントンという聖書の研究者が、マルコ福音書を、イエスキリストの十字架の出来事をクライマックスとする「ひとつの劇物語(ドラマ)」に例えていたのを思い出しました(『福音書とイエス』)。

読み手も、聞き手も、この物語に巻き込まれるようにして、登場する人たちに感情移入したり、展開にドキドキしながら、主役であるイエスキリストと出会い、その息遣いや語りかけに触れることになる。そのような劇物語として読むこともできるのです。これは自分1人で部屋にこもって小説のように読む経験とは違うものです。礼拝という一つの場で一つの時を共にしながら、聖霊に満たされて、一緒に味わう経験なのです。

 

幕開けで洗礼者ヨハネが登場して、主役、イエスキリストを指し示しながら一旦は舞台から去ってゆきました。登場されたイエスキリストは、荒れ野での誘惑を退けて、「時は満ちた、神の国が近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」との声を響かせます。続いて4人の弟子たちが招き入れられる。シモンとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネの4人。律法学者たちのようなキャラの濃いバイプレーヤーたちも次々に出てきますが、いつしか、舞台を見ていた観客が、その語りの世界に招き入れられて一つの劇物語に加えられてゆくように福音書は展開してゆきます。

 

今日は、12人の弟子たちが更に登場人物に加えられる場面です。カタカナの名前が羅列されると、初めてお聞きになる方たちにとってはハードルを感じるものかもしれません。ただ演劇の舞台を思い浮かべていただければ、いずれどのような人物なのかが分かってまいります。ここで大事なことは、この12人をイエスキリストが、これと思い呼び寄せ任命して「使徒」と名付けられたということです。

 

12人は、それぞれに何かに秀でた人だから、その才覚に目を見張るものがあったから、選ばれたわけではないことも、マルコ福音書の語りを通して、わかってまいります。イエスキリストが、これと思われ、祈って望まれた12人は、特に信仰深かったわけではないことがこの後、露になります、そもそも主イエスを裏切って十字架に引き渡してしまうユダが含まれていますし、ユダだけではなくて、ここにいる全員が、イエスキリストが十字架につけられた時には、誰一人として、そばにおらずに見捨てて逃げてしまうことも知ることになります。これから頻繁に言及されますが、イエスキリストが語られることもなさることも、一番そばにいて、目の当たりにし耳にしているはずなのに、意味がわからず、頓珍漢な受け止め方をしたり、あべこべな反応をして、「ものわかりが悪いですね」と何度も何度もイエスキリストに言われてしまう人たちでもありました。この中には文書を残して人に伝えることのできるような人も、ほとんどいなかったと思われます。マタイと言う人が、2章で収税所に座っていた徴税人レビと同じ人物だとすれば、数字が読めて、財務管理できる人だったかもしれませんが、他の多くは、弁舌巧みに大勢の人を相手に説得して導くといった訓練を受ける環境にもありませんでしたし、この時点では弁論に秀でていたということもなかったでしょう。中には問答無用、言論よりも暴力による革命もいとわないテロリストとされる熱心党に属していた人さえ含まれています。出身地もガリラヤ地方だけではなくて、ケリヨトの人(イーシュ・ケリヨート=イスカリオテ)もいますし、マケドニア系の名前(フィリポ)もあります。人の目には寄せ集めと映る人たちとも言えます。この後、マルコ福音書の中では最後まで一言も発しないままで終わる影の薄い人たちもいます(フィリポ、バルトロマイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ(レヴィの兄弟?)、タダイ)。けれども、イエスキリストが、これと思われた者たちだったのです。

 

この12人は、福音書を読むものや、聞くものが、だれでもそこに自分を見ることのできるような人たちなのかもしれません。客席から成り行きを見ていたのが、あ、あれ私だ、と気づかされる、あたかも突然舞台に招き上げられたかのような思いにされる。マルコ福音書の語りはそうやって物語られてゆくのです。

ですから、今日、ここにいる私たちも、イエスキリストが、これと思って呼び寄せられた者たち、御もとに来たものたちなのだ、と言って、差支えないと思うのです。そのように聞いてよいのだ、と。では、イエスキリストが、なぜこれはと思われて弟子たちを、そして私たちを呼び寄せられたのか?

3つの意図があることをマルコ福音書は率直に告げています。

1)自分のそばに置くため

2)宣教に遣わすため

3)悪霊を追い出す権能をもたせるため

2)と3)は、既にイエスキリストがここまでになさって来たことでもありました。言葉と行いは聖書ではいつもセットなのです。福音は、イエスキリストの言葉と行いの両方を通して告げられたのです。イエスキリストが告げられる喜びの訪れを、さらに広く宣べ伝えるために、そして、生きづらさや病気で閉ざされてしまった人生を抱えて苦しむ人たちを解き放つ癒しの業へと向かわせるために、これと思って呼び寄せられたのだ、と。

これは大変なことです。イエスキリストがなさっていることを委ねるために呼び寄せられたと知って、「よし!」と胸張って勇んで出て行ける人はそう多くはないかもしれません。そして1)の主イエスの「そばに置くため」ということも、実はた易いことではないということが、マルコ福音書の語りによって次第に明らかになるのです。主イエスが捕らえられ、いたぶられ、十字架につけられるまで、「そばに」居続けられない弟子の姿を通して、私たちの的外れな生き方が浮き彫りにされてゆくのです。

 ただ、肝に銘じておきたいことは、イエスキリストは、それもご存知で、にもかかわらず、これと思って呼び寄せられ、ご自分の働きを委ねるものとされたということです。そのことが、14節に出てくる2つの言葉にあらわれているので、マルコの語りの世界をしばし離れて、言葉の背景にも分け入ってみたいと思います。

 14節には、「そこで12人を任命し使徒と名付けられた」と書かれています。

12人を「任命し」というのは、直訳すれば、かなり変わった動詞が使われておりまして、あえて直訳するならば、12人を「創られた」「創造された」という意味の言葉が使われているのです。「創造された」と聞いて、創世記を思い浮かべられた場合、それは正にマルコ福音書が意図していることでもあります。ギリシャ語版旧約聖書(セプトゥアギンタ)というものがありますが、有名な創世記1章と2章の天地創造の場面で、神が混沌との闘いに終止符うたれて、天と地を創造されたという時に使われている動詞と、ここでの「任命した」が同じ動詞です。不思議な響きではありますが、12人を創造された。全く新しく、それまでの世界には無かった存在を呼び出された、破滅と死の力を捻じ伏せることのできる方が、この12人を創造されたのだ、とマルコ福音書は、あえて引っかかりのある言葉を用いて、違和感を呼び覚ましながら、大事なポイントを強調するのです。主イエスは、私たちを含めて、これと思われたものたちを呼び寄せられ、混沌と死の力と戦って、新しい世界と命の担い手を創造されたのだ、と。持てあます自分がいる、どうあがいても舞い戻らされる悲しみを抱きしめている、抗っては深みに陥って抜け出せないループに自分をあきらめかけている、そのような一人一人を、これと思って呼び寄せられ、キリストは天地を創造するほどの力をもって造り変えることができる。そしてそれにふさわしい名をつけられた。「使徒」と。

 14節のもう一つの大事な言葉が、この「使徒と名付けられた」です。「使徒」という言葉は、「~から」+「送り出されたもの、~によって遣わされた者」という言葉の成り立ちを持っていますので、遣わされた者というよりも、遣わしたもの、送り出した者がイニシアティブを持っていることを含んだ言葉です。新約聖書で、「使徒」と呼ばれるのは、本人たちに特別な取り柄があるということではなくて、ただひたすら、イエスキリストが復活されたことの目撃者であり、そのキリストの復活の証人としてキリストによって遣わされる者だということです。ここには登場していませんが、復活されたキリストと出会った使徒の1人、パウロがコリントの信徒に向けて書き送った手紙に「使徒」の伝えた中身をコンパクトにまとめて語っています。

最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。(コリントI 15:38

イエスキリストが新しい人として創造してくださり、使徒と名付けられた者たちは、聖書に書いてあるとおり(キリストが)わたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことを最も大切なこととして伝えられ、受け止め、この復活の主に出会った喜びを、過不足なく守り伝えるものたちのことなのです。

 

私たちも礼拝の度に、信じている事柄を「使徒信条」を用いて確認しながら、言い表していますが、この「使徒信条」に刻まれている信仰こそが、「使徒」たちが最も大切なこととして命がけで伝え、喜びながら生き、受け継いできたキリスト教の信仰の神髄です。約2000年にわたって教会は「使徒」から受けたものを、次の世代へと伝える働きをひたすら続けていると言えます。

 キリスト教は知れば知るほど複雑で、歴史や地域で異なる展開をしているので、とらえどころがないように感じられることもありますが、そういうキリスト教の諸教会が共通して大事にしている信仰が、この「使徒」の証してきた信仰なのです。ここにおいては、カトリックもプロテスタントも東方(ロシア、ギリシャなど)正教会も全てをひっくるめて一致しているものです。4世紀にまとめられたニカイヤ・コンスタンチノポリス信条には、教会とは「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会」のことであると銘記されています。使徒の信仰を土台とするのが教会だ、と。美竹教会も、この使徒的信仰を土台とする教会に連なって、死を復活の命で打ち破り、絶望を根底から覆し、悲しみの淵を主共にいます所に変えて復活の朝へと招き入れて下さるキリストを語り継ぐのです。

 

キリストの復活の力を知り、使徒の信仰を刻まれ、キリストの命を着る新しい人に造り変えられて、それぞれの週の歩みへと、遣わされてまいりましょう。