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かたくなさを悲しむ

マルコ316「かたくなさを悲しむ」

2021613日(左近深恵子)

 

 主イエスのお働きの初めの頃の出来事を、このところマルコによる福音書から聞いています。ガリラヤ湖周辺の町や村で、安息日になると会堂の礼拝に行かれ、聖書を読まれ、教えを語られました。会堂だけでなく、招かれた家や湖のほとりでも語られ、人々が集まってくればまたそこでも語られました。主が語られていたことの中心は、神の国が近づいたということでした。神さまのご支配が新しく始まっていると、だから神さまの元に立ち戻りなさいと呼び掛けられました。

 

 正しいことを語っていれば、誰もが耳を傾け、納得し、受け入れる、そのような世であって欲しいのですが、人の心の中には、自分の思う正しさの枠を超えるものを受け入れたくない思いがあります。自分の求めていることに応えてくれるものが正しいとしたがる思いが私たちの中にあります。私たちには、キリストの恵みを、キリストに従う喜びを、伝えたいと願うあの人この人がいるのではないでしょうか。けれど、耳を傾けてくれないのではないか、受け入れてもらえないのではないか、そんな話は正しくないと、自分には必要ないと、退けられてしまうのではないかと、躊躇する思いもあるのではないでしょうか。私たちも身に覚えがあるから、誰かが伝えてくれた福音の言葉をあからさまにでは無くても、そのように退けたことがあるから、信仰を与えられてからも、このことに関しては、と退けてしまうことがあるから、だから誰かに伝えることを恐れてしまうのではないでしょうか。

 

 そして私たちは聖書から気づかされます。主イエスも、耳を傾けてもらえない、お語りになった言葉が受け入れられない辛さを味わい続けておられたことを。神の子である主イエスがお生まれになったその瞬間から、世は主イエスを受け入れようとしませんでした。その時代、その地域の王であったヘロデは、新しくお生まれになったと言われる幼子を殺そうと画策します。神さまから救い主の親とされたマリアとヨセフも、生まれてくる子のために泊まる場所を探しますが、どこにも受け入れてもらえず、お生まれになったキリストが最初に与えられた寝床は、人間のための場所ではない飼い葉桶でした。この誕生の出来事に明らかになった世の主イエスに対する反応は、その後も主イエスに向け続けられます。ヨハネによる福音書がその始まりにおいてこう述べている通りです、「光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(15)。光なる主が来られたのに、光よりも闇と馴染んでしまう人間には、その光が目に入りません。真理を見つめるための内なる目を覆ってしまう闇、神さまとの関わりにおいては自分が神になろうとし、人との関わりにおいては、自分さえ良ければという思いで支配されてしまう闇と、主イエスは対峙し続けられたのです。

 

 ガリラヤの町や村を巡って、闇が力を発揮している世に降られ、ご自分において神さまの新しいご支配が始まっているのだと宣べ伝えられた主は、そのお働きの中で癒しもされました。神さまのご支配が、ご自分のお働きの中に実現しつつあることを示すためでした。人の健やかさも生活も人生も呑み込み、押しつぶそうとする闇のような力は、世に生きる人々から次第に健やかさを奪ってゆく、その闇の中にあってもかき消されない光が世にもたらされたのだと示すために、癒しをされました。今日の個所にも、主がなさった癒しが記されています。会堂の礼拝に集っていた一人の片手の萎えた人を、癒されました。驚くべき事がおきました。しかしこの不思議な出来事の不思議さに心から驚き、一人の人が癒されたことを共に喜ぶ人々の姿は記されていません。それよりも、主イエスを訴えようと待ち構え、主イエスを殺す相談まで始める人々の敵意が露わになっている、重たい個所であります。

 

 このような主イエスを拒む人の思いは、主イエスがお生まれになった時から主に向けられていましたが、今日の出来事はその前の個所とつながり、人々の拒む思いが募ってゆきます。直前にはこのようなことが述べられていました。ある安息日に主イエスの一行が麦畑を通られた時、弟子たちは麦の穂を摘んで食べました。空腹だったのでしょう。それを見たユダヤの民の指導者たちが、咎めます。理由は、安息日にしてはならないことをしたからでした。主イエスも弟子たちも律法に定められている安息日の掟をきちんと守っていないと注意する彼らに対して、主イエスは旧約聖書に記されているダビデの出来事を引用されながら、「安息日は人のために定められたものであって、人が安息日のためにあるのではない」と言われ、そして「人の子は」、つまり主イエスは「安息日の主でもある」と告げられました。

 

 安息日は、モーセを通して神さまがイスラエルの民に与えられた十戒の四番目の教えで「安息日を覚え、これを聖とせよ」と定められています。天地創造の第七の日に、創造主なる神は全ての創造の業を離れ、安息され、お造りになったものをご覧になって喜ばれました。この第七の日を神さまは祝福され、聖別され、造られた私たちも神さまを礼拝することによって安息すること求められました。私たちの日常の活動から一旦離れて、神さまのみ前に進み出るこの日こそ、神さまからいただいてきた素晴らしい恵みに気づかされ、感謝することができます。そのようにして、神さまの傍で憩うことを求められました。一週間の終わりと次の週の間に、礼拝のための特別な日を他とは別にして、取っておきます。そうして礼拝が私たちの生活の、私たちの人生の、中心になります。いただいてきた恵みを数え、感謝と賛美をもって神さまのみ言葉を私たちの心の中に受け止める。こうして私たちの内側に蓄えられてゆくみ言葉が、私たちの口を通して、行いを通して現れ出るようにと、「あなたの神、主が命じられた通りに」「安息日を守ってこれを聖別せよ」(申命記512)と、主なる神は告げられました。

 

 このような安息日の律法に示されている神さまのみ心にお応えしたいと真剣に求めていった結果、安息日にしてはならないことが細かく定められるようになったのでしょう。神さまのみ心に近づくためには、律法と言うガイドに沿って生活しなければならないと、律法に反することをしないために細心の注意を払うことが、より正しい在り方なのだと、自分たち自身が誰よりも真剣に律法を守る生活を実施していた指導者たちでした。それなのに自分の弟子たちが安息日に麦の穂を摘むのを止めさせない主イエスの言葉や業は、律法の枠を超えていると彼らは咎めますが、主の言葉にその時は返す言葉が無かったのでした。

 

 その出来事に続くように、今日の箇所のの安息日の出来事が述べられます。指導者たちは片手の萎えた人と主イエスに注目しています。当時の律法学者たちの見解においては、安息日に癒しを行うことが許されているのは命の危険がある場合だけでした。片手が萎えているけれど、今すぐ命に危険があるわけではないこの人の癒しは、日が暮れて、安息日が終わり次の日が始まってから行えば、安息日の規定に反せず、この人も癒すことができます。ではこのイエスという者はどうするのか、もし癒しを行えばこの者を訴えようと待ち構えていたのです。その人々の心の内をご存知の上で、主イエスは癒されたのです。

 

 主は片手の萎えた人に、出てきて真ん中に立つようにと命じられます。そして人々に対して安息日の意味を問われます。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか」と。答えはどちらかなのだと、その間で折り合いをつけることができる、妥協できるとあなたがたは思っているが、どちらかなのだと、あなたがたはどちらだと言うのかと問われます。指導者たちは安息日の規定を真剣に守っています。非常に大切にしています。しかしそれは自分の正しさを守るため、神さまに至る自分の道を守るためになっています。安息日がいわば自分を正しくする道具になってしまっています。けれど神さまが人に安息日を与えてくださったのは、何のためなのか問われます。礼拝によって神さまからの真の安息に与るためではないか、そうして善をもって神さまにお応えし、与えられている命を生き生きと生きるためではないかと。この礼拝で、病によって安息を十分に与ることができない人を癒すことを、指導者たちは悪として、その悪を証拠に主イエスを裁きにかけようとしています。その的外れな在り方を、問い直すことを求められます。

 

 しかし人々は黙っています。問い直すことも、悔い改めることもしないばかりか、無視することで、問いに向き合うことを避けようとします。主イエスは怒り、彼らのかたくなな心を悲しみながら、片手が萎えた人を癒されます。すると指導者たちは主イエスを訴える証拠を掴んだと、出て行って早速主イエスを殺す相談を始めたのでした。

 

神さまへと自分自身を向け、真の安息に与るよりも、主イエスを追い詰めるために主イエスの一挙手一投足に注目している人々に対して告げられた主イエスの厳しい言葉、主イエスの怒り、主イエスの悲しみを聞くと、私たちは居心地の悪さを感じます。もっと優しい言葉を聞きたい、もっと穏やかな姿に触れたいと。しかし、人々のかたくなな心に怒り、悲しまれるまでに、主がどれだけ人々のかたくなな心に、怒りと悲しみを堪えてこられたのか、思わされます。「かたくなな」と訳された元の言葉は、新約聖書で珍しい言葉で、福音書ではここにしか登場しません。他に二か所登場する内の一つ、エフェソ書では、このように用いられています。「(彼らと)同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています」(エフェソ41718)。闇に馴染む人の愚かさ、欠け、無知を閉じ込めるかたくなさは、神さまの命から人をより離れさせてしまうのです。

 

この言葉は、かたくなった状態、鈍い状態を意味します。そしてまた“たこになった皮膚で覆う”という意味もあります。傷を負って感染したりすると、そこを守るように皮膚がかたくなってたこができます。私たちにとって、内側の触れられたくないところ、傷を負ったところ、弱い所、追及されたくないところ、神さまの光に照らされたくないところほど、わたしたちはたこで覆うように、かさぶたで塞ぐように、神さまに触れられたくないと、心をかたくなにします。そうしてみ言葉を無視し、主イエスを退ける画策を始めます。たこだらけ、かさぶただらけになって、真理の言葉を避けようとします。

 

このかたくなな心が、今日の出来事を囲い込んでいます。2節で主イエスを訴える口実を探して見つめる心、4節で押し黙る心、6節で主イエスの殺害計画において結束していく心、安息を与えようとされるみ心から離れたこれらの心のただ中に、主イエスは片手の萎えた人を立たせ、人々の真ん中で真理を告げ、癒しをされました。これが、この日の礼拝でありました。

 

 

私たちも毎週、礼拝を捧げるために集います。振り返れば自分の正しさを自分で守ろうとして神さまのみ心から遠く離れてしまっている一人一人が、日常の場から主のお招きによって呼び出され、主のみ前に集められています。内側はたこだらけ、かさぶただらけです。この私たちのただ中で、主は、新たに命に生きることへと一人一人に語り掛け、神さまの祝福の中で疲れを癒し、重荷を下ろした私たちを、恵みで満たしてくださいます。律法を成就するために来られたキリストが、神さまに至る道となってくださっています。キリストの十字架の死と復活によって、私たちは神さまに赦され、義とされています。頑なさを砕かれ、主の平和の内に、再び歩み出しましょう。