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主にある希望を信じて

2021.3.28. 棕櫚の主日礼拝(於美竹教会)

ヨブ1:20-22、ローマ5:1-5

「主にある希望を信じて」浅原一泰

 

10年前の311日。当時、小学校六年生だった今22歳の長女を学校に迎えに行く車の中で、ラジオから信じられないニュースが流れて来た。仙台市の荒浜地区では津波の為に死体が数十体も放置されている、というのだ。夜遅くに家に戻りテレビの映像を見て絶句した。黒い波が海岸線から遠く離れた田畑をのみ込み、釜石や宮古では防潮堤を越えた津波が家屋を壊し、車や船舶を押し流していたからだ。死者19637人、行方が分からないままの人は2300人を越え、原発事故の為に36000もの人々が未だに福島の家に帰れないままだという。たまたま東京にいただけで被災を免れたことに私は罪悪感を抱いた。いてもたってもいられず、お米や缶詰を買いこんで車を走らせ、仙台で牧師をしていた知り合いのもとへ届けたのだがその時、巨大な船舶が仙台の街中まで津波で流され放置されていたのを目の当たりにした私の三人の子供が思わず息を呑んだことを覚えている。あれから10年。当時は放射能汚染を嫌って福島からの転校生に意地悪をいう東京の小学生の話を聞いたが昨年以来、新潟や山形の方々がコロナが蔓延した東京ナンバーの車を見ると警察に通報したり車を傷つけた、というニュースは何と皮肉なものかと思う。

 

「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。これを言ったヨブは心の底から神を信頼する正しい人間であった。しかしそのヨブが突如として最大の不幸に見舞われる。持っていた財産は全て失われ、10人いた子供たちも津波ではないが突風の為に家が壊れて皆死んでしまう。そのことを知らされ、悲しみのどん底へと叩き落されたヨブから絞り出されたのが「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」という先ほどの言葉である。喜びも悲しみも全ては神の御計画なのだから感謝して受け止めなければならないのだと。ああ、なんと立派な信仰か。そう思うクリスチャンは少なくない。しかし本当にそうだろうか。世の教会も牧師たちもこの言葉を盾にとって実は悲しみ苦しんでいる方々に寄り添おうとはして来なかったのではないか。「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、どんなことにも感謝しなさい」という聖書の言葉を錦の御旗の如くに振りかざし、教会ではいつも明るく笑顔でいなければならないと、暗い顔をすることがまるで罪であるかのように思わせるストレスをまき散らしては来なかっただろうか。人の痛み苦しみを知らない人間からそんな綺麗ごとを言われても、犠牲者・被災者の傷ついた心は癒されるどころかむしろ抉られるだけではないか。自分自身を省みて私は強く反省させられて来た。冗談ではない。お前は被害を受けていないから偉そうにそう言えるのだ、と叫ぶ被災者の方々が夢に出て来たこともある。否、教会は間違っていない、「主は与え、主は奪う」と聖書にも書いてあるではないか、とこの10年、押しつけがましくそう説教し続ける教会があったとしたら私ははっきりと言いたい。聖書はそんなことは言っていない。むしろ、この直後にヨブは変わる。神に対して嘆き悲しみを、恨みつらみにも聞こえる言葉をこれでもかと神に浴びせ始める。そのヨブの顔は暗さを通り越して生ける屍の如くであったに違いない。そんなヨブに明るく愛想笑いをし、いつも喜べ、それが出来ないのはあなたに罪があるからだと迫るのは、不幸にならない為にも人は正しくあらねばならないと決めつける友人たちである。その中で神だけは、ヨブに起こった悲劇を我が事のように心を痛める。安っぽい慰めなど却って相手を傷つけることを誰よりも分かっているからこそ神は沈黙し、ヨブの嘆き訴えを黙って受け止める。苦しみと絶望の余り、もはや生きていたくなどないとヨブが嘆き呻いても、それで友人たちはヨブを見放し、これでもかと侮辱するけれども、神だけはヨブが立ち直ってくれることを信じて、とことんヨブと共に苦しもうとされる。人間から裏切られても決して人間を裏切らない神。人間に利用されても、決して人間を利用しようとはせず、その為に御子が十字架にかかることになっても決して惜しまない神。聖書が伝えているのはそういう神である。そして、そういう神をこそ証しする使命を神は教会に託しているのである。

 

コロナの第四波が押し寄せつつある今日は今年の棕櫚の主日である。また、この教会で3年間神学生として奉仕された倉持おりぶさんがいよいよ伝道の現場へと遣わされる卒業の主の日でもある。主はなぜこんな時に棕櫚の主日礼拝を教会に守らせるのか。またなぜこの日をおりぶさんの旅立ちの日とされたのか。この二つの「なぜ」はつながっている、と私は思う。それは、教会は決して、「主は与え、主は奪う、主の御名はほめたたえられよ」などと安易に言ってはならないことに気づかせる為だ、と思うのである。コロナウイルスの蔓延による世界の犠牲者は270万人を越えた。その数は東日本大震災の犠牲者を遥かに上回る。それでも主の御名はほめたたえられねばならないのか。冗談ではない。それはヨブの友人たちのような、人の痛みが分からない人間の言うことである。神にとっては、たった一つの命さえ無残にも失われることが我がことのように辛く、苦しく、痛みを感じずにはいられないそれは出来事なのではないか。だからこそ、神だけは一人一人に与えたかけがえのない命を決して諦めない。どんなに弱く小さく貧しい命であっても、たとえ踏み外して悪の道に走ろうと偽善の道へと落ちぶれようとも、神だけはその命を決して諦めない。綺麗ごとをいうヨブではなく、生きていたくないと嘆くヨブをこそ神はどこまでも信じて待ち続け、共に苦しんだように、どんなに小さな命のためにも苦しみ悲しみを背負い、誰もが諦め見放さざるを得ない命であろうと神だけはどこまでも諦めずに寄り添う。その思いを実現させるために神は二千年前、遂に御子を、御子を通してご自分を悪の手に引き渡される。ヨブの嘆きや友人たちからの罵りを黙って受け止めた神は今や、罪に支配されている人間共から浴びせられるありとあらゆる罵詈雑言のすべてをも御子イエスを通して受け止められ、耐え忍ばれる。ヨブを信じ、人間を信じたい神にとってそれはまさしく試練であり、苦難であり、それ以外の何ものでもなかったと思う。

 

ヨブが苦しむことを神は望んでなどいなかった。10年前の震災で二万人の命が失われ、また福島原発の爆発で数万もの人々が苦しむことを、コロナ故に270万もの命が失われることを神は決して望んでなどいない。死んだ命を嘆くことしか人間には出来ないが、神だけは諦めずにその命をどこまでも真剣に、必死に、真摯に追い求める。だからこそ御子を、御子を通してご自分を、神は罪の支配の真っただ中へと、死の暗闇の奥底までも差し出された。そうではないだろうか。しかし、真の命が死をもってしても終わらせることができないこと、この世では儚く見えても神の国では燦然と輝き続ける光であること、その光が暗闇の中でも輝くことを示すために神は御子を十字架の死からよみがえらせるのである。ヨハネ福音書では、十字架の上で息を引き取る間際にイエスは「成し遂げられた」(19:30)と言った。それは、空しく終わって良い命などあり得ない、どんな命をも見捨てないという神の思いが成し遂げられたということだ。その神の真摯なる思いを、敵である自分の為に命さえ投げ出し賜うイエスの愛を二千年前、これでもかと思い知らされた一人の人間がこう言わざるを得なかった。「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。」

 

しかしながら、10年前の被災者たちに、コロナの為に愛する者を失った遺族にこの言葉だけを切り取って伝えたらどうなるだろう。「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」などと偉そうに伝えたら、被災者の心は益々傷つき抉られるだろう。パウロがこの言葉を綴ったのは、辛酸をなめ尽くした最後の最後に彼が記したローマの信徒への手紙において、である。この言葉を語る前にパウロもヨブの如く死の苦しみを味わった。その中でパウロも気づかされていったのである。10年前のあの時も黙って被災者たちの呻き苦しみ嘆きの全てを受け止められる神に。小さな命が無駄に失われることに耐え切れずに御子を、御子を通してご自分を悪の手に引き渡す神に。猛威を奮う残虐な罪の攻撃を身代わりとなって受け止め、十字架の苦しみをも背負い抜いた御子を死のどん底からよみがえらせる神に。棕櫚の葉を振りながら笑顔で取り繕って済ませようとする人間たちに、惨め極まりない弱々しい十字架の御子の姿をつきつけて彼らのぬか喜びを失望させた挙句、誰もが知らない、目には見えない真の命の光を輝かせる神に。

 

闇の中でも輝き続けるこの神の愛に打ちのめされたからこそパウロは続けてつぶやくのである。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」のだと。神とはそういうお方なのだと。すべての命は、神によってそのように導かれる為にあるのだと。そのような神をこそ証しさせるためにキリストは世に教会を建て、伝道者を立てられるのである。

 

耐えなければならないのではない。いつも喜んでいなければならないわけでも絶対にない。むしろ耐えられないような貧しい者の身代わりとなって苦しみを背負い、喜べないほど傷つき倒れている弱い者をも悪の手に引き渡さず、神はどこまでも信じて待ち続けている。それが神の望みである。ヨブのように絶望のどん底においやられても、自分に生きる意味などないと嘆くことしか出来なくなっても、それでも神だけは我々一人一人に対する希望を決して諦めない。そのために神は自ら祈り、苦しみ、動かれる。それが今日この棕櫚の主日から始まる受難週である。それは「ひとたびは死にし身も、主によりて今生きぬ」という福音を、命ある者全てに気づかせる為にある。全ての苦しみを背負い、御自分の命に代えても皆さん一人一人を決して諦めない神に思いを寄せる受難週を共に過ごしたい。そしておりぶさんには、主にある希望を信じて生きるように、生きて良いのだ、という福音を迷える羊たちに宣べ伝えていただきたいと願って止まない。