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見えるようになって

2021.2.28.美竹教会主日礼拝

列王記下5:9-14、ヨハネ9:1-7

「見えるようになって」浅原一泰

 

先日、アメリカでのコロナウイルスによって亡くなった犠牲者が50万人を越えた。新しく大統領となったバイデンが追悼の言葉を述べていたが、その中で、その数は第一次世界大戦や第二次世界大戦で亡くなった犠牲者よりも多く、またベトナム戦争で亡くなった犠牲者の数よりも多い、とバイデンは語っていた。何とも痛ましいことだ。日本での犠牲者の数はそこまで多くはなっていないが、しかしコロナによって命を絶たれた方が決して少ないわけではない。我々が単にその数に慣れてしまって何とも思わなくなってしまっているだけなのであって、今日もまたこの日本のどこかで、決して少なくない命がコロナの為に絶たれようとしていることに変わりはない。そのような状況に置かれていながら我々は今、主のからだなる教会に召し集められ、礼拝と言う神の御業に与っている。我々は何を思うべきなのだろうか。どう振る舞うべきなのだろうか。バタバタと命が失われている今のこの現実をどう受け止めるべきなのだろうか。考えても考えても答えは見つからないだろう。右往左往することしか出来ないだろう。しかしそのような我々に対して、なんと聖書は次のように語りかけて来る。それは「神の業がこの人に現れるためである」のだ、と。

 

以前この教会の礼拝で、「預言者の働きは人間の思惑を外すことにある」という旧約聖書学者の並木浩一先生の言葉を紹介したことがある。新型コロナによって我々の生活が激変して一年の歳月が流れた今、そしてようやくこの国でもワクチンの接種が開始され始めている今、改めて先ほどの言葉を思い起こしている。寒い季節にはウイルスが活性化し感染者が激増するとは、ワイドショーなどに出て来る感染症の医者たちが毎日テレビで話していた。ワクチンの接種が始まれば、副作用の心配はあるけれども、死に至る可能性は間違いなく激減する、ということも言われて来た。しかしそれらも、自分の知識や科学的データを根拠にした人間たちのある種の思惑である。その思惑は当たったのかもしれないし、当たらないこともあるかもしれない。しかしいずれにせよそれらは、神の業が現れたということとは違うだろう。けれども礼拝に集められている我々が切に祈り求め、信じて待ち望まなければならないのは、このコロナに蝕まれ切っている今の世の只中においてこそ、これは「神の業が現れるため」なのだ、と聖書が告げていることなのではないだろうか。しかしその神の業とは何なのであろうか。果たしてそれはどこに現れるのであろうか。

 

列王記に出て来たアラムの軍人ナアマンは王から信頼される歴戦の勇士であったが、重い皮膚病を患っていた。異邦人である彼はアブラハム、イサク、ヤコブの神を知らないし、出エジプトを実現させたイスラエルの神を知る由もない。しかしたまたま彼の妻の召使の中にイスラエルの少女がおり、その少女が「サマリアの預言者ならご主人の病気は治せる」と告げたため、ナアマンはあの預言者エリシャのもとを訪ねたわけだ。信頼する部下の為にアラムの王も親書を書いたと聖書は伝えている。しかしエリシャは直接ナアマンに会おうともせず、部下を通して、ヨルダン川で七度体を洗え、と言わせただけだった。エリシャが自分の体に触れて、誠心誠意尽くしてくれると期待していたナアマンの思惑はものの見事に外される。そこで彼は怒り出してしまう。親書を書いてくれた王様にも顔向けできない、メンツが立たないではないか、と思っただろう。

 

ヨハネ福音書ではイエスの前に生まれつき目の見えない人間が現れる。イエスの弟子たちはたまらずイエスに尋ねる。彼が病気なのは誰が罪を犯したからですか。本人ですか。それとも両親ですか、と。当時のユダヤでは、病気も不幸も神に対する罪の報いだと思われていたからである。病気の原因が本人か両親の犯した罪であると分かれば、自分はそうしないように居住まいを正そう、親にも伝えておこう、というのが病に対する最善の防御策だったのだろう。それが彼ら人間たちの思惑であった。しかしその思惑は、イエスによって見事に外される。イエスはこう言ったからである。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。」

 

飲食に注意する、マスクとうがい手洗いを徹底する、それがコロナに対する最善の感染防止策だと我々も教え込まれて一年になる。確かにそれは意味のあることだろう。しかしそれらも人間の思惑に過ぎない。そしてその思惑を含めて、人間のありとあらゆる思惑をすべて、この一年、イエスは外し続けて来たのではないだろうか。ワクチンさえ打てば元通りの生活を取り戻すことができる。そう思いつつある我々人類の今現在の思惑をイエスはこれからも外し続けようとしているのではないだろうか。こうすればこうなる。これをしたら危ない。命を自分で思い通りに守れるかのように過信し、死なないのなら何をやってもいいではないかと、あのアダムのようにしか生きられなくなっている人類の思惑をイエスは今も、これからも外し続けると思うのである。神の業に人類の目が開かれるまで、我々の目は見えないままなのではないか、と思うのである。

 

しかしイエスはこうも言っていた。「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」と。聖書でいう闇は罪が支配する領域である。希望を失わせ、諦めと絶望感しか抱かせずにただ死を待つしかない生ける屍へと命ある者らを貶めていくそれは世界である。そしてその闇が全てを覆い尽くす夜とは、神なきこの世、神を知る者が一人もいないまさに天地創造前の状態、地は混沌として闇が深淵の面にあるあの世界のことであろう。しかし神は、まさしくその闇の世に向かって叫ばれたのである。「光あれ」と。二千年前、イエスも言われていた。「だれも働くことのできない夜が来る。わたしは、世にいる間、世の光である」と。そして今なお、いや今こそイエスは神を求める者たち、光を求める者たちに向かって、その一人一人を礼拝へと招き、その使命に気づかせようと語りかけている。その使命とは、イエスに従うことである。より具体的には、「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」、というあのイエスの言葉に心抉られ、心揺り動かされることである。

 

イエスが生まれつき目の見えない人を連れて行ったシロアムという池とは、「遣わされた者」という意味の池とは、実は主のからだなる教会のことを指していた。その直前に、主がこねられた土を見えない目の上に塗られていたが、その池に行って洗えと主が命じられたのは、まさしく教会で洗礼を授けられることを指していた。その人において神の業が現れるからである。その人において神の業が始まるからである。皮膚病のナアマンに、ヨルダン川へ行って七度体を洗えとエリシャが指示したのも同じであった。しぶしぶ身を洗ったナアマンにおいて確かに神の業が始まった。その神の業は先ず、彼の皮膚病が治るという形で示された。今、目の見えない人がシロアムという池に行って、そこで洗うようにと主が指示したのも、弟子たちや周りにいた人間すべての思惑を外し、目の見えない病人本人の思惑をも外す言葉であった。しかしそこに神の業は現われた。それは新しく生まれる為の、教会という生けるキリストの体に結ばれる為の、教会における洗礼という新しい命へと踏み出す為の、第一歩であり、その命の産声を挙げることに他ならなかったのである。そして聖書が、「その人は見えるようになって」と伝えているのは、その人において新しい命が、神の与え給う真の命が輝き始めたことを指していた。生きているように見えても、神に生かされていない古い命は見えていないままである。闇の夜から一歩も外へ出られていないままである。しかし主に結ばれて新しい命へと生まれ変わらされた命は、闇に覆われていたとしても光に包まれている。死で終わることのない命へ、十字架の死からよみがえらさられる真の命へと移し変えられている。「見えるようになって」とはそのことである。そしてその時、その人に、紛れもなく神の業が現れていた、神の業は確かに始まっていたのである。

 

 

コロナに揺さぶられようと、ワクチンの効き目があろうとなかろうと、皆さんも「見えるように」されている。主によって新しい命へ、死んでも終わることのない命へと移し変えられている。洗礼を受けてはいなくても見えるようになれ、と確かに主に招かれている。しかし罪の力はまことにしぶとく、死の恐怖をつきつけて我らを生ける屍へと追い落とそうと常にすきを窺っている。寝首をかこうとする。だからこそイエスは言われていた。「わたしは世にいる間は世の光である」と。そうして見えないものを見えるように生まれ変わらせ続けて下さっている。今のこのレントの時も、見えると思い込んでいた我らを打ち砕くために主が与えて下さった試練の時である。全地が闇に覆われないように、「わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない」、その為に今日この主の日も主イエスが皆さんを生かしている。用いている。この礼拝に皆さんが与っていることが既に、神の業が皆さんにおいて現れていることであるのだと。その主の声を受け止めて今日からまた、新たなる命に生かされつつ、その命を闇の世に向かって証ししていく歩みを共に始めて参りたい。