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今日も与えたまえ

マタイ62426「今日も与えたまえ」

2021131日(左近深恵子)

 

 祈りの力を思わされることの多い時が続いています。私たちは、自分や自分が直接関わっていることのため、自分にとって大切な人が直面している状況のため、直接関わりが無くても案じられて仕方が無いことのため、この間幾度となく祈って来たのではないでしょうか。切実な問題が私たちを祈りへと向かわせます。神さまから祈ることを教えられているから、心を神さまに向けるということを、祈るという仕方で向けられるということを知っています。時に根底から揺さぶられ、圧迫感の中で心が折れそうになる私たちに、神さまが祈りを与えてくださっています。たとえ自分の中に心を注ぎ出す言葉が見つからなくても、「主の祈り」と呼ばれる祈りを主イエスは教えてくださいました。この祈りによって共に祈りを捧げることができます。実際に会うことができない人たちとも、主にあって互いに祈り合うことができます。これまでそうであったようにこの先も、礼拝の度に、その他の教会の集いの度に、祈り合います。教会の礼拝や集会、そして生活の中に作る祈りの時間が、祈りをもって歩む信仰の足腰を鍛えます。教会や日々の生活の中で養われる祈りの姿勢が、祈ることへと私たちの背中を押すのでしょう。神さまを、特に祈りの時として設けているのではない日常の中で、祈り求めることがあります。それまでに聞いていた神さまの言葉を、このようなことを示していたのだと受け留めることへと導かれ、その気付きが私たちの次の行動を変えていくことにつながっていくことがあります。それも祈りに含まれます。祈りは、私たちを神さまとの交わりの中へと導き、神さまにお応えすることへと導くものだからです。主の祈りの第四の祈り、「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」という祈りは、まさに日常の時の中にあって呼び求める祈り、日常の中で神さまの言葉を聞き分ける機会の多い事柄を祈る祈りであります。

 

 主イエスは主の祈りの前半で先ず、神さまに直接関わることを祈られました。第一の祈りは、神さまのみ名が崇められますようにと、つまり神さまを聖なるお方として崇め、賛美し、私たちを通して神さまの栄光が現わされますようにとの祈りでした。第二は「み国を来たらせたまえ」と、つまりキリストによってもたらされている神さまの救いが、私たちにおいて一層実現しますようにと願う祈りでした。第三の「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」は、天のみ使いたちが神さまのみ心に従っているように、地上に生きる私たちもみ心に従うことができますようにと願う祈りでした。このように前半の祈りは神さまに直接関わることではありますが、私たち自身を神さまの方へと向き直らせ、私たちの思いや行動を整えることへと促す祈りでもありました。それらの祈りに続いて後半では、私たちに直接関わることについて祈ることが教えられます。これまで祈ってきたことを更に具体的な言葉によって願います。それらが私たちに必要なものであるからです。

 

 私たちは、主イエスが教えてくださり、先ずご自身が祈ってくださった主の祈りの中に、「日用の糧」を願う祈りがあることに意外な印象を覚えるのではないでしょうか。そして私たちに直接関わる願いの中でも、罪の赦しや悪からの救いよりも先に日用の糧を願うことを主が教えておられることに、嬉しい驚きを覚えるのではないでしょうか。キリストは糧の問題が祈る事柄であることに、気づかせてくださいます。糧のために労すること、案じること、戦うことばかりになりがちな私たちに、糧や生存のために祈ること、祈りにおいて労することを教えてくださいました。

 

「糧」と訳されている言葉は「パン」という言葉ですが、パンだけを指すわけではありません。「日用」という言葉は音だけ聞くと分かりづらいのですが、「日用品」の日用です。生存していくために私たちの体が日々必要としているものが、ここで祈られています。一日欠ければ辛くなるものですから毎日祈ります。マタイによる福音書(611)が伝える主の祈りではこの部分は「私たちに必要な糧を今日与えてください」となっていて、今日与えられることに重点があります。ルカによる福音書(113)が伝える主の祈りでは「私たちに必要な糧を毎日与えてください」となっていて、毎日、継続して与えられることへの願いに強調があります。どちらの表現も、糧を必要とする私たちの現実をよく表しています。

 

この祈りは私たちに、出エジプトの出来事も思い起こさせます。人として生きることができない奴隷の地から導き出された人々を、神さまは天からのマナと呼ばれるパンとうずらで養ってくださいました。毎日必要な分だけ降らせてくださり、人々が夕方にはうずらの肉を食べ、朝にはマナを食べて満腹することができるようにしてくださいました。そして、家族ごとに一日に必要な量を集めるようにと、教えられました。しかし幾人かの者が神さまの言葉に聴き従わずにその一部を翌日まで残しておきました。今日神さまが与えてくださっても、明日十分与えてくださるかどうか、不安になったのでしょう。すると翌日のためにと残しておいたマナに虫がついて臭くなってしまったのでした(出161721)。神さまがこの先も糧を与えてくださることに信頼しきれない思い、神さまよりも今手に入れられたものに頼る思い、たとえそれが他の人々、他の家族の分まで侵害してしまうことになっても、自分や自分の家族のために余計に集めて置きたい思いに引きずられてしまうところが人間の中にあることを、神さまは既にご存知でありました。虫がつき、臭くなったマナを前に、ようやく人々は神さまのそのみ心に目を開かれたのでした。もしもマナが、次の日になっても食べられる状態であったら、人はマナを集めなかったその日一日を、神さま無しに生きてしまうでしょう。神さま無しに自分の才覚で生き抜いていけると思ってしまうでしょう。これから先も、神さまのみ名を崇めることも、神さまの救いのみ業の中に生きることも、神さまのご支配が自分の思いと生活に実現されることも、願い求めずに生きようとするでしょう。生命と体を人にお与えになった神さまが、今日も、明日も、この先も、主が招いてくださる神の国の食卓に至るまで、この旅路を養い続けてくださることに信頼し、終わりの時から今日を見て、今日一日を神さまのみ前で、神さまからの恵みに生かされて生きることを、願うのです。

 

主の祈りを弟子たちに教えてくださった主イエスは、その少し後で、神さまが人々に注いでおられる深い慈しみについて語っておられます。空の鳥や野の花々を取り上げることによって、人々に食べるもの、着るものが必要であることを神さまがご存じでないはずはないということを、人々には尚更憐れみと配慮を与えないはずはないということを、気づかせてくださいます。ご自分の民を、ご自分の子としてくださったほどの神さまです。み子イエスの後に続いて、「天におられる我らの父よ」と祈ることができる者としてくださったほどなのです。主イエスは「あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」と言われています。自然や鳥を愛する人は、ひっかかりを覚えるかもしれません。しかし私たちが鳥よりも価値があるのは、私たちが神の子とされているからです。空の鳥について、「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」と言われ、その鳥よりも人は価値があると言われることに、ひっかかりを覚える人もいるかもしれません。しかし私たちが糧を産出する労働力を持っているから、価値があると言われているのではありません。価値は、独り子なる神の十字架と復活によって私たちが神の子とされている、その御業によって確かなものとされています。奴隷の地も葦の海も後にすることができた民が、繰り返し糧や水について不平を言ったように、神さまのみ心から離れてしまうことを繰り返し続けてる私たちを、神さまはご自分の子としてくださり、私たちが毎日必要な糧を得られているのか、心を砕き、見つめておられます。父なる神に心を向けず、必要なものを祈り求めようとせず、親無しで生きていこうとしてしまう、親無しで生きていけると思ってしまう私たちに、天の父の祝福の中で毎日を生きなさいと、主イエスは祈りを教えてくださっているのです。

 

主イエスは「思い悩むな」と言われました。このことを言われる前に「だから」と言う言葉で前の箇所の流れを受けておられます。誰も神と富、二人の主人に仕えることはできないと、神さまに従いながら、富に仕えることはできないと、言われます。富と訳されている言葉は、人の全所有物を意味しており、そのもの自体に否定的な意味はありません。この言葉は更に遡ると「信頼できるもの」「人が頼みとするもの」といった意味があると考えられています。ここに人の問題が表れているようです。所有物が問題なのではなく、所有物を頼みとすること、自分が頼みとするものを神さまに並ぶものとしてしまい、主としてしまうこと、それが可能であると思ってしまうことを、主は問題としておられるのでしょう。

 

出エジプトの途中で人々がマナを必要以上に所有しようとしたように、これが自分の頼みのものだと、これを所有しなければ生きられないと思えば、神さまからいただいたマナでさえも自分の富になり、主になり、所有しているつもりがそれに仕えることになってしまいます。マナをため込もうとした人々は、神さまでは無く、富に仕えていたと言えます。主イエスは「二人の主人に仕えることはできない」と言われ、更に「神と富に仕えることはできない」と言われ、二度も「できない」という言葉を用いています。言葉を重ねて私たちを留め、神さまでは無いものに仕えようとするところから引き戻そうとしてくださいます。私たちが、二人の主人に仕えることができると思ってしまうからです。神さまに頼るよりも、神さまでは無いものに頼ることの方が楽に見えてしまうからです。そう思ってしまう、そう見えてしまう私たちを守るために、「できない」のだと繰り返し言われ、私たちを守るために、ただ神さまにのみ従うように語られた主が、私たちを守るために、十字架にお架かりになったのです。

 

 

コロナ禍によって、日毎に必要なものを手に入れることに困窮する人が増えています。自分が所有するもので自分を守らなければという不安が、私たちをも、世全体をも、覆い尽くさんばかりです。キリストは、私たちの全ての嘆きをご自分の嘆きとしてくださいました。そして、「だから言っておく」と、思い煩いから解き放つ言葉を語り掛けてくださいました。私たちと同じように肉体を持つ人間となって、私たちと地に身を置かれ、嘆きの只中に降られたキリストは、主の祈りにおいて、困窮している全ての者と共に、「わたしたちの日用の糧を与えたまえ」と祈ってくださいました。神である方が、私たちの王なる方が、ご自分をも「私たち」の中に含め、口火を切って祈られ、大きな深刻な問題だけでなく、日常の小さなことにおいても神さまにのみ信頼し、神さまに祈り求めることを教えてくださいました。所有しているものによって自分を守ろうとする私たちですが、キリストによって神の子とされた私たちは神さまに属している者、神さまのものです。終わりの時に至るまで確かなこの事実は、私たちの生命と体が弱り、死へと向かう時の中にあっても、死の只中にあっても、揺るぎません。思い悩みから私たちを解き放つのは、終わりの時に私たちの救いを完成してくださる主への信頼と、主のみ名によって祈る祈りです。全てに勝利される主に、その勝利によって私たちの忍耐も労苦も徒労には終わらないものとしてくださる主に、今日も、明日も、共に祈りを捧げていきたいと願います。