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逃れる道をも

2021.1.24.美竹教会主日礼拝

ヨブ13:7-12、Ⅰコリント10:12-13

「逃れる道をも」浅原一泰

 

神に代わったつもりで、あなたたちは不正を語り、欺いて語るのか。神に代わったつもりで論争するのか。そんなことで神にへつらおうというのか。人を侮るように神を侮っているが神に追及されても良いのか。たとえひそかにでも、へつらうなら神は告発されるであろう。その威厳は、あなたたちを脅かし、恐れがふりかかるであろう。あなたたちの主張は灰の格言、弁護は土くれの盾にすぎない。

 

だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。

 

 

私が教えている中学校では、三年生にとっては卒業前の最後の残り僅かな日々となる三学期が始まった。短いその三学期において、最後にこれだけは聞いて卒業していって欲しい、と思うのはイエスの受難についてであると。コロナでこの一年、様々な制約や我慢を強いられた君たちだからこそ感じるものが必ずあると思うからと。そう前置きを言ってから三学期の授業を始めた。何ら悪いことをしていない神の子が鞭打たれ、虐げられて最後は見せしめとして十字架の刑に処せられる不条理。負け犬と何ら変わらないように見えるその方をこそ救い主、メシアと崇める教会の信仰という、この世の価値観からすれば理解できない矛盾。他ならぬ私たちも、この世からすれば理解される筈もない群れの一員として今、礼拝を守っている。従って確かなことは、誰からも崇められ、誰からも慕われ、誰からも惜しまれて、安らかな笑顔で死んでいったような存在は教会の主ではない、ということである。我らが主と崇めるお方は、唾吐きかけられるほどに惨めで無様な姿となって死を遂げるしかなかったほどに、苦しみの極限を味わい尽くされた存在だ、ということである。

 

来月17日の灰の水曜日から世界中の教会は受難節を迎える。主の十字架の御苦しみを思い、悔い改めの思いをもって過ごすべき時を迎える、と言っても良い。しかし実際には、思いはあっても日常の現実に流されてしまう弱い自分がいる。自分自身の過ちの責任を、最終的には十字架のイエスに全て擦り付けて自分は赦されていると言い聞かせている弱い自分がいる。だからとりあえず笑顔を作って体裁を整えようとするあざとい自分がいる。皆さんもそうではないだろうか。そんなクリスチャンが集まる教会がコロナのような予期せぬ試練、思いもよらない苦難に見舞われても、本当の悔い改めへと導かれることはないように思う。むしろある者たちはこの試練の中でいかに賢く立ち回っているかと言ったことで見栄を張り合い、少しでも自分の株が上がることを求めている、かのように見えてしまう。ただ、それで自己満足は得られるのかもしれないが、自己満足は信仰には決して結びつかないだろう。主により頼む思いは深まらないからである。苦しみの極限を味わい尽くしたイエスを彼らは見てはいないからである。

 

主イエスの御苦しみ。それは私達に何を伝えているのであろうか。主が身代わりに苦しみを受けて下さったおかげで私達の罪が赦された。ただそれだけのことであろうか。主が血を流して下さったから私達は洗い清められた。ただそれだけのことなのであろうか。もしそうであるなら、何故未だに世界に平和は訪れないのであろうか。先日、核兵器禁止条約が発効となったが、当の核保有国やNATO、そして唯一の被爆国である日本もこの条約には賛成していない。むしろ核保有国アメリカの民主主義は、自分さえ良ければいいという自国優先主義を前面に押し出したトランプ政治の支持者らが議事堂へと乱入し、血が流され死者も出たことによって脆くも踏みにじられた。それが現実である。主が血を流されたのだからその者たちの罪も赦されるのであろうか。私達は既に洗い清められている、などとどうして言えるであろう。そんなものは、そう主張する人間たちの思い込みに過ぎないのではないだろうか。

 

二千年前、十字架への主の受難の道を阻もうとしたペトロをイエスは「退け、サタン」と叱責された。そしてその直後にこう言われていた。

「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」(マルコ8:34-35)

 

私が十字架にかかりさえすれば全てが丸くおさまる、などと主は決して言われていなかった。主はペトロに、私に従いたいならば自分を捨て、自分の十字架を背負え、と言われたのである。先ほど読まれたⅠコリント10章のパウロの言葉も、その主の思いを受け継いでいたと思う。

「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます」。

 

この言葉は甚だしく誤解されて来た。試練に遭わせないで守ってくれる神、というイメージが定着して来たからである。しかしよく見ていただきたい。パウロは、神が試練に遭わせない方だとは一言も言っていない。耐えられないような試練に遭わせることはない、と言っただけである。さらにまた、ただ逃げ道だけを神が用意するのではない。「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます」とパウロは言ったのである。試練は避けられない。苦難も避けられないのである。但し多くの者は、そこから逃げたいと思うのかもしれない。気づかないふりをしてごまかしたいのかもしれない。しかしそれでは、その人は自分にしがみついたままである。本当はイエスは、試練や苦難から逃げないよう、求めていたのではないだろうか。そのような時こそ自分を捨て、自分の十字架を背負って私に従えとイエスは言っていたのではないだろうか。自分を捨て、自分の十字架を背負うことこそパウロが言った、試練と共に、それに耐えられるように主が備えて下さると言うあの「逃れる道」につながるものだ、と思ったのである。パウロはなぜそのような言葉をコリントの人々に訴えたのか。それは彼らが試練から逃げようとしていたからであった。キリストの十字架の死によって罪赦されたことに甘んじて、後の残りの人生は平穏無事に、楽に暮らせたらそれで良い、と思っていたからであった。そうする内に彼らは次第にキリストに祈り求めることもしなくなり、そのような自らの信仰を間違っているとさえ思わなくなっていったのであろう。彼らは楽をする為にキリストの十字架を利用しようとしていたのである。利用するだけ利用して誰一人自分を捨てようとはしなかった。自分の十字架を背負おうとはしなかった。キリストに従おうとはしていなかった。コリントの信者達がそんな体たらくになってしまっているのを目の当たりにしたパウロは、原点に立ち返らせたかったのだと思う。信仰とは何かを思い起こさせたかったのだと思う。

 

試練に遭わないように、重荷を背負わないように、そこから逃げるために思い煩うことなど誰だって出来る。皆さんも苦しむのは嫌だ、と思っておられるだろうし、その為にはどうしたら良いかをあれやこれやと思い煩って来られたであろう。ヨブ記に出て来るヨブの友人たちも重荷を背負わない為に律法を守り、神の前でいい子にしていよう、と思っていた。苦難を受けたくないならば律法を守れば良い。そうすれば神は祝福して下さる。そういう見返りが得られると分かっているのだから喜んで律法を守り神に従っている素振りを見せれば良いのだ。それが彼らの考えであった。しかしながら申し上げたい。逃れることばかり、安全な道を歩くことばかりを求めていて、それで果たして本当に神に切なる祈りをささげる思いへと導かれるだろうか。ヨブは、突然、思わぬ試練と苦難に襲われて、財産も子供も全てを失い、自分の命までもが危機に曝されることになった。しかしそれはお前が神に背いたからだと友人達は主張した。しかしそれは、「不正を語り、欺いて語る」ことではなかっただろうか。友人たちは自分の安定を守ることしか考えなくなっていた。世の不条理に苦しむ弱者やヨブの為に祈ることなどしなくなっていた。「あなたたちは神にへつらっているだけだ。」ヨブには彼らがそのようにしか見えなかったのである。

 

ヨブの信仰は全く違っていた。苦しみの極みへと追い詰められてヨブは、神に祈り続ける。主よ、なぜ私を苦しめられるのですか、とその答えを必死に求め続ける。彼は苦難は避けられないことを知っていた。人間のあざとい知恵で律法を調べ尽くしたところで試練を乗り越えられないことを知っていた。神が御手を伸ばして下さらない限り、本当の解決にはならないことを知っていた。だからこそ彼は友人の声を撥ね退けて神に訴え続ける。苦しみを正面から受け止めつつ、神を信じて神のみに只管訴える。このヨブの姿こそ、「自分を捨て、自分の十字架を背負う」者の姿であるとは言えないだろうか。最後の最後にヨブを苦しみの極みから助け出してくださる神の御手を只管信じて祈り続けた彼の姿こそ、試練と共に、そこから逃れる道をも備えて下さる神の御業の真の証し人であると。そのように思うのである。

 

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰らず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」。有名なⅡコリント4章にあるパウロの言葉であるが、打ち倒されても滅ぼされないのは、土の器の中に信仰という宝を納めているからだ、とパウロは言った。「生きているのはもはやわたしではない。キリストがわたしの内に生きておられるのだ」とまでパウロは言い切った。死からよみがえられた復活の主が栄光に包まれて共にいて下さる限り、主がこの私を生かし、支えて下さる、という確信、もしこの私に命の終りの日が来るならば、主がその御心によってこの世の束縛から解放する為に召してくださることなのだ、というその確信こそが、パウロをしてこの言葉を言わせたに違いないのだと思う。自分を捨て、自分の十字架を背負って主イエスに従う人生を、パウロに全うさせたのだと思う。

 

 

振り返ってみて、私達の信仰はどうであろうか。試練から免れたいから信じている。楽をしていたいから信じている。皆さんには、そんなつまらない信仰で満足してもらいたくない。苦しみのどん底におかれても、そのような時こそ必ずや共にいてくださり、苦しみを共に背負って支えて下さる復活の主がおられることを信じていただきたい。自分を捨て、自分の十字架を背負ってこそ、本当の意味で私達をうずくまらせずに立ち上がらせてくださる主の慈しみの御手があることを信じていただきたいのである。コロナによって世界が一変した今の受難の日々においても、その苦しみを十字架の主に押し付けて安心してなどいられない。むしろ今こそ主の御苦しみを我が苦しみとして思い、我らも自分を捨て、自分の十字架を背負って主に従う者へと変えられたい。そうして、避けられない苦しみや試練の只中にあっても、必ずやそこから主が逃れる道を備えて下さることを信じて待ち望む土の器へと整えられるよう、ご一緒に歩んで参りたいと切に願う。