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み国を来たらせたまえ

「み国を来たらせたまえ」(マルコ11415

2021117日(左近深恵子)

 

 礼拝後の報告でこのところご様子をお知らせし、共に祈りに覚えてきましたGさんが、先週の月曜日に地上の生涯を終えられました。今週葬儀が行われます。感染を予防するために、葬りの礼拝をこの会堂で皆さんと共にささげることがかなわない現実が、悲しみを深めます。共に集う葬儀が困難な状況であるからこそ、ご家族の上に主の慰めを祈る祈りに、一層心を合わせたいと思います。

 

Gさんの逝去をお知らせする中で、何人もの方がGさんの思い出を分かち合ってくださいました。病を抱えながらも礼拝を大切にされ、乗り換えが多い道のりを教会に通われ、会堂の後方で静かに礼拝を守られていた姿、パンやケーキを焼くことが上手でその賜物を礼拝や集会のために用いてくださっていた姿、いつも笑顔で優しく接しておられた姿、人柄が滲み出る温かい言葉やユーモアのある一面など、それぞれの方の思い出に触れることができました。60年近い美竹教会での信仰生活において積み重ねてこられた交わりとお働きを、私も改めて知ることができました。時間の経過と共に悲しみや寂しさが募ってきますが、姉妹の信仰の歩みを思い起こすことができる恵みも思います。

 

 大切な人を失う悲しみの中で、主から与えられた信仰が私たちを支えています。Gさんやその他、先に旅立った信仰の先達と、信仰を共にし、祈り合ってきたことが慰めです。神さまが私たちに与えてくださった信仰は、死の現実の中にあっても私たちを支えています。

 

 私たちの土台である信仰の内容を、福音と聖書は言い表しています。パウロの文書などで福音という言葉が用いられる時には、イエス・キリストの死と復活によって成し遂げられた救いを指すことが多いでしょう。しかしまた、福音を成し遂げられた当のキリストも、福音と言う言葉を用いておられます。その場合の福音は、預言者たちを通して約束されてきた神さまの救いを指しています。世に対して神さまが勝利されるという約束です。神さまが世のあらゆるものに対して勝利をされるということは、新しい歴史が始まるということです。天の支配が地においても決定的なものとなる新しい歴史の到来を、神さまは約束してくださったのでした。

 

主イエスはお働きの始まりにおいて、この神さまの福音を宣べ伝えました。「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、神さまが約束された新しい歴史が、今世に起こり始めたのだと、言われました。福音と訳されている言葉は、「良き音ずれ」を意味する言葉です。「良き音ずれ」、喜ばしい報せです。旧約聖書の時代以来人々が待ち望んできた喜びが今もたらされたと、主は人々に語られたのです。

 

主イエスは「時は満ち」と言われました。約束が実現されるための機が熟したと告げられたのです。ではそれはどのような時であったのでしょうか。

 

神さまが遣わされた預言者たちは、世に対する神さまのご支配を人々に語り、神さまでは無い様々なもの力に依り頼もうとする人々に、神さまの元に立ち帰るようにと告げてきました。預言者たちの時に文字通り命懸けの働きによって、新しい時の到来に向けた備えが、一歩一歩進められてきました。最後に登場した洗礼者ヨハネは、イザヤが告げた「荒れ野で叫ぶ者の声」のように荒れ野に現れ、人々に備えることを説きました。自分の後に来られる方がどのような方であるのか人々に語り、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を授けることで、主の道を整えさせました。主に至る道を探し求めながら、世の様々な勢力に視界を遮られて見いだせずにいた人々に、主の道を指し示しました。その道の前に彼ら自身を置くようにと、そして真っすぐに主の道を見つめるようにと、導きました。しかし、力強く自分たちを導いてくれる頼もしいこの指導者が、時の権力者である領主ヘロデの保身のために、逮捕されてしまいました。ヨハネが自分たちから奪われた時、まさに荒れ野に吹く風のように、神さまに背く力が猛威を振るう世の只中で、人々は途方に暮れたのではないでしょうか。神さまの言葉を語り、正しいことを求め、神さまのみ前でも人々の前でも正しい生き方を貫いていたヨハネが、世の王が不当な仕方で行使した力によって逮捕され、その後殺されてしまうのが、自分たちの置かれている現実です。神さまがお遣わしになった預言者の言葉も働きも、預言者たちをお遣わしになった神さまご自身も、世の王たちの力の前では無力であるかのようです。神さまが「その時」だとされたのは、「時が満ちた」とされたのは、そのような「ヨハネが捕らえられた」後でした。人の目には厳しさが増しているその時、主イエスはガリラヤへ行き、福音を宣べ伝え始められました。ヘロデの保身と不正と敵意が勝利しているかに見えようとも、主イエスはその状況下で暮らす人々の中へと入ってゆかれたのです。

 

 主イエスの最初の説教は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というものだったと、マルコによる福音書は伝えています。第一声であり、そして主イエスの生涯を貫くメッセージであります。主イエスが語られたことだけでなく、人々を病や悪霊から解き放ち、驚くようなみ業を行いながら十字架に至る日々を歩み通された、そのご生涯をかけて、その血と肉をもって成し遂げてくださった福音を、主イエスはそのお働きの始まりから宣言されています。

 

 主イエスのこの説教には、神の国がいよいよ近づいているという響きがあります。神さまが約束してこられた出来事が地に姿を現したのだと、見ることができる、手に触れることができるところまで迫ってきているのだと感じさせるこのような言い方ができるのは、それが主イエスによってもたらされていることだからです。主イエスが既に到来していること、主イエスが世に対してそのお働きを始めておられることによって、神の国が到来しているからです。町や村を巡って主イエスが宣べ伝えられることで、更に福音が人々のもとへと近づいていくからです。ヨハネも含め預言者たちは、神の国の到来を示しました。しかしキリストは示すだけでなく、ご自身においてもたらされました。だから人々に「さあ、いよいよその時が来た」と、「神の国はここに始まっている」と、語ってくださったのです。

 

 神の国という表現は、神さまの王としてのご支配を意味するもので、旧約聖書以来の伝統を背景に壮大な救いを指しています。それまでの人間の在り方が神さまによって裁かれ、滅ぶべきものが滅ぼされ、生かされるべきものが生かされる終わりの時を指しています。神さまに背く在り方が世を支配するのではなく、神さまが支配される、それが神の国の姿です。全体像を思い描けないほど壮大なこの救いが、主イエスというお一人の存在と御業によって到来しました。人の目には良い時だとは思えない時に、ここで神さまのご意志に生きることを教え、そのように行動することを求めることが困難であると、人々が思い知らされたところで、主イエスは一人、「神の国は近づいた」と宣べ伝え始められました。そして神さまの国は、時代も地域も超えて今、私たちの所にまで届いています。主イエスは神の国をからし種に譬えて人々に語られたことがあります。目に見えないほど小さなからし種が、成長して大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張るようだと、神の国はそのからし種のようだと教えられました(マルコ43032)。その譬えのように、主イエスによってもたらされた神の国は、今や私たち皆がその中で安らぎ、憩い、自分の住まいとすることのできる大きなものとなっています。そして神の国は、今も成長し続けているのです。

 

神さまの王としてのご支配が、「国」や「王国」という言葉で表現されることによって、私たちは神さまのご支配を国としてイメージすることができます。日本や他国の間に国の境があるように、国という言葉はその国であるところとその国では無い所に境があることをイメージさせます。神さまの国はキリストによっても私たちの近くにもたらされています。どこか遠くの遥か彼方にではなく、見ることができる、手に触れることができるほど近くにもたらされ、そこで私たちが神さまのご支配に対して応えることを求めています。ご支配が近くにもたらされていることを知っていても、知るだけであったら、そこに入ることがなかったら、神さまのご支配の外に居ます。神さまのご支配を受け入れるよりも、境を超えずに自分が自分の王でいることに安住しようとしたがる私たちを、神さまは招いておられます。私たちが神の国の民となること、自分の王国の王でいるところから踏み出し、神さまのご支配に自分を委ねることを決断するようにと、求めておられます。

 

主イエスは神さまのご支配を人々の近くへともたらすために、荒れ野を出てガリラヤの土地へと入って行ってくださり、「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と、語り掛けてくださいました。その主イエスが人々に、「み国を来たらせたまえ」と祈ることを教えられました。「神の国は近づいた」と語られた上で、この祈りを教えてくださっています。「み国を来たらせたまえ」とは、神さまのご支配が隅々にまで及びますように、という祈りです。み国がまだ来ていないから祈るのではありません。み国の中に自分で自分を据えているかどうか振り返り、神さまの元へと立ち返り、神さまのご支配が自分の思いと行動の隅々にまで、他者との関わりの隅々にまで、及びますようにと祈る日々を、主の祈りを通して与えてくださいました。

 

 それぞれが既に抱えていた問題にコロナの影響が重なり、私たちは厳しい状況に長く置かれています。神さまに従う道を遮るかのような不安な状況によって、内なる視野が狭くなりがちな日々が続いています。けれど神さまの国の到来という福音を宣べ伝えてくださった主イエスの宣教は、時代を超え、地域を超えて、私たちへと語り続けています。主イエスが荒れ野を後にして、ヘロデが支配するガリラヤへと足を踏み入れられたように、世の力と人の思いが交錯する人々の暮らしの中へと分け入って行かれたように、福音の響きは、歴史の中で、私たちがもがいている世界の中で、キリストは教会を通して語り続けられ、聞かれる言葉となり続けています。

 

 

 福音は今も教会を通して説教として語られ、また聖餐として五感を通して分かち合われています。Gさんはかつて聖餐のパンを毎回焼いてくださっていました。神の国で主が私たちを招いてくださる祝宴を先だって示す主の食卓のために、賜物を捧げてくださっていました。病院や施設にお訪ねしたときに、聖餐の準備に携わっておられたことを話題にしますと、「もうできませんけれど」と言いながらも、いつも温かな笑顔で応えてくださいました。神の国は既に来ているものでありながら、その来るべき完成を待ち望むものであります。苦しみも痛みも取り除かれ、神さまの栄光の中で、生涯において信じてきたことを見ることができるところで、主イエスが招いてくださる祝宴の席に着くことは、確かに未来のことであります。けれど主イエスをキリストと信じ、神の民とされた者は、神の国を待ち望むだけでなく、「み国を来たらせたまえ」と、今この時も、願うことのできる幸いを知っています。既に訪れており、やがて全ての願いがみ心に適う仕方で実を結ぶ喜びを、主の祈りの度に受け止めていきたいと願います。