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錦の産着ではなく、亜麻布につつまれて

 今年2020年を揺さぶりつづけた新型コロナウィルスの蔓延が更に厳しさを増すさなかで、クリスマスを迎えました。神がその独り子を、私たちが見ている、そして生きている、この世界に送りくださったことの重みと深みと喜びを噛みしめながら、今日の礼拝をささげてまいります。

 クリスマスの讃美歌にパウル・ゲルハルトが作詞をし、J.S.バッハが曲を付けた「まぶねのかたえに」(讃美歌107番、讃美歌21256番)があります。心に浸み入るメロディとともに、歌詞に描き出されるクリスマスの描写が情感に訴えかけてきて、心震わせられる讃美歌です。今日のメッセージのタイトルにも引きましたが、3節に

「きらめくあかぼし、うまやに照り  わびしきほしぐさ まぶねに散る

こがねのゆりかご、錦の産着ぞ きみにふさわしきを」と歌われる讃美歌です。

 夜空に点る星の光が注がれるうまや、急ごしらえの整わない、わびしさに胸しめつけられるような寝床にほし草が散らされている。上から下へ、光もほし草も舞い落ち、抜け落ちるかのような下降の極みに、幼子イエスの姿が浮かび上がる。本当なら、世の片隅の寒空の下になどではなくて、これ以上ないほどに天の光を映し出すような黄金のゆりかごに、そして、ありあわせの布などではなくて、この上ないほどに高級な産着に包まれることがふさわしいのに、イエスキリストは、うらぶれた世の片隅の、漆黒の闇に押しつぶされそうな、傷つき失われたものたちの傍らに、わびしさ漂うまぶねの中に、その身を横たえられた、と。

 この歌詞を作ったパウル・ゲルハルトは、幼き日に両親を相次いで亡くします。青年期には、30年戦争や疫病、戦乱に翻弄されます。結婚して生まれた子どもたちも次々と病魔に奪われる生涯の中で、牧師として、聖書を説き、また讃美歌の歌詞を紡ぎ出し、ドイツで最も愛される讃美歌詩人のひとりに数えられています。あの、受難節に歌われることの多い「血潮滴る」(讃美歌136番、讃美歌21310,311)もゲルハルトの詞です。

 クリスマスの讃美歌と受難節の讃美歌をつなぐメロディ、響きあう調べは重なり合うのです。人の世の哀しみと罪と争い、そして破れと死に向けて下ってこられた方を、クリスマスに仰ぎ見る歌をゲルハルトの讃美歌は歌い上げます。救い主は高きより低きに下られて、苦しみを受けて、そのみ頭に血潮滴らせ、十字架に死んで、そして陰府にまで下って、私たちの命の礎となられたのだ、と。

 私の尊敬する先生が訳された使徒信条に関する書物をいただきましたが、その中にこんな一節がありました。

「この上方から下方への神の降下、すなわち聖霊(上から)と乙女マリア(下に向かって)。これこそクリスマスの秘儀であり、受肉の秘儀なのであります。カトリック教会では、使徒信条のこの箇所で十字を切ります。そして作曲家たちは、まことに多種多様な作曲で、この「そして肉となった」を再現しようと試みてきました。クリスマスを祝うとき、わたしたちは、年ごとに、この奇跡を祝っているのです」(カール・バルト『教義学要綱』(天野有・宮田光雄訳、新教出版、2020210㌻)。

クリスマスを今年も祝うのは、私たちが主と仰ぎ礼拝するイエスキリストが、王宮にしつらえられるような黄金のゆりかごに飽き足らずに、干し草こぼれ落ちるわびしいまぶねに、煌びやかな錦の産着に包まれることよりも、ありあわせの布くるまれて、この破れ多く、欠け多い土の器に、盛られる神の宝となってくださったからなのです。

 クリスマスは、主の十字架と死、そして亜麻布に包まれて墓に葬られたキリストへと向かうのです。聖書は何度も繰り返し読まれるものです。ですからルカによる福音書を何度も読んでいるうちに、クリスマスのシーンは主の十字架と復活のシーンを知って読まれることになる。十字架から降ろされたご遺体が亜麻布に包まれ、墓に納められたこと。三日目の朝、墓は空っぽで、その亜麻布だけが残されていたこと。それが私たちの救いのためであったことを知って聖書を読み返すのです。私たちの誰にも言えない内なる闇を、的外れな在りようを、本当ならば当然裁かれるべきは私たち、滅びゆく身に代わって、イエスキリストがその身にすべてを引き受けられる。そのためにクリスマスがあったことを聖書は告げます。

 布に包んで飼い葉おけに寝かせられたイエスキリスト。布の材質は記されていませんが、多くの画家が、その信仰によって亜麻布にくるまれた幼子イエスを描いています。錦の産着ではなく、亜麻布に包まれた主イエスの誕生が、十字架と復活をも包み込んでいることを、今年のクリスマスは特に覚えたいのです。

今日、洗礼を受けて、美竹教会の群れに加えられるYさんは、まさにこの信仰を与えられた方です。このパンデミックの年に、神様は新しい命に生きるものを私たちの間に起こしてくださいました。4年前に青山学院大学のキリスト教概論の授業でキリストを知り、経営に関する学びのほかに、現代哲学者や思想家のたくさんの書物を読み漁り、大学生らしい大学生として、文字通り貪り学びながら、先生や仲間、神学生たちとの出会いに恵まれてきました。この世でクリスチャンとして生きることの厳しさに葛藤しながらも良き信仰者のモデルとなる仲間や先輩の姿に惹かれる思い抑えがたく、そうなりたいと願いながら久しく逡巡されました。聖書を自分で家で読んで、キリスト教的な生き方を求めることも一つの結論となりかけたときもありました。けれども、まさに低きに下って亜麻布を纏うキリストに促されるようにして、押し出されるようにして、公に信仰を言い表してキリストの体なる教会に連なる信仰者としての新しい歩みを踏み出すことへと導かれ今日の日を迎えられました。その一歩がどれほど格闘を経たものかは本人も周りにいた者たちも痛いほどわかります。昨日も私の研究室を訪ねてくれたY君の同学年のご友人が、涙を流して喜んでいました。先日行われた長老会でも、代表して祈られた長老は、喜びの余り声を詰まらせて祈られました。私たちの原点にある信仰に触れて皆が立ち返らされたのです。クリスマス、十字架、そしてイースターの主の前に、Yさんに与えられた信仰を通して立たせられたのです。

昨年来断続的に続けてきた受洗に備えての学びが一通り終わるころに、Yさんが、ご自分が与えられた信仰について文章にしてくださいました。凝縮された言葉の背後にたくさんの格闘があったことを知っています。ご自分のこれまでの経験なども踏まえていろいろ書き連ねようとしたけれど、最後は、教会の信仰に行きつきましたとおっしゃって、必要なことに絞り、そぎ落とされた信仰の核心を言い表されたものでした。

「私はイエスキリストを信じます。なぜなら、罪深い私を、定められた死から救ってくださるのはイエスキリスト以外にないと信じるからです。イエスキリストはわたしの主であり、私の罪を、ご自身の十字架によってあがなってくださったのです。イエスキリストがこの世に再び来てくださることが私の希望であると告白します。わたしはこの希望を自らの力で掴み取ったのではありません。むしろ私はそのような救いにあずかる資格がないと思い、それを拒んできたのですが、イエスキリストが私をつかんで離さず御許に引き寄せてくださったのです。この罪深くみすぼらしい身にイエスキリストと共に来るべき世に連なる新しい命に生きる恵みを与えてくださる神に心から感謝いたします」と。

 

今日、クリスマスの礼拝で、聖霊が働いてイエスこそ救い主と告白して洗礼を受けられる一人の若き魂に与えられた信仰に、私たちも立ち返りたいと思います。亜麻布に包まれ、そしてそれを墓に残して復活されたキリストを仰ぎながら共に主を賛美いたしましょう。この罪深くみすぼらしい身に、イエスキリストによる新しい命に生きる恵みを与えて下さる神に代々限りなく栄光がありますように。

 

祈ります

2020年のクリスマス礼拝に、聖餐の食卓に、そして洗礼の喜びの席に私たちを招いてくださったクリスマスの主イエスキリストの父なる神様。あなたは恐れと不安と空しさの源である死を滅ぼすために、そして私たちにまだ見ぬ真の希望を仰ぎみることができるように、御子を低きにまで下らせてくださいました。

 

錦の産着ではなく、亜麻布に包まれて横たえられたキリストの前に、私たちは新しい命の確かさと希望を、見出すものとされています。この確かな確信に今一度立たせてください。この礼拝で、新しくこの群れに加えられる兄弟を、連なるすべての親しい者たちを、今このとき、各地の教会で祈りに覚えている仲間たちの祈りと共に、あなたの御もとにある大いなる喜びのうちに加えてくださいますように。

左近 豊