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わたしたちは主のもの

ローマ1479「わたしたちは主のもの」(永眠者記念礼拝)

2020118日(左近深恵子)

 毎年11月の第二週には、信仰の生涯を歩み通され、私たちに先立って主に召された美竹教会の会員の方々を覚えて礼拝を捧げています。この一年の内にも、97日にHさんが召されました。この日、毎年、私たちは哀しみ、寂しさを新たにします。そしてまた、この会堂で礼拝を共に捧げてきた信仰の家族を送った哀しみ、寂しさを、礼拝の場で共にし、共に主を仰ぐことのできる恵みを知る時でもあります。先に召された方々と私たちは、ただお一人の主によって結ばれている、この結びつきは死によって消え去るものではないことを、知る時でもあります。

 

 ローマの信徒への手紙にこう記されていました、「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、わたしたちは主のものです」。普段の生活ではキリストのものであることが喜びであり力であるけれど、いざ死の時が来ると何の役にも立たないというものではありません。死がキリストと私たちのつながりを断ち切ってしまうのではありません。あるいは、死んだ時だけ主のものなのでもありません。死ぬ間際になってキリストとの結びつきが初めて力をはっきりするけれど、それまでの日々では何も役に立たないというものでもありません。生きている時も、自分が死に近づいていると感じる時も、一生涯を貫いてキリストのものであります。それは自分においてだけでなく、他の人においても同じです。愛する人が死へと向かっている時も、遂に死がその人の生涯に幕を下ろした時も、変わらずにキリスト者は主のものであり続けます。生きている時も、死の力にたじろいでいる時も、キリストのものでない時はない、キリストとのつながりは人の生と死を包み込み、貫くものだから、どのような時も私たちはキリストに支えられ、キリストに頼り、キリストに力をいただくことができます。キリストのものであるということが生きている間中私たちの勇気となり、死の淵にある時に確信となるのです。

 

 このローマの信徒への手紙14章の箇所は、Hさんの愛唱聖句の一つでした。Hさんは80歳の時に、ご夫妻揃って洗礼を受けられました。受洗後1年程経った頃に、70周年記念誌のために書かれた文章の中でこの箇所を挙げておられました。同じ70年史に夫のMさんは、人の罪を厳しく見つめる個所、そしてキリストによる赦しを告げる箇所を、愛唱聖句として挙げておられます。その隣のページでHさんは、主の祈りの中の罪の赦しを求める箇所と、このロマ書を挙げておられます。罪赦された御業への畏れと感謝を抱きながら、ご夫妻で共に歩んでこられた一年であったのでしょう。Hさんは、受洗に至るまでの長い道のりも思い起こしながら、その先を、死の時まで見つめつつ、「わたしたちは生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬ。生きるにしても死ぬにしても、わたしたちは主のもの」なのだと、信仰の確信を新たに与えられていたのでしょう。

 

 今日の個所に、「キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」とあります。「主となられる」と訳された言葉は、「主が支配される」という意味の言葉です。十字架において死なれ、死者の中へと降られ、死を克服し、命の主として復活されたのは、生においても死においても、私たちの主であり続けるためであった、気づけば自分を罪に支配させてしまっている私たちを、いつの時も捕えていてくださるためでありました。先ほどのHさんの文章の中で、このようにも書かれています、「おそまき乍ら、やっと神さまにとらえて頂き、御手におすがりしながらの日々でございます」。「ただただ神さまに全てをゆだねて思い煩わずに暮らしたいと思っております」。主の御手におすがりしながら、主のものとして生き始められた歩みの足元を照らしていたみ言葉の一つに、この永眠者記念礼拝で私たちも今一度耳を傾けたいと願い、この箇所を選びました。

 

 Hさんは、美竹教会が発行している『信音』の編集委員として、二年間尽力してくださいました。その『信音』に一昨年書かれた文章では、テサロニケの信徒への手紙の以下の個所も愛唱聖句として挙げておられました。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ51618)。この言葉と、Hさんのお姿が重なるように思われる方は多いのではないでしょうか。その頃、毎週礼拝に出席することは難しくなっておられましたが、出席されるときは早めに来られて、いつもの席に座られて、その日の聖書箇所を開き、讃美歌を開き、祈りをもって礼拝に備えておられました。昨年の7月に出席されてからは、教会に来ることはかないませんでした。ご自宅をお訪ねした際、週報や信音、説教原稿などの入った封筒をお渡しすると、直ぐに読みますといつも大切に受け取ってくださいました。み言葉に聴くことを本当に大切にしておられたHさんが大切に思っておられたテサロニケの言葉を、皆さんと聞いていきたいという願いもあり、聖書に親しむ集いでは秋からテサロニケの信徒への手紙を順に聞いています。神さまの不思議な導きによって共に神の家族とされ、一つ所で礼拝を捧げてきた方を送る寂しさに、慣れることはありません。お一人、お一人を送る度、座っておられた席に、今はその方がおられないことに寂しく思い、折に触れ、不在であるという現実に悲しみがこみ上げます。だからこそ、大切な信仰の家族が、信仰の旅路を照らされることを特に願ったみ言葉に、私たちも耳を傾けたいと、その信仰の歩みを思い起こしたいと、願うのです。

 

日常が穏やかに過ぎていく時も、死の力をこれまで以上に現実のこととして感じずにはいられない時も、私たちはキリストのものであり続けます。生涯の日々も、死に向かう時も、死そのものの只中にある時も、キリストのものでない時はない、この驚くべき事実は、神さまのみ心によってもたらされています。主イエスは神さまのご支配を様々な譬えで語られましたが、その中に、1匹の羊を捜す人の譬えがあります(マタイ181014)。100匹の羊を持つ人がおり、その中の1匹がいなくなってしまいます。この人は、まだ残りの99匹はいるから、いなくなった1匹のことは残念だけどあきらめよう、とは言いません。迷い出た1匹のために、残りの99匹を残して捜しに行きます。そしてその1匹を見つけ出すと大喜びします。99匹が迷わずにいたこと以上に、1匹が取り戻せたことを喜びます。この喜びを語り、そして主イエスは、「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父のみ心ではない」と譬えを結ばれました。

 

私たちは神さまから命を与えられ、人生の時間を与えられています。私たちに必要なものを備え、養ってくださっています。ご自分の群れの中から一人でも迷い出て、滅びることを、仕方ないとはされません。罪の中で道を見失い、死の闇に追い詰められ、弱り、動けなくなっている私たちそれぞれを、かけがえの無い存在として捜し出し、帰るべき神さまの家へと連れ帰ることを強く願われます。そのために、独り子を与えてくださいました。主イエス・キリストの十字架と死と復活とによって、罪の支配から、罪の中で死んでいく死の闇から解き放ち、私たちを生きている時も死んでいる時も、完全な恵みで包んでくださるのです。

 

 パウロはローマの信徒への手紙の第8章でこう述べています、「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高いところにいるものも、低いところにいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(837以下)。死は、キリストによって示された神さまの愛から私たちを引き離すことも、今生きている私たちと、先に召された方たちとのキリストにあるつながりを断ち切ることもできません。キリストの命という代価を払って罪の支配から買い取られ、主のものとされたキリスト者同士を、死も命も、引き離すことはできません。キリストにつながるつながりの強さは、私たちのキリストを掴む力の強さにあるのではなく、私たちのために命まで捧げ、死者の中にまで下られたキリストのみ業の揺ぎ無さにあります。だから生きるにしても、死ぬにしても、私たちはキリストのものとして生き、キリストのものとして死に向かってゆくのです。

 

 全てのものを支配しておられる神さまから離れ、迷い出ている時、私たちの目に見えてくるのは、自分に関わることばかりです。この日常を守っていきたい願うことができている時も、日常から逃げたくなる時も、その理由は自分のためであり、自分に関わる、自分にとって大切なものたちのためです。自分を守るためには他者を攻撃してしまうことさえあります。私たちの存在をかけがえのないものと喜んでくださる神さまのもとに、自力で帰れなくなってしまう者であります。この私たちの中にキリストが来てくださり、私たちを一人一人捜し出してくださり、神さまのもとへと連れ帰ってくださいました。自分で自分を支配しようとする、自分のために他者も自分の支配下に置こうとする私たちを、そこから救い出し、キリストのもの、主のものとして生きる、キリストが主である事実の中へと、導き入れてくださいました。

 

 

私たちは洗礼によって、キリストと共に葬られ、罪や死の支配から解き放たれ、キリストと共に復活させられる、新しい生き方を与えらます。主イエスによって私たちの人生に表された神さまの招きにお応えすることを望む歩みは、自分が自分の主であろうとする孤独の日々ではなく、神さまの祝福の中を生き、死においても主のものであり続けます。主にものである他の神の家族たちと、時も場所も超えて共に歩む道です。自分に見えてくるものだけで見れば多くの違いを抱える私たちですが、同じ主のものとして、同じ主の御支配の下、同じ主のために生きていく中で、それぞれの視野の狭さ、それぞれの限界を超えて、主の羊として一つであることを願い求めることができます。私たちが主のものである事実は、礼拝の度に与えられるみ言葉によって示されます。私たちは互いに主のものとされているから、与えられている日々を、諦めや虚しさに呑み込まれるのではなく、自己中心的な貪欲さに費やすのでもなく、私たちを取り戻すために命を捧げてくださった主のために、主の平和の内に、主なる神に仕え、隣人を愛し、主なる神を愛し、隣人に仕えたいと願います。