· 

待ち続ける信仰

マタイ25113「待ち続ける信仰」(使徒信条)

2020111日(左近深恵子)

 

先をすべて見通すことが、私たちにはできません。社会が解決できずにいる様々な課題や、新型コロナウイルスの感染拡大といった大きな問題や、自分の暮らしや健康といった目の前の課題も、私たちの視界を霞ませます。見通すことができない先のことだから、視線を先へと向けるための力が要ります。願う道が開かれなかった体験、思うようにならなかった体験は、しばしば視線を先へと向ける力を私たちから奪います。願いを抱かないことが、自分を守る賢さだという思いさえ抱くようになります。それが最も確実にがっかりせずに過ごせる方法だからと、今だけを見て、日々を過ごしていこうと。

 

新型コロナウイルスによって、先のことを計画することが非常に難しい状況を何か月も過ごしてきました。計画をしつつも実現できなかった時に備える姿勢が、私たちの日常になりました。先のことばかりではなく、今日のことも大切にするという、それまで求めつつもなかなか実現できなかった暮らし方が、以前よりも身に付いてきたところがあるかもしれません。生活が大きく変わり、当たり前と思っていた人との結びつきにどれだけ力づけられてきたのか、ささやかに感じていた日常の営みがどれだけ貴いものであったのか、知ることもできました。そして、結びつきの大きさ、存在のかけがえのなさ、貴さに、失ってから初めて気づかされる悲しみを、この間、味わった方も少なくないのではないでしょうか。このような日々にあって、先のことを願う力が弱ってゆく私たちですが、願いを持たずに見る今とは、どのような時なのでしょうか。私たちはそうすることで本当に自分を守ることができるのでしょうか。そうすることで本当に安らぎを、手に入れることができるのでしょうか。私たちが先を見る力は本当はどこから来るのでしょうか。私たちの願いは、どこから来るのでしょうか。

 

このところ礼拝で使徒信条の言葉を一つ一つ取り上げています。ここ数週間はキリストのご受難と死、復活と昇天について述べる使徒信条の言葉を、特にルカによる福音書を中心に聞いてきました。今日はマタイによる福音書から聞きました。この福音書では、第26章から主イエスのご受難が述べられます。26章の初めで主イエスご自身が弟子たちに、ご自分が十字架につけられるために引き渡されると告げられたこと、その頃ユダヤの民の指導者たちが集まって、計略を用いて主イエスを捕らえ、殺す相談をしていたことが述べられます。これから死に向かって進んで行かれる、その26章の前、2425章で、主イエスは終わりの日について語っておられます。

 

私たちが主イエスのご生涯を思う時に、十字架、復活、昇天までは、聖書を通してその出来事を受け止めることができます。特に十字架と復活は、目に浮かぶような聖書の語りや、その衝撃的な出来事に、かなりのパンチを受けます。けれど主イエスが天に挙げられ、その姿を見ることができなくなってからは、生ける主のお働きをそれまでのように、具体的な出来事として思い描くことは難しくなりました。終わりの日のことも、私たちの理解を大きく超えています。ただ聖書によって、主イエスの救いのみ業は、十字架と復活で終わりではないことは、示されています。主イエスご自身が、十字架の死を前にして、これまでなさってきたお働きが、どこへとつながっていくのか、語られました。人々の罪を贖うために、ご自分の命を捧げてくださること、復活され、天にお帰りになること、再び来られる終わりの時に、み業が完成されることを語られました。主は、幾つもの譬えを用いてこられのことを語られました。その中の一つが、先ほど共にお聞きした「10人のおとめ」の譬えであるのです。

 

主イエスは「そこで、天の国は次のように譬えられる」と語り始めます。これまでも世の終わりについて語ってこられました。再び来られる世の終わりで、神さまのご支配が顕わになり、そのことによって神の国が、天の国が完成されると。その天の国を語るために、結婚式を譬えに用いられました。

 

当時のユダヤの民の婚礼は、通常、夜開かれました。村を挙げてお祝いする、大きな儀式でした。花婿は花嫁の両親の家に花嫁を迎えに行きます。この花婿を家の外で出迎えるのが、花嫁の友人たちの役割だったようです。手持ちのランプのようなともし火を灯して、出迎えました。そして花嫁の家から婚宴の会場へと赴く花嫁、花婿のために、夜道を灯で照らしたそうです。

 

友人たちが手にしていた灯は、その中の油が燃やされてしまえば消えてしまいます。灯だけで長い時間照らすことはできないので、油を補充します。灯には、油が必需品です。主イエスはこの油を用意していなかった愚かなおとめたちと、油を用意していた賢いおとめたちを、譬えに登場させました。

 

この10人のおとめの話を題材に、様々な絵画や彫刻が生み出されてきました。教会の壁や入り口を飾ったものも多くありました。その中には愚かなおとめたちを、不道徳な生活をしていたものとして表現するものもあります。けれど譬えは普段の生活態度の違いについて、何も語っていません。10人いれば、関心の対象はそれぞれであり、その中には他者から価値があまり無いとみなされるもの、好ましくないと判断されるものもあるでしょう。しかし譬えは、10人の普段の生活の違いを問題にして、その違いに優劣をつけ、劣っている者たちを愚かだとしているのではありません。油を用意していたか、用意していなかったかに焦点を当てているのです。

 

油を用意していた者たちと、用意していなかった者たちの違いを考える時に、この譬えの最後で主イエスが言われた、「だから、目を覚ましていなさい」という言葉に耳を傾けないわけにはいきません。この言葉を、「寝ていないで起きていなさい」と命じているのだと取ってしまうと、譬えと噛み合わなくなってしまいます。愚かな者たちだけでなく、賢い者たちも寝ているからです。花婿の到着が自分たちが思っていたよりも遅くなり、眠り込んでしまったおとめたちの行動を、主イエスは譬えにおいて咎めてはおられません。主イエスは、寝てしまわずに起き続けていることを求めておられるのではありません。

 

「あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」と言われます。例えば旅に出ていた家族が家に帰ってくる時や、客人の訪問の時が近づくと、私たちは食事など用意をして備えます。長期に不在にしていた家族が帰ってくるのなら、布団を干したり、部屋を掃除したりもするでしょう。到着の時間から逆算して、どの備えをいつ始めるか、計画を立てるでしょう。けれど終わりの日がいつ到来するのか、いつ頃それが起きるのか、私たちは誰も知りません。主イエスをお迎えするための備えを逆算して始めることも、その日が近づいてから慌てて準備することも、誰もできないのです。

 

先を見通すことができない私たちです。だから不安になります。だから先のことは考えず、今だけを見ていようとします。天におられるイエス・キリストがいつ再び来られるのか、分かりません。いつ帰ってこられるのか分からない主イエスのために、今の自分の生活の中に主イエスの部屋を設けておく余裕は無いと考える私たちの心の内を、主イエスはご存知です。自分の日常の扉を、見えない終わりの日のために開いていることを恐れる私たちの恐れもご存知であり、先延ばしにして、今は閉ざしていたい思いもよくご存じです。そのような私たちの内なる姿を、花婿が到着するまで備えを始めようとしなかった愚かなおとめたちによって明らかにされます。10人のおとめの内、愚かな者と賢いものは半々です。この割合に賢さと愚かの間を揺れ動く私たちの実態をも示しておられるようです。自分の本当の賢さと愚かさは、自分の判断や人々の評価ではなく、神さまのみ前で知ることができるのです。

 

この譬えに私たちはひっかかりを覚えるところがあるのではないでしょうか。油を分けてあげない賢いおとめたちの態度が冷たいように感じるかもしれません。けれどこれが譬え話であることを思い出すと、主イエスが示そうとしておられるのは賢いおとめたちの冷たさでも優しさでもなく、備えがあったかどうかであることに気づかされます。

 

慌てて油を手に入れてから、婚宴の場に遅れてやって来た愚かな乙女たちに対して、花婿が厳しすぎるようにも思うかもしれません。けれどこの譬えを語られているのは、私たちに救いを与えるために、十字架にまでお架かりくださったイエス・キリストです。神さまの赦しと祝福の中を歩む人生を私たちに与え、罪と死がこの先を終わらすことのできない命を取り戻してくださるために、ご自分の肉を裂き、血を流し、死者の中にまで降られたみ心とみ業を思えば、他人の油を借りて、その場しのぎで辻褄を合わせようとする愚かな者たちに、譬えの結びが厳しすぎると言えるでしょうか。10人は皆、婚礼の席に招かれていました。花婿は10人とも、婚礼の場に迎えたいと望んでいました。婚礼の席に至る道への門を閉ざしていたのは、愚かな者たちの方であったのです。

 

愚かな者たちも、灯を手にしていました。婚礼の席に招かれたことを受け留め、その祝いに行くつもりでいました。けれど油は用意していなかった。本当のところ、花婿の到来を待ってはいなかったからだと言えるでしょう。婚礼の席に着くことを心から待ち望みながら、過ごしていたのではなかったからと言えるでしょう。

 

賢い者たちも、思ったよりも到着が遅い花婿を待つうちに、疲れや眠気を覚えていたのは同じでした。待つのは楽なことでは無かった。だから賢い者たちも愚かな者たちも寝てしまいました。けれど賢い者たちの眠りは、愚かな者たちとは違う質の眠りであったでしょう。今は消耗して横たわるけれど、備えは既にできています。その時が直ぐだろうと遅くなろうと、同じです。いつ来ても油は手元に揃えている者たちの眠りの底には、安らぎがあったことでしょう。賢い5人は、油を購入するための手間や支払いを軽んじない思いを理解し合い、励まし合う関係にあったことでしょう。疲れや辛さの中で支え合い、お祝いの宴を待つ喜びを共有する友であったことでしょう。人の計算や世の評価とは必ずしも相容れない、神さまのみ前での賢さを見いだし、選び取る者に、その道を共にする友が与えられることも、この譬えには示されているように思います。

 

今この時の過ごし方を、普段の生活を、終わりの時に再び来られるイエス・キリストによって決することを、主イエスは望んでおられます。主イエスのこの求めにお応えして、主イエスを待ち望むことが、私たちの今を決することを、教えておられます。だから起きていなさいと言われます。キリストを待ち望む信仰に目覚めていることを、命じておられます。信仰の目覚めの中にある者は、疲れればぐっすり休むことができます。信仰に目覚めている者の普段の生活には、ささやかではあっても、小さな灯のような言葉と行いに、キリストが指し示されることでしょう。

 

使徒信条に、「かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」とあります。終わりの日に起こることは裁きです。私たちの罪が顕わにされ、全地の裁き主である神さまの裁きが下されるときです。裁き主がなさる裁きに対して私たちが抱く思いは、厳しさであります。その厳しい裁きのために、み子は命を捧げてくださいました。終わりの日には、このみ子の十字架によって私たちの罪が贖われてきたことも、全地に明らかになります。キリストにおいて成し遂げられた救いのみ業が完成される時、喜びの時であります。主イエスはこの喜びを、婚礼のお祝いによって譬えてくださいました。教会はこの喜びの時を待ち望む民であるのです。

 

 

これから聖餐の恵みに与ります。今日は久しぶりに、目や耳だけでなく、私たちに神さまが与えてくださった肉体丸ごとをもって、味わい知ることができます。神の国が完成し、私たちの救いが完成する終わりの時に、神さまのみ前で与る盛大な祝いの宴を指し示す主の食卓から、パンと杯に与ります。神さまの恵みのみ心を、私たちが心と体で味わい知り、その救いを待ち望んで生きていくために与えられる、命の糧です。人の思いや計画を超えたご自分との出会いの時を、一人一人に与えてくださる神さまによってここに集められた私たちは、共に祈り合い、世の終わりに完成する永遠の命を、今ここから新たに生き始めたいと願います。