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主が共におられる

2020.10.25. 美竹教会主日礼拝

ホセア6:4-6、マタイ15:21-28

「主が共におられる」浅原一泰

 

エフライムよ わたしはお前をどうしたらよいのか。ユダよ、お前をどうしたらよいのか。お前たちの愛は朝の霧、すぐに消えうせる露のようだ。それゆえ、わたしは彼らを、預言者たちによって切り倒し、わたしの口の言葉をもって滅ぼす。わたしの行う裁きは光のように現れる。わたしが喜ぶのは愛であっていけにえではなく、神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。

 

イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。

 

 

 

 

 

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は信実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。」(Ⅰコリント10:13)。

 

これはパウロの有名な言葉であり、私自身もそらんじているほど慣れ親しんだ言葉である。皆さんもよくご存じの言葉であろうが、ここ最近、なぜかこの言葉が私の心に新鮮に響いてくる。コロナの嵐が吹き荒れ続けている今この時、私事であるが7月に体調を崩してからの心もとない日々を送る中、何もかもが思うように進まない現実を突きつけられる日々を送る中で、何故かこの言葉が今までにはない光り輝きをもって自分の心に鳴り響いてくる。そのように感じるわけである。

 

それはさておき、今朝与えられたのはそれとは違うマタイの言葉であった。そこには、神を知らず信仰を持たない異邦人であるカナンの女性が諦めずに、イエスをどこまでも追い求め続ける姿が描かれている。「わたしを憐れんで下さい。娘が悪霊に苦しめられています」。そうイエスに訴えるこの女性に対してイエスの周りにいた弟子たちはこう思った。「異邦人のこの女には当然の報いだ。神を無視し続けて来たばちが当たったのだ。今更、神に頼ってイエスに救いを求めるなどとは調子よすぎるにもほどがある。いい気味だ。」だから弟子たちは悪びれることもなくイエスに「この女を追い払ってください」と涼しい顔で頼んだのであろう。ただ、そこで考えさせられるのは、その弟子たちに同調するかのように何とイエス本人も、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」と答えた、と聖書が伝えていることである。

 

 

皆さんはこのイエスの言葉をどう思うだろう。どんなことを感じるだろう。イエスの言葉は尤もだ、と思うだろうか。むしろ、イエスは本来、イスラエルだけではなく世を救う救い主であるはずなのに、なぜこんな心の狭いことを言うのだろう、とは思わないだろうか。口に出しては言わないまでも、心の中ではそう感じてはいないだろうか。また、そう思っているクリスチャンはかなりの数に上るのではないだろうか。実は私も長い間、この場面でのイエスはなんて冷たいのだろう、なぜもっと温かい言葉をかけてやらないのだろう、と思い続けて来た。ただ、最近になってこの場面を見てふと立ち止まらされることがある。それは、不思議なことにイエスからそう言われてもこの女性はめげない、諦めない、ということなのである。それどころかむしろ聖書はその後の展開をこう伝えている。「しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、『主よ、どうかお助けください』と言った。イエスが、『子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない』とお答えになると、女は言った。『主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。』」と。このように、はねのけられたかのように見えても、現実には彼女は更にイエスを追い求め続ける。これは常識では考えられない展開ではないだろうか。ここに、何かとても不思議なことが起こっている、ということなのではないだろうか。ただ単に彼女の精神力はイエスも態度を変えるほどに人並外れて天晴なものだった、という話なら、人生に悩める人々はこれを読めば救われる、とか言った見出しで取り上げられてそこそこはベストセラーになるかもしれない。しかしこの出来事が繰り広げられているのは神の言葉を伝える聖書の中でである。であるならば、この時の名もないカナンの女性の姿において神が動いたのだと、言葉では言い表せない神の業が働いていたのだと、そのように受け止めなければならないのではないだろうか。

 

 

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。イエスがそう語ったとされる「イスラエルの家」とは単なる地名ではない。地上に存在するある地域や民族や国家のことでもない。「神の民」のことである。「国籍を天に置く者たち」のことである。一方、この女性の出身地であるカナンとは、聖書ではこの世を象徴する土地柄であった。そこでは誰もが安定を求め、財産や地位を求める地域、自分の土地を耕し農作物を作ることでそこそこの富を得れば安心して暮らせる人々の集合体、という意味を持っていた。広く豊かな土地を持つ者は富み、栄えて安定していくがその一方で土地を持たない者、体に不自由などの弱さをかかえている者は小作人や奴隷となって働かされるしか道がなく、そこでは貧富の格差は広がる一方であったという。何か現代社会と似通っている点が見える気がする。今は大統領選も終盤にさしかかったが、アメリカなども格差が広がり続ける典型であろう。そのような価値観にどっぷり染まっている世界の只中から今、一人の女性がイエスに救いを求めて来る。この女をイエスの取り巻き連中は追い払おうとしているが、彼らの下心は見え透いている。イエスの一番近くにいるポストを皆が独り占めしたかったに決まっている。しかしその時、イエスが彼女に言った一言、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」というあの一言でもってイエスは、彼女が本気でイエスに従って来ようとしているかどうか確かめようとしていた、とは言えないだろうか。「あなたは神の民イスラエルのことを本当に分かっているのか」と、イエスは問いかけているのではないだろうか。それは彼女には試練に聞こえただろう。手厳しく突き放されたと感じたかもしれない。しかし言われなければ彼女は手っ取り早い救いで満足したかもしれない。単に娘の病気が癒えさえすれば良い、それが出来なくて何が神様だ、と思ったままかもしれない。だからこそ、問いかけることでイエスは彼女の目を開かせようとしたのではないだろうか。試練を乗り越えさせようとしたのではないだろうか。であるならば、彼女が諦めなかったのも納得が行く。試練を乗り越えさせることでイエスが彼女を諦めさせなかったのである。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」というイエスの言葉も、カナンの女性の本気度を確かめようとしてイエスが言ったものだとすれば納得が行く。パンが神の言葉だとしよう。福音だとしよう。異邦人のあなたが本気でそれを求めるのか、と正された彼女が「しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」と答えたというのなら、彼女のその姿勢もそれをほめたイエスの姿勢も納得が行く。これは、カナンの女の精神力によって神の子イエスが態度を変えたという話なんかではない。むしろ救いを求める彼女の思い・本気度をイエスは確かめ、立ち止まらせ、一時だけの流行りもので終わることがないように、今の世界を襲うコロナのような荒波が吹き荒れる只中にあっても揺らぐことなく失われることのない信仰へと育み練り清めよう、磨き上げようとするイエスの慈しみに満ち溢れる愛を伝えている。そうして一人一人とどこまでも共にいようとされるイエスの姿をこれは伝える話だと、そう思うのである。

 

 

ともすれば、この女性を追い払おうとした弟子たちのように、世の教会が自分たちだけ心が安らかであればいい、と自己中心的な考えに走っていることはないだろうか。心静かに礼拝に集い、賛美と祈りを合わせていられればそれでいいと自分で自分を満足させようとしてしまってはいなかっただろうか。現に中世のローマ・カソリック教会では、「パンを小犬にやってはいけない」というイエスの言葉に「ごもっともです」と答えたカナンの女性の謙虚さがイエスからの賞賛の言葉を招いた、と教え続けていたと聞く。人間の側の態度如何で主の恵みをも引き出せる、というその教えは確かに分かり易いし魅力的かもしれないが、主の福音とは全く異なっている。人間が考え出したまがいものである。そんな神から恵みを引き出そうとする人間の側の態度や思惑こそ、預言者ホセアは「朝の露、すぐに消える霧」と呼んでいたではないだろうか。分かり易いものに飛びついてすぐに自分で自分を安心させようとする、それが罪ある人間の現実だからこそ、「わたしがあなたがたから求めているのはいけにえではなくて純粋なる愛なのだ」と、ホセアを通して神は切に訴えていたのではなかっただろうか。その神が今、イエスを通しこの礼拝を通して私たちにも問いかけておられる。「あなたは本当に神の民イスラエルを求めているのか」。「神の民にしか味わえないはずの福音というパンを、本気であなたは求めているのか」。これをこの身を排除する言葉と取るのか、それとも本気度を確かめ、育み鍛え、そうしてどこまでも共にいようとされる主の招きの言葉と取るのか。その信仰が私たちに問われている。今すぐに、ではない。しかしいつか必ず「あなたの信仰は立派だ」と主が私たちに語りかけようと、その為に今日この日も礼拝へと神は私たちを招いておられる。今も、これからも、見えないところで主は我ら一人一人を見つめておられる。その主の愛と恵みに応える信仰をご一緒に養われたい、育まれたいと願って止まない。